昔から、自分の体調にはとんと鈍かった。別に自分としては多少熱っぽくとも辛くもなんともないから、いつも通りすごして、そのうち倒れて孫策や周りの皆から叱られた。
 もっと自分を労われと。身体を大事にしろと。
 幾度も幾度も、口を酸っぱくして言われた。
 しかし何度言われてもこればかりはどうにも治らない。自分としてはいつもと変わらぬつもりであるし、何より、自分はこんなところで不調などにかまかけなどいられない。
 弱さを見せてはならない。甘えてはいけない。
 私には、やらねばならぬことがあるのだから―――




 朝起きる時、少し違和感を覚えた。身体に錘でも乗せられたみたいに起き難く、睡魔の余韻から覚めるのにいやに梃子摺った。しかしこのままでは議に遅れてしまう。なんとか気力を振り絞って上体を起こす。その過程も、まるで泥沼から無理矢理這い出すような不快感だった。
 しかし一旦起きて頭が冴えてしまうと、そんな感覚は綺麗さっぱり消えた。まどろみの中のことだったので、身体が重いという感覚も気のせいだったように思えてくる。
 多少節々に軋むような痛みを感じたが、寝方が悪かったのかもしれぬ、さして珍しいことでもない、とさほど気に留めず、周瑜はいつもどおりの調子で牀台から降りると、側付けの卓に置いてある盤に水を張り顔を濯いだ。
 朝のひんやりとした冷水が肌に心地よい。冷たさを実感することで本格的に目も冴えた。
 妻の晶はすでに眼を覚ましていたようで、周瑜が起きた気配を察して室を覗きに来、いつものように支度を手伝う。髪に櫛を通して器用に結い上げ、きっちりと巾と組紐で纏めた。
 寝着から出仕用の官服に着替え、準備を整える。
 ここまで全く不調はなかったのだが、朝餉を食べる段階でふと空腹感がないことに気がついた。
 あまり食べたい気分ではなかったのだが、作ってくれた料理人のことを慮り、申し訳程度に口をつけて、あとは下げさせた。

「夫君、どこかお加減がよろしくないの?」

 あまり減った様子のない食事に、晶が心配げに顔を曇らせる。
 人々から小喬と呼ばれる彼女は、そんな表情でさえなお美しい。

「いや。どうして?」
「あまりお召し上がりになっていないようだから。顔色も冴えませんし」
「そうかな? 少し食欲がないだけで、別段どこも具合悪くないよ。ここの所忙しくて寝不足だからね、そのせいかもしれない」
「左様ですか?」

 そう言いながら周瑜の額にそっと白い指先を当てる。

「熱は無いようですけれど……お風邪を召し始めているのかもしれません。今晩は精のつくものを用意させましょうか」
「ああ、残念だけど、今日は主殿で酒宴があるんだ」
「あら、そうでしたの?」
「うん。この間の内乱が無事鎮圧できてね。今夜はその勝利の祝宴だよ」
「そう」

 晶は少し不服そうに呟く。
 彼女としては酒宴なんかよりも、早々に館に帰ってきてゆっくり休んで欲しいのだ。
 その気持ちが分かるから、周瑜もあえて言及しない。
 ただ柔和に微笑み、額に当てられたままの晶の手を取って立ち上がった。

「それじゃあ行ってくる」
―――ええ、お気をつけて」




 朝議の間に向かう走廊から空を仰げば、どんよりとした雲がたれこめていた。
 かすかに空気中に雨の湿った香りを感じる。今日は一降りくるかもしれない。
 周瑜は足を留めぬまま、灰色の空を見て眉を寄せた。
 ―――雨は嫌いだ。特に風雷を伴う激しい雨は。
 記憶の奥底から、思い出したくもないものを否応なく引き摺り出すから。
 周瑜はふいと曇り空から目を逸らし、閉じる。
 そして何かを振り払うように顔を引き締めると、毅然と朝議の間へ歩を進めた。




「雨だなぁ~」

 窓の桟に片肘をかけ、ぼんやりと空を眺めながら郭嘉はぼやいた。
 午後になった辺りから、一気に降り出したのだ。
 おかげでまだ昼だと言うのに、あたりは夕暮れのように薄暗い。
 こういう日は意味もなく気が滅入ってくる。

「もっとしとしととした風流な雨なら趣も感じられようが、こんな大雨では趣も何もあったもんじゃない。大体にして雨天は決まって具合が悪くなるんだ俺は。どうしてくれるんだ」

 ブツブツと一人文句を垂れている。口調は軽いが、事実雨の日は郭嘉は調子が悪い。身体はだるいし、頭痛はするし、酷いときは体調を崩して熱を出すこともある。空気中の何かの影響なのかどうかはよく分からないが、よく言う「古傷が痛む」というのと似たようなものだと郭嘉は思っている。
 だから雨の日の郭嘉は機嫌もあまり良くない。それが体調不良から来るものだと許都の仲間なら知っており、それなりに気を回して暖を用意したり薬湯を勧めてくれたりするのだが、ここは江東。生憎そんな気遣いをしてくれる者はいない。

「そんなところで外気に触れておられては余計具合が悪くなるだけですよ。雨に濡れれば風邪も召されましょう。蔀を閉じて内においでください」

 床に跪く細尊が、無感動な目で主人に進言する。
 感情の抜けたような声のなかに気遣わしげな響きを聞き取れるのは、長年従えている郭嘉ぐらいである。
 郭嘉は自分の身体を案じてくれる従者に薄く笑みを向けた。

「今宵の話を聞いたか?」
「『勅使を招いての酒宴』ですか」

 先だって周瑜から告げられた話によれば、今夜孫策が宴を開くのでそれに出席して欲しいとのことだった。そもそもはこの度、領地下で起きたさる豪族の反乱を鎮圧したことの戦勝祝いが主旨なのだが、許都の使者をその祝宴に出席させて、江東の兵がいかに優秀で強力かを見せつけようとする魂胆なのだろう。
 あからさまな意図。どこか子供じみた見栄と意地に郭嘉は苦笑する。

「別にそんなことしなくとも、誰も過小評価も過大評価もしたりしないんだがねぇ」

 雨天を見上げながらぼんやりと嘯く。下手な演出はそれだけで逆に本質をあらわにする。

「それで、例の件は?」
「滞りなく」

 細尊は声音を低め、短く答えた。
 例の件―――郭嘉がかの細作に命じたのは、江東の軍組織の構成、指令系統、兵力、武器数などといった軍事的情報から、穀物の貯蓄量、収穫数、治安などの内政に関わる諜報だった。
 今のところ半数は手に入れられたが、軍事関係はさすがに守備が堅くてなかなか細かいところまでは調べられなかったようだ。

「やはり警戒が厳しくなっております。見張りや巡回の交代時にも決して隙を生じさせず、蟻一匹も逃さぬと言わんばかりの厳戒態勢です。それでいて完全にこちらの退路を塞がないあたり、泳がせるつもりなのでしょう。それだけでなく、様々にそれと分からぬよう『罠』をしかけてあります」

 淡々と紡がれる報告は、下手をすれば引っ掛かってしまうだろう偽情報の存在を示唆していた。

「嘘か真かってやつか―――いいよ、明らかに引っ掛けだと分かるもの以外、得た情報は残らず報告してくれ。あとで俺が分析して判断を下そう」
「御意」
「指令を敷いたのは?」
「恐らく中護軍ではないかと」
「ふぅん、やはりな」

 郭嘉は頬杖をついたまま、にやりと口端を上げた。

「何を使ってどこを狙ってくるかしっかり掴んでやんの」

 先手を打って来た相手に対し、苛立つどころか楽しげな様に細尊は訝しげに双眸を眇めた。

「随分、嬉しそうですが」
「そりゃあね。面白いよ。これぐらいないと張り合いがない」

 郭嘉はそう言い、俯き加減に瞼を伏せた。

「さすがは江東で雷名轟かせる名参謀といったところか」
「その名参謀殿と、近頃は親交を深めているようですが?」
「俺の方からの一方通行だけどな」

 「報われぬ片恋なの」とおどけて見せながら、顔は笑っている。
 細尊は不思議そうに尋ねた。

「何故そんなにお気にかけられるのですか?」

 その問いに。
 郭嘉は数拍置いてから目尻を和ませ、ふと外を見やった。
 二人しかいないしんとした部屋を、雨音だけがただただ静かに包んでいた。




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