正直なところ、周瑜は宴会というものがあまり得手ではない。
 酔いが回ると皆楽しげにやんやと騒ぎ出す。賑やかなのもいいが、周瑜はどちらかといえば夜韻に浸りつつ静かに酒を飲むのを好む方だった。特にほとんど酔うことがない周瑜は、酒に呑まれ興奮する連中の、独特の調子についていけない。羽目を外した言動にもただ苦笑を浮かべるばかりだ。
 幼馴染の孫策はやはり酒には強い性質だったが、元より乗りがいいので、そういった苦もなくわりと自然に溶け込める。それを素直に羨ましいと思うも、やはり周瑜には真似できないことだった。
 それでも宴となれば、立場上出ないわけにはいかない。大抵は孫策と談笑しているが、彼も一応は主君の身なので、一所に居続けることはできない。他の部下達に声をかけ回るのも、上に立つ者の仕事だ。
 だからそうなると自然、同じように酔いもせず、といって騒ぎの中にも入っていかずの呂範と、少し外れたところで無礼講を傍観しつつ語り合ったりしている。

 ところが今回の宴席では、いつもと少し勝手が違った。
 孫策は今回の勝利に上機嫌で、諸将たちからの賛美を浴びていつも以上に舌がよく廻っている。とても話し掛けられる状態ではない。
 ならばと呂範を目で探せば、彼は誰かと熱烈討論中だった。
 その他の同僚を見ても、やはり誰もが誰かと弁を交していて、邪魔する気にはなれなかった。
 別にだからといって周瑜が一人あぶれてぽつねんとしているわけではない。むしろこれや好機とばかりに様々な者が話し掛けきて、煩わしいくらいだ。羨望と、尊敬と、かすかな嫉妬を含んだ何対もの眼に晒され続けるのは正直気持ちのいいものではない。こともあろうに酒がいきすぎて劣情めいた流し目をしてくる者でもあった日には、この酔っ払いが、と一喝してやりたい心地に駆られた。

 それらに微笑を浮かべて適当にあしらいつつ、心の中で憂鬱そうに嘆息しながら、ふと気になる人物に目を向ける。
 今回の影の標的ともいえる件の都の勅使は当然ながら一番上手に座っている。中央は宴の主人―――つまり孫策の席であり、そこから見て左側の列の先頭になる。周瑜は右側の何席目かであるから、位置的にはわりと近い間隔で斜向かいに対面する形になる。
 酒宴にやや遅れて姿を見せた郭嘉は、先ほどから幾人かにしきりに話し掛けられては、それにひとつひとつ根気よく応じている。敵意と強い好奇心が混ざった人々の質問攻めに、読めない笑みで答えながら、どこか疲れた様子でもあった。
 幕僚達はなんとかこのいけ好かぬ使者の言質を取ってボロを出させようとやっきになっているらしかった。かなり嫌らしい狡猾な質問を練りだしているが、いずれも巧い具合にのらりくらりと躱されている。そうして不成功に終わった者たちが悔しそうに離れていくのだ。
 当然だ。彼ら程度では弁舌で彼に適うわけが無い。
 そもそも格が違う、と周瑜は心の内で思い、酒杯を置いた。
 何故だか気分が悪かった。
 少し外気に触れて気分転換をしようと立ち上がった途端、クラリと視界が回った。

(飲みすぎたか?)

 だが自分ではさほど飲んでいなかったように思う。というか、そもそもどんなに飲もうと酔わぬはずなのに。
 心なしか頭が重い。眼窩の奥にずんとした重みを感じる。瞼を閉じれば前後不覚になりかねない程の足元の不安定さに襲われた。
 疲れているのだろうか。そう言えばここのところ夜半過ぎまで仕事を処理していて、あまり寝ていない。そのせいで普段はないはずの酔いが回ってしまったのかもしれない。
 そう考えて、周瑜はゆっくりと勾覧を目指し足を動かした。目的は変わったが、やはり外の風に当たって酔いを覚ました方が良さそうだ。
 皆宴会に盛り上がっている。殆どが周瑜がそっと広間の外へ出たのに気づかなかった。




 表に出てみると、一転してひんやりとした空気と冷たい飛沫にふと頭がはっきりする。
 続いて激しい雨音が耳に入って来て、ようやく今日が雨だったことに気付いた。
 広間の中に居る時は人々の騒ぎで気付かなかったが、かなりの大雨である。遠くで雷音が鳴っている。風も吹いており、勾覧の外から入ってきた雨雫が廊下を濡らしていた。
 裾を濡らさぬよう慎重に移動しながら、広間から距離を置く。できれば喧騒から少し離れたい。
 一旦そうしてしまうと、広間の中とはまるで隔たれた別世界のように錯覚した。

(いっそこのまま帰ってしまおうか―――

 そんな誘惑が頭を擡げる。屋敷へ戻れば、晶が優しい笑顔で迎え出てくれるだろう。そして暖かい部屋で、暖かい食事を用意してくれる。
 いつになく弱気になっている自身に気付き、苦笑する。これもこの雨のせいだろうか。
 ―――忌まわしい過去を髣髴と思い出させる、この雨の。
 ぼんやりとした足取りで、回廊を進んでゆく。
 気がつけば、大広間からは大分離れた所まで来てしまっていた。
 この時間、ほとんどの部署が仕事を終え、官吏は宴会に出席するか、その他はすでに帰ってしまっている。当然どこの室にも明かりなどなく、人気も無い。帰宅の際に迷わぬための吊燈篭は、今や風雨のためほぼその役割を果たしていない。
 絶え間ない雨の音だけが響く、誰もいない暗い回廊。
 ぞくりと、脊髄を通って何かが這い上がってきた。
 駄目だ。ここは、いけない。
 脳裏に過去の光景が閃く。
 動悸し、足が竦むように止まった。

―――戻ろう)

 眼裏にちらつくものを頭を振って消し、この場から早々に去るべく踵を返す。
 と、その刹那にドンッとぶつかるものがあった。

「おおっとぉ」

 水音に混じって身近に降り注いできた声に、ハッと周瑜は足を退いた。
 月も星も、およそ明かりとなりそうなものは雨雲に隠れて今は無い。遠く離れたところから零れてくる宴の明かりだけが、ぼんやりと浮いている程度だ。
 薄い暗闇の中、はっきりとは見えないが、三、四人の男の影が浮かんでいる。少し闇に目が慣れると、遠くの光だけでもその輪郭が何となく判別できた。いずれも、どこかで見た顔である。

「これはこれは、周中護軍殿じゃないですか」
「おやまァ、こんなところでおひとりで何をなさっておいでで?」
「どうかなさいましたかァ?」

 三人がにやにやと訊いてくる。言葉使いや体つきからすると恐らく武官であろうが、確実に周瑜より下位の者だ。
 酒臭い吐息が色濃く漂っている。少し呂律の回らない口調からも、男達が完全に酔ってことが知れた。
 それ以上に、眼が尋常ではない。
 周瑜は僅かに嫌悪感を感じつつも、努めて表に出さぬよう冷静に答えた。

「少し熱気に当てられたゆえ、外気に触れていただけだ。今戻ろうと思っていた」
「具合がよろしくないんじゃないんですかい? 顔色が悪いですぜ」
「それはいけねぇなぁ」
「いや、平気だ。なんともないので御構い無く」
「いやいや、体調が良くないんでしたら大問題だ。何せこの江東にとって大事な御方ですからねぇ」

 柄にもなく舌打をしたくなった。同じ言葉でも、妻の晶から言われるのとではこうも感じ方が違うものかと思う。頭が悪い上に酒が入っているからなお性質が悪い。元々田舎豪族の寄せ集めみたいなものである東呉は、こういったならず者上がりや侠客が多い。戦では大変勇敢だが、平生は粗暴であるという反面を持っている。
 執拗に絡んでくる三人を刺激せぬよう、周瑜は慎重に言葉を選んでこの場をすり抜けようとした。

「貴殿らの気遣いには感謝する。だがもう問題はないゆえ、このまま宴席に戻ろうと思う。きっと殿も心配なさっておられるだろう」

 孫策の名を出せば、いくら傍若無人なこの男達でも怯むだろうと思って口にする。威を借るようで何だが、てっとり早くかつ穏便に済ませるにはこれが一番なのである。
 ところが男達の行動は周瑜の予想の範疇を越えていた。

「このまま殿のところへ戻ったらそれこそ心配なされると思いますぜ」
「俺達も、どうしてゆっくり休ませなかったのかってお咎めを受けちまいますよ」
「その通りだ。俺達の良心が痛みますしねぇ」

 何が良心だ、と周瑜は胸中で悪態づく。
 尤もらしい事を並べ立てて、とりあえず自分を引き止めようとしているだけのくせに―――
 そこまで思って、周瑜ははたと思い至る。
 何故彼らはこんなにもしつこく自分に絡むのか。
 何故大広間に戻る事を妨げるのか。
 何が目的でそんなことをするのだろうか。
 はじめはただの絡み酒だと思っていた。日頃の鬱憤で、上層司令官の周瑜に嫌がらせをしようとしているだけだと。
 だがそれにしては少々様子がおかしい。
 酒で眼球を赤らめた男たちが何を狙っているのかが分からず、周瑜は焦燥を抱いた。
 その心情の動きを見計らったかのように、男の一人が突如行動に出た。

「こっちで休みましょうよ」

 腕を強く掴まれ引かれる。咄嗟のことに対処しきれず、またいつにない酔いで、周瑜は不覚にも大きくよろめいた。

「おっと―――本当に酔ってやがる」
「こりゃいい」
「中護軍殿、あっちで俺達が介抱してさしあげましょう」

 嘲笑交じりの笑声に、怖気が走る。

「放せ……」

 喉の奥から搾り出すように言う。嫌な予感が背筋を冷たくする。

「いやいや、休んだ方がいいですぜ」
「俺達がやさしーく介抱してさしあげますから」
「放せと言っている!」

 にやにやと下卑た笑みを浮かべる男達へ、周瑜はとうとう声を荒らげた。
 腕を掴む力は逆に強まるばかりで、解放の兆しすらない。
 それどころか「いいからいいから」と三人がかりで身体を引き摺られる。

「命令が聞けぬか!」
「お綺麗な顔して、随分口は乱暴だなぁ」

 周瑜は再度舌打ちの衝動に駆られた。
 剣は宴の場に置きっぱなしだ。持って出てこなかった自分の迂闊さを後悔する。
 大声で騒ごうとも、この激しい雨では雨音に掻き消されて大広間までは届かない。
 周瑜だって曲りなりにも武官である。だが三人の屈強な男たちに掴まれて抗えるほど、残念ながら筋力に富んでなかった。
 無理矢理連れ込まれたのは、奥まった回廊の隅。室の壁が影になって、表からは見えない。
 男達はそこへ周瑜を放り込むと、仰向けに押さえつけた。
 周瑜の双眸に恐怖の色が走る。
 脳裏に蘇る光景。
 大雨の中、見下ろしてくる複数の黒い影。
 冷たい汗が背筋を伝う。
 気持ち悪い。酔いで目が回る。

「止めろ!」

 思い出したくもない記憶。今ここにいる自分ごと葬り去ってしまいたい。
 混乱のまま四肢を暴れさせる。

「うるせぇなぁ」
「今から気持ちのイイことしてやるっていうのに」
「こんなことをしてただで済むと思っているのか!」
「うっせぇ、黙れ!」

 右頬に熱と衝撃が走る。撓んだ痛みとともに口の中に錆びた味が広がった。どこか切ったようだ。

「てめぇのスカしたその面、いつも気に食わなかったんだ」

 もの凄い力で床に押さえつけられる。石の固さが背に痛みをもたらした。
 男たちのゴクリと唾を飲む音に、怖気が走る。
 言い知れぬ嫌悪感と恐怖に支配され、全身が竦む。
 両眼を限界まで見開いて凝視した。眉間を伝い流れ落ちる汗。目の前の光景に重なる別の影。
 過去の残像が閃回する。四肢を押さえつける手。
 ―――嫌だ
 服を剥ぎ、素肌を弄る。
 ―――触れるな
 ぶれて重なる五感。どっちが『今』で、どちらが『過去』なのか、境が分からなくなる。
 絶え間なく続く激しい雨音。
 ―――誰か
 轟く雷鳴。
 吹き荒ぶ風。
 ―――やめろ!!

「何をしている!!」

 突如暗雲が切り裂かれたかのように、鋭い声が空間を貫いた。

「お、おいヤベェぞ!」
「逃げろッ!!」

 思わぬ通行人の出現に、男達は慌てて身を翻し散った。
 制止する声が追うが、それよりも速く立ち上がった周瑜がその人物の横をすり抜け、風雨降り頻る庭院へ飛び出した。

「周瑜殿!」

 聞いたことがあるような声を耳にしたが、周瑜は立ち止まらなかった。
 今は誰にも会いたくない。今の顔を誰にも見られたくない。あんな場面を見られた直後では。こんなに感情が波立ち定まらない状態では。
 全面に強い雨飛礫が当たる。
 風に髪が、袍が攫われる。
 しかしそれすら気に止まらない。
 いっそすべて洗い流してしまいたかった。
 忌まわしい記憶ごと、おぞましい感触ごと、何もかも全部。
 吐き気が胸一杯に膨らみ、込み上がって来た気泡が喉を詰まらせる。
 思わず口元に手をやる。気持ち悪い。あまりの嘔吐感に目が回る。
 腰ほどまである細草の茂みを掻き分け、脇目もふらずに駆けた。
 まるでその記憶から逃げるように。
 やがて足がもつれ、そこにしゃがみこんだ。
 激しく降り注ぐ雨の中、口と胸元をそれぞれ抑え、蹲る。
 あまりの嘔吐感に嗚咽が漏れそうになるのを奥歯を食いしばって堪える。
 不穏に起伏を繰り返す心臓を、喘ぐように呼吸してなんとか落ち着かせようとした。

「周瑜殿!」

 強い声音が、不意に耳元で響いた。
 ぐい、と肩を引かれる。
 反射的に顔を上げた周瑜が目にしたのは、今や自分と同じようにずぶ濡れになった男の姿。闇の中、必死の眼差しを向ける双つの瞳が、揺ぎ無い強い光でこちらを射ていた。
 今は大広間の上座に座り、官たちに囲まれている筈の存在。
 阿諛追従やしつこい問いにも、飄然とあしらっていて。それを見て嫌な気分になって。
 混乱の中で、確かに周瑜は彼を見た。辺りは暗闇の筈なのに、何故かその姿だけはハッキリと捉えられた。

(こら)えるな!!」

 激しい轟音の中、郭嘉は声を張り上げた。

「我慢するな、吐け!!」

 雷鳴にも、雨風にも負けぬほどの大きく強い声音。
 跪き、向かい合うように肩を引き寄せ、叫ぶ。

「俺のことは気にしないでいいから、吐いてしまえ」

 その声に。触れた肌の暖かさに。
 周瑜は、自分の中の堅い堰が決壊する音を聞いた。
 喰いしばっていた口が解け、呻きながら嘔吐する。
 涙を流しながら、胃の中に入っていたものを残らず出すかのように、吐いた。吐いて吐いて、吐くものがなくなれば、黄色い酸を吐いた。あまりの苦しさと辛さに喘ぐ。肺が呼吸を求めて軋む。それでも嘔吐感が止まるまで、周瑜は背を丸め、郭嘉の両腕に縋りつきながら吐き続けた。

「もう大丈夫だ」

 その間も郭嘉はずっと周瑜の背を擦っていた。辛抱強く周瑜が落ち着くのを待つ。服が汚れるのも厭わず、ただただ優しく撫で続け、大丈夫だと宥めるように声をかけた。
 冷たい水飛沫のなかで、周瑜は不思議な安堵感が広がっていくのを感じた。それは言うなれば幼い頃母に抱かれていたときととても似た感覚。自分の中で頑なに存在を主張していたものが、自然に溶けてゆく。
 雨と吐瀉物と涙でぐちゃぐちゃになりながら、周瑜は只管声が枯れるまで嗚咽し、喉が痛むまで慟哭し、そしてやがて意識は混沌とした暗闇に沈んでいった。




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