無数の雨の糸が降り注ぎ水の幕を作る中、その薄幕の向こうに影が走る。
 闇と滝雨に隠れるように素早く移動する様は、まるで紗の布を通して見る影絵のようだ。
 影は辺りに人がいないことを確認しながら、足を止めずに庭院を突っ切る。目的を果たし、室へ戻る途中である。彼は濡れて張り付く後れ毛を払いもせず、ふと室にいない主へ思いを馳せた。
 彼の主は雨の日が苦手だ。気分が乗らないということもあるのだろうが、今日は特に身体の調子を壊し気味だった。今頃は酒宴の最中だろう。酒の気で具合を悪くしてないかが気にかかる。
 やや青い顔色で宴の場に向かう主に、彼は大丈夫なのかと訊いた。だが彼の主は「さすがにこれは断るわけにはいかないからな」と苦笑して、室を出て行った。
 ふと天を仰ぐ。放射状に落ちてくる雫の向こうの暗雲を見ながら、滅多に動かぬ眉を微かに寄せた。
 と、その時。

「動くな!!」

 甲高い声が雨の幕を貫いた。
 振り向けば、少女が一人、雨に打たれながらこちらへと刃を向けている。
 目元を残して黒布で顔面を覆って入るものの、愛らしい顔立ちをしているのは想像にたやすかった。が、まとう雰囲気は外見に不似合いな闇に生きる者のものだ。
 そういえばこの間尾行てきた者がいたが、あの時の細作か、と記憶を巡らす。おそらく中護軍仕えの人間だろう。
 あの時はうまく撒いたが、今回はなかなか一筋縄ではいかなそうだ。

「ようやく捉えた……今度こそ逃がさん!」

 叫ぶや否や斬りかかって来る。ひらりとかわしながら、彼は考えた。

 ―――逃げるべきか、戦うべきか。

 少女の腕はなかなかのものだったが、彼の方が一枚上手だった。
 腰の短剣に手を伸ばし、柄を握る。見る限り少女は人を殺めることにまだ経験がないようだったが、自分は違う。女子供であろうとも、冷徹に凶刃を振り下ろせる。その気になれば少女を一刺しで絶命することも可能だ。だがそれをすればきっと彼の主へ迷惑がかかる。
 この雨だ。視界は最悪である。うまく敵の隙を付いて逃げ遂すことも難しくはない。
 そう考え実行に移す機を見計らっていたところに、ふと雨に混じって微かに人の気配を感じた。
 はっとして庭院に接している北の走廊を見やった。すると、向こうのほうから縺れ合うように二つの影がよろめきながら進んでくる。よくよく目を凝らせば、そのうちのひとりは見間違えるはずもない人物。
 ぐったりとしたもうひとりの腕を肩に回し引きずっている。重みに耐えるように、肩で息をしながら運んでいる。うまく均衡が取れないのか、足元が覚束ない。そもそもそんなに力に自信のあるほうではないはずだ。
 そして、その運ばれている片側の人間は―――

「公瑾様!!」

 やにわに、少女が叫んだ。
 一転顔を真っ青にして、眼前の敵を放り出し、駆け出す。
 なんとそれは、何故かずぶ濡れで服もボロボロにしながら気を失っている少女の主と、同じようなていでそれに肩を貸す彼の主という、なんとも奇妙な組み合わせだった。




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