對酒當歌 人生幾何
    為什麼最後你才説
    愛你一腔萬裡追風的情
    一路問蒼天 一路問長河

    對酒當歌 真情苦果
    為什麼明白了更難過
    恨你那顆乍暖還寒的心
    一半是給了冰 一半是給了火

    對酒當歌 且看日月如梭
    換一個清平世界從頭活
    還你男兒平常心 訴我女兒心中話
    你才是一個你 我才是一個我




 ああ、歌が聞こえる。
 切なく、どこか哀しい歌が―――
 細やかな琴の音とほんの微かな歌声に、周瑜は誘われるように覚醒した。
 薄く両眼を開く。しかし目蓋が腫れぼったく、重みに再び閉じてしまう。すると、目の奥に鈍い痛みを感じた。
 思考に靄がかかり、考えが定まらない。流れる旋律に聞き入りながら、しばし夢と現をうとうとと彷徨う。
 決して巧いとは言えない手だが、不思議と黙って聞いていると心に染み入ってくる。ふわふわと定まらない意識の中、もう一度目を開けた。幾度か瞬き、歌曲の発生源を辿ってゆるゆると視線を左に移動させた。
 低い牀台から見えたのは、痩身の背中。垂らした捌き髪が、爪弾く動きに従って滑らかに揺れる。

(誰だ―――……?)

 周瑜はぼんやりと思考覚束ぬ頭を巡らす。細身だが決して(なよ)やかではない体つきから、侍女でないことは確かだった。
 一瞬孫策かと思ったが、違う。彼は武人らしくもっと逞しい背をしているし、そもそも楽器など嗜まない。見慣れぬ後姿。自分の周りで琴を弾ける者というと誰だろう―――
 顔を拝もうと身を伸ばしかけ、立った衣擦れの音に気付いたのか演奏が途切れた。

「お、目が覚めたか?」

 程よい低さの声とともに振り向いたのは、都の使者―――郭嘉だった。
 思わぬ人物に周瑜は目を瞠る。どういうことだ。何故彼がここに―――
 訳がわからず黙り込んだままの周瑜を尻目に、郭嘉は立ち上がり牀台の側に近づくと、徐に片手を伸ばして今だ驚き顔でいる周瑜の額に軽く触れた。
 ひんやりした指先の感触に思わず目を瞑る。何故こんなにも冷たい手をしているのだろう。しかし反面で今の自分にはその冷たさが心地よくもある。

「うーん、まだ引いてないな―――具合はどうだ?」
「……いえ、特には」

 動揺しつつも、とりあえず問いに答える。喉が張り付いたように軋み、ひどく掠れた己の声に今更驚く。
 それから、未だ明瞭としない視界のまま茫洋と尋ねた。

「……此処は?」
「宮城内にある中護軍殿の室だよ」
「私の?」

 郭嘉はそう、と頷くと、額に当てていた手を外して、牀台から離れる。
 去って行った涼を惜しむように目で追いながら、何故今自分が室にいるのか考える。

(えっと……一体私はどうしたんだっけ)

 思い出そうにも、頭痛と頭重感と気だるさが邪魔をして、考えがまとまらない。

「何か飲めそうか?」

 卓子に向う郭嘉の言葉に小さく是と答えながら身を起こそうとする。
 途端走った激しい眩暈に呻き、体勢を崩す。その音に気付き顔を上げた郭嘉が、おいおいと忠告した。

「無理するな。熱が高いんだから」
「熱―――?」

 両腕をついて身体を支えながら周瑜は不思議そうに呟く。

「そうだよ―――って、もしかして気付いてなかったのか?」

 呆れたと言わんばかりに郭嘉が息を吐く。そういう彼の方が、周瑜にはずっと具合悪そうに見えた。
 気づいていなかったというか自覚が全くなかったというか。それではこの頭痛も、身体の重さやだるさも、すべて熱のせいだと?
 周瑜は気まずそうに郭嘉を見やった。

「あの……それでなんで貴方がここに?」
「ん? なんだ覚えてないの?」

 卓子の上の茶器をもち上げた格好で、郭嘉は意外そうに目を向けてくる。
 そう言われてから、周瑜はもう一度記憶を巡らす。確か意識を失う前、自分は何をしていた?
 ようやく覚醒してきたのか、少しずつ思考が動き出す。そうして薄らながらも意識を失う前を徐々に思い出す。
 そうだ、確か私は―――
 思い出し、にわかに身体が強張った。

(私は確か、あの男たちが狼藉をして……)

 寸前で通りかかった誰かに助けられたのだ。

(そうだ、それで)

 脳に一気に血が通い出した。

「伯符様にはっ」

 バッと被子を剥いで飛び起きる。
 まるで目の奥を槌で殴られたかのような衝撃を感じ、手をつく。

「だから急に無理に動くなっちゅーに……言わんことはない」

 慌てて制する郭嘉の衣を掴み、必死に瞳を開いて訊いた。

「殿に、このことは!」
「あーあー、大丈夫言ってないから、安心しろって」

 郭嘉は瞑目し降参するかのように両手を上げて答えた。
 だから今は大人しく横になっていろと宥められ、ホッとして周瑜は衣を握り締めていた手の力を抜いた。 

「ありがとうございます」

 改めて牀台に身体を鎮めながら、か細く漏らす。
 良かった。あんなことが知れたら、孫策がどんな行動を取るか目に見える。
 それだけは、あってはならない。
 安堵して息をつき、ジッと瞼を伏せる。
 鮮明に脳裏に浮かぶ映像。
 忌まわしいそれを振り払ってしまおうと、瞼に力を入れる。
 そういえば、降り頻る雨の中、力強く自分を呼ぶ者がいた。
 狂気との境が分からなくなった自分を、強く現実に引き戻した声。
 あれは、

「貴方が、助けてくれたのですか」

 気付けば周瑜はそう訊いていた。

「そうといえばそうかな」

 問われた本人はこちらを一瞥する事無く、鼻歌交じりに茶器から杯へ液体を注いでいる。
 いまいち判然としない答えだが、周瑜ははっきりと覚えている。
 暗闇の中、懸命に自分に呼びかけていたのは、確かに彼だった。
 郭嘉は手に湯気を上げる茶杯を持ってきたかと思うと、腰を下ろして牀台の横に正座した。

「起き上がれそうか?」
「なんとか……」

 郭嘉に助けられながら、ゆっくりと身体を起こす。
 半ばまで起き上がった状態で、被子の端が滑り落ち、ふと目を止める。先ほどは底まで気が回らなかったが、よくよく注視すると自分の服が新しいものに変わっている。

「これは貴方が?」

 周瑜の意を汲み取って、郭嘉が「ああ」と言いにくそうに口を開いた。

「いや、あのままじゃ気持ち悪いかなと思ってな。大分身体も冷えてたし、失礼だとは思ったけど勝手に湯殿に入れさせてもらったよ」

 そういえばよく見れば郭嘉の垂らした髪も僅かに濡れている。
 そこではたと、

「ま、まさか貴方一人で?」

 いくらなんでも意識を失った大の男を一人で湯浴みさせるのは至難の技だ。しかも相手は見るからに非力そうな男。
 戦々恐々と問う周瑜に、郭嘉は違う違うと顔の前で手を振った。

「さすがに一人じゃ無理だったからさ、悪いと思いつつも俺の細作に手伝ってもらった」
「細作……」

 周瑜の双眸が僅かに揺れる。
 明言している辺り、郭嘉には自分が細作を使っている事を隠す意思は無いようだ。というよりもこの時世、個人が細作を持っているのは別に珍しいことではない。あるいは周瑜もとっくに気付いているから今更隠す必要もないと判断したのだろうか。
 郭嘉は周瑜の反応に意を介すことなく続けた。

「そうそうそれから……ええとなんて言ったっけ、姪琳? あんたんとこのお嬢さん。いきなり現れたと思ったら中護軍殿を見るなり真っ青になって、とりあえず急いで湯殿とか変えの服とかの用意してもらったんだよ」

 姪琳の名が出て、周瑜はひとまず納得した。だが彼女のことを何故郭嘉が知っているのかまでは頭が回らない。
 相変わらず倦怠感と全身の重さは感じるが、気分は比較的さっぱりしている。湯浴みして汚れ等を洗い落としたからか。細かいところはともかく、郭嘉の心遣いが今は素直にありがたかった。
 此処まで彼女が案内してくれたんだと、つらつら報告される。

「……何故、あの時貴方があそこに?」

 周瑜は静かに尋ねた。
 郭嘉は頭を掻きつつ明後日の方を向きながらも、

「あの時丁度中護軍殿が外に出るの見かけてさ」

 しつこい質問攻めに大分飽いてきた郭嘉が、そろそろお暇を願おうと周瑜の姿を探した時だった。
 どこか具合が悪そうであり、足取りがふらついてた様子が気にかかっていた所に、丁度その後を追うようにして妙な雰囲気の3人組が出ていくのを目にした。何となく嫌な予感がして、しばらくしてから様子見に後を追った。だが表は雨のせいもあって予想以上に暗く、幾程か進んでみたものの結局周瑜たちを探しあぐねて引き返そうとしたときに、不意に雨音に紛れて言い争う声が聞こえてきた。そこで慌てて駆けつけてみた結果、あの現場に居合わせたのだ。

「……何も訊かないのですか」

 何事もなかった素振りで明るくふるまう郭嘉に、周瑜はぽつりと問うた。その表情は硬く、昏い影を宿している。
 郭嘉はふと悼むような眼差しを向け、それからどこか達観した風情で微笑すると、数拍置いてから言った。

「別に。中護軍殿が話したければ話せばいいし、話したくなければ話さなければいい」

 決して形ばかり繕った答えではない。心の傷に気づきながらも無神経に暴くことはせず、あくまで本人の意志を尊重しようとする言葉だった。
 何故この男は、かくも巧く人の心を扱えるのだろう。周瑜は再び瞼をじっと閉じた。目の奥に揺らめく残像。

「今はそんな煩わしいこと考えなくていいから、体調を治すほうに専念しろよ」
「体調……」
「熱出してぶっ倒れたって言ったろ。専売特権を奪われて本当に吃驚したんだからな」

 冗談めかして言われたが、そういえば確かに熱が出ているらしい。
 そうして心が落ち着いてみると、気を失う直前のことがだんだんと蘇ってきて、改めて恥じ入る。
 確か郭嘉の服に思い切り吐瀉しただけでなく、とんだ醜態を見せてしまった。

「しかし、何故熱なんて」
「何故って……そりゃアンタ、風病だからに決まってるだろう」

 郭嘉が何を今更と、訝る。

「かぜ?」

 これではまるで相声(まんざい)だ。自分が物分かりの悪い子供になったようだと、周瑜は頭の片端で思う。
 理解不能とばかりに柳眉を寄せている周瑜に、いよいよ呆気に取られた表情で郭嘉は唇を動かした。

「まさかとは思ったけど、ほんっとーに自分の体調に気付いてなかったんだな」
「どういうことですか?」
「あんた今日ずっと調子悪そうだったもん」
「私が?」

 そんなことは、と呟く。別段変調など―――

「いつもの通りだったと思いますが」
「あのな」

 周瑜の受け答えに、郭嘉が一転語気を強めた。
 目を据わらせ、人差し指を周瑜の鼻先に突きつける。

「病弱体質を馬鹿にするなよ。言っとくがな、病を語らせたら百戦錬磨、経験豊富な俺から見たら、あんたの顔色は完全に風邪の兆候が出てた」

 あまり自慢にはならないような内容を胸張って言われ、周瑜はやや怯む。

「だから普段は酔いもしない酒に酔ったりするんだ」

 どこか悔しげなその表情と口吻に、ハッとする。そうか、彼は―――怒っているのか。己の身に鈍感な周瑜に。そしてあんな輩に狼藉を許してしまった状況に。
 そんな感情の揺らぎを嘆息一つで散らし、郭嘉は肩を竦めて踵を返した。
 どこへ行くのかと、声には出せず目で追えば、窓辺に腰掛けただけだった。けれどその姿はまるで拗ねてるみたいだ。
 沈黙が落ちる。
 しとしととした音が室に静かに響いた。
 郭嘉は、部屋の半蔀の傍で、頬杖をつきつつ外を眺めている。
 ひと時、場を柔らかく包む静寂。
 その心地よさに周瑜はそっと瞑目する。
 しばし韻に浸った後、何度か瞬きを繰り返し、じっと手の中の器に揺れる水面を見つめた。見つめながら、ようようぽつりと言葉を零した。

「昔―――
「ん?」

 郭嘉は振り向いた。拗ねていたわけではなく考え事をしていたらしい。

「ずっと昔に、未遂でしたが暴漢に遭ったことがあるんです」
―――

 突然の告白に、郭嘉は黙り込む。聞いているのかいないのか、フイ、と再び格子の向こうを仰いだ。
 周瑜は震えるように細い息を吐いた。
 意識すると、それまで気づかなかった外の雨音が、俄かに耳に入ってくるようになった。

(そうか、今夜は雨だったな)

 今更のように胸中で一人ごち、茶碗に目を注いだまま静かに続けた。

「相手は同世代の少年達でした。武芸は仕込まれてはいましたが、当時の私はまだ他の者に比べて成長が遅くて非力で、複数人で寄って集られば抵抗できませんでした。そして気付いたときには私は館の牀の上にいて、伯符が……伯符様が上から覗き込んでいたんです」

 あのときの、怒ったような、泣きそうな孫策の表情が、焼きついていて離れない。
 周瑜を見つけて、必死に運んだのは孫策だった。幸いというべきか、相手もまだ幼い者たちであったから結果的には未遂で終わっていた。けれど孫策は、後日首謀者の少年達を割り出して、怒り狂うまま仕返しをしたらしい。駆けつけた大人たちが止めなければ、もう少しで殺すところだったと、後から聞いた。あの時はそれでもまだ、子供同士の間のいざこざということで何とかなった。しかし今は違う。孫策には立場があり、周瑜にも上に立つ者としての面子がある。ここで孫策が再びあのことを繰り返しては、子の喧嘩に親が出てくるようなもので、皆にも示しがつかない。その上、周瑜自身の沽券にも関わってくる。だから周瑜は決して孫策に知らせてはならないと思った。
 返事はない。相槌をするでもなく、郭嘉はジッと黙って佇んでいた。
 周瑜はふと窓に首を向けた。

「丁度、こんな雷雨の日でした」

 風が暴れ、雷が轟き、飛礫のごとき雨が降り注いだ、あの夜。

「それ以来、雨の日は駄目なんです。特に激しい雨は。否が応にも思い出してしまうから」

 独りごとのように呟き、そしてフッと自嘲を唇に刻む。

「女であればともかく、仮にも軍を率いる将ともあろう大の男が、こんな風にいつまでも引き摺るなど……我ながら情けなくて嗤える」

 女々しいことこの上ない。
 この男はどう思うだろう。同情するだろうか、あるいは軽蔑するだろうか。いずれにしても、どちらでもいいと思った。

「関係ないだろ」

 しかし間をおかずに返って来た言葉が、あまりにもはっきりとした否定であったものだから、周瑜は一瞬虚を突かれた。
 当の郭嘉の視線は、周瑜ではなく窓外の雨空にあった。だがその面持ちはいつになく無表情だった。

「男だとか女だとか、あるいは大人だろうと子供だろうと関係ない。誰しも嫌なことをされれば嫌と感じる。特に性的な暴力は、それだけで拷問にもなるほど精神的にも肉体的にも苦痛が大きい」

 それは、静謐でいて強い響きのある声音だった。

「意思を踏み躙られれば辛い。尊厳を汚されれば苦しい。普通の人間なら当然の感情だ。そこに老若男女の差なんてない。男なら平気なのか、痛まないのか……そんなわけはない。女なら女として心に深い傷がつく。男ならば男として心に耐え難い屈辱が刻まれる。ましてや感情が不安定な少年期ならば尚更だ。それを嘲笑う奴など放っておけばいい」

 周瑜は打たれたように動けなくなった。思いもよらぬ回答だった。いや―――もしかすると誰かに言って欲しかったのかもしれない。痞えていた塊がほんの少しだけ軽くなる。
 郭嘉は穏やかに目を細め、言った。

「なぁ、中護軍殿。一人で耐えすぎるな。人間一人で解決できることなどたかが知れている。辛い時は辛いって言っていいんだよ。苦しい時は苦しいってな。弱っている時は、少しくらい他人に甘えていいんだ。度が過ぎればただの軟弱者だが、あんたの場合は少しくらい許されてもいいと思う」

 それからすこしおどけた風に、

「弱音は吐けるときに吐いておけ。いずれ絶対弱音なんて吐けない場面が来るんだから、許されるうちにできるだけ正直に口に出しておくほうが賢明だぞ」
「……随分説教臭いことを」
「そりゃ俺のほうが五つ年上だからな。ありがたい先達の教えと思って聞いとけ」

 風邪とは往々にして人の心をも弱くするものらしい。周瑜はゆるりと込み上がってくる衝動を誤魔化すように首を垂れた。
 本当に、適わない。
 最後の警戒の糸が薄氷のように砕ける。己の裡のその音を聞きながら、静かに双眸を伏せた。

「ありがとうございます」

 許都の大使は、ようやくにこりと笑んだ。
 それからその笑みを今度は何かを企むようににやりとさせる。
 悪戯好きそうな光が水晶のような瞳に踊った。

「で、どうする? 暗がりで一瞬だったが、俺はあの三人の顔を見たぞ」

 そう言い、一呼吸おいてから、

「あんたはもう無力な子供でも、ましてや非力な女でもない。―――このまま何もせずただ無き寝入り、なんて柄じゃないだろう?」

 周瑜は一時瞠目するも、すぐさまひやりとした微笑に変える。

「無論です」

 力強く宣言した。

「あの三人には私にも心当たりがあります。この落とし前はこの手で必ずつける」

 孫策でも、そのほかの誰でもなく。
 この自分を侮ったことを後悔させてやろう。二度とこんな愚かなことを考え付かぬように、徹底的に。
 普段の光と調子を取り戻した様子の周瑜に、郭嘉は微笑んだ。
 これだけ力源が戻れば、もう大丈夫だろう。
 心の迷宮に囚われることもない。

「さて、長話は体に障るだろう。そろそろ横になったほうがいい」

 飲み干した茶杯を周瑜の掌中から抜き取ると、周瑜が身を横たえるのを確認してから立ち上がる。

「もう少し眠っておけ。そのうちあの娘が粥か何か運んでくるだろうから」

 首だけ振り返ってにやりと口角を上げると、

「あんだけ豪快に吐いてたからな、今胃ン中空っぽだろう」

 周瑜は思わず目線をあらぬ方向へ反らした。……確かに、体面も何もなく郭嘉の服に吐き掛けた気がする。
 思い返せば返すほど、穴にでももぐりこみたい気持ちになった。

「これじゃこの間と全く逆だな」

 ははは、と明るく笑われ、周瑜は最早返す言葉もない。

「面目の次第も……」
「いいって。さて、俺はそろそろ退散しよう」

 そう言って室を辞そうとした郭嘉の足を、周瑜の声が遮った。

「何だ、もう行ってしまうのですか」
「え?」

 静かな響きの中にある強い芯に郭嘉は自然と振り返らせられた。聞き間違えたかと思ったのだ。
 周瑜は枕に頭を乗せたまま、首だけをこちらに向けてジッと見つめている。あまりに凝視されるものだから、さすがの郭嘉もたじろぐ。

「いや、そりゃ……万一人に見られたら変な風に思われるだろう?」

 確かに風邪で寝込む中護軍と看病する勅使では解釈に困る図である。
 郭嘉としてはいらぬ勘繰りをされぬうちに早々に立ち去るが吉だと考えていたのだが。

「大丈夫です。姪琳ならばきっと状況を察して人を近づけさせぬようにしてあるでしょうから」

 姪琳は細作としては落ち着きが無く危なっかしいが、そういうところはよく気回りの利く娘だった。

「別にお急ぎではないのでしょう?」
「いやまぁ、確かにそうだけど」
「ならもう少し付きあってください。一度目が冴えてしまうとなかなか寝付けない性質でして」

 暇なんです。柔和ながらも断固とした声音に、郭嘉は意外性を感じてぱちぱちと瞬く。

「弱っているときは少しくらい他人に甘えていいのでしょう?」

 多少の我儘、聞いてくれますよね?と極上の笑みを浮かべた。噂に違わない、そのあたりの女性よりも美しく凄艶とした笑顔。
 郭嘉は当惑気味に瞳を泳がせて頭を掻いた。

「しょーがないなぁ……中護軍殿の仰せのままに従いましょう」

 降参したとばかりに嘆息を漏らし返した踵を元に戻すと、周瑜はしてやったりとばかりな楽しげな表情を見せた。

「さて、ではご要望は?」

 周瑜は数拍逡巡した後、では、と口を開いた。

「先ほどの琴―――あれを、もう一度弾いていただけませんか」

 郭嘉は軽く瞠目したが、すぐに小さく微笑すると、了解、と言って、琴に向かった。
 しとしとと雨降る深夜の城の一角から、細やかな琴の音が天糸に紛れるように響いでいた。




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冒頭の歌詞はドラマ『曹操与蔡文姫』のED曲




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