この奇妙な取り合わせが顔をつき合わせて碁石弾きにいそしんでいるところを、丁度通りかかった者がいた。
はた、と立ち止まり、意外な光景に目を見開く。普段冷静な仮面を崩さない彼にしては実に珍しいことだった。否、問題の使者が来てからというもの、むしろ頻繁に驚かされている。
周瑜はしばらくその場に佇み、勾覧のところで言葉を交し合う二人組を観察してみることにした。むこうは熱中のあまりかそこに立つ周瑜には気付かない。
「ほい、これで八方塞がりだな」
「ああっ また負けた……」
くっそーと唸って碁盤を睨みつける呂蒙に、郭嘉は笑った。
「まだまだだな」
「うー」
呂蒙は悔しそうに歯噛みする。自分などが勝てるとは到底思ってはいなかったが、それでも勝負事で負けるのは負けず嫌いにとっては悔しい。
「でも、初めてにしてはなかなか上出来だよ。及第点を与えてやってもいいくらいだ」
手放しの褒め言葉に、ほんとですか、と碁盤から顔を上げて呂蒙は郭嘉を見た。瞳が輝いている。
犬みたいだなあ、こういうのいるよなぁ、と思いながら郭嘉は肯く。
「なら、次こそは……」
自信付いた呂蒙が勢い込んだところで、不意に冷涼とした声が掛かった。
「何をしてるのですか」
突然降ってわいた第三の人物に、それこそ冷や水を浴びせかけられたかのようだった。
二人は同時に首を向けた。
すると郭嘉の斜め背後あたりに、周瑜がその白面を実に胡乱気に染めて立っているではないか。
一番最初に反応したのは呂蒙だった。
「公瑾殿!」
驚きと尊敬に頬を染めて名を呼ぶ。
対して郭嘉は泰然と微笑みを向けた。
「これは中護軍殿」
周瑜は妙なものをみたかのような(実際妙なものをみたのだが)顔つきで見やり、ふと二人の間の卓上にある碁盤に目を留めた。
「これは
―――碁ですか?」
「おや、中護軍殿はご存知で?」
質問を質問で返される。周瑜はええ、と答えた。
「公瑾殿もできるんですか?」
呂蒙が期待にキラキラと輝く目を向けた。それに苦笑し、
「まぁ、嗜み程度には」
「へぇえ~、すごいなぁ」
素直な感嘆を漏らす部下に、周瑜は思いついたように口を開く。
「そういえば子明。仕事は?」
徳謀殿が待っているんじゃないか、と訊けば、呂蒙ははた、と止まり、それから大口を開けて
「し、しまったぁぁああ!!」
慌てて席を立った。碁に熱中するあまりすっかり忘れていたが、実はまだ執務中だった。
今ごろ程普が痺れを切らし、米神に青筋を浮かべて待っていることだろう。地震雷火事親父。まずい、このままでは大火事だ。
「すすすすみません!! 今すぐ戻ります!!」
それでは俺、いや私これで、と大いに焦った様子で呂蒙は高官二人に対し拱手をすると、脱兎の如く走廊を駆け出した。
その背に郭嘉が声を振り上げる。
「呂蒙殿」
「え、あ、はい?」
呂蒙は慌てた表情のまま、それでも立ち止まって振り返った。
そんな相手へ、にっと男前な笑みを浮かべ
「よければまたやろうな」
「は
―――はいっ!」
呂蒙は大きな双眸を輝かせて返事を返した。そしてまた嵐のように駆け去って行く。
あっという間に見えなくなる背を見送りながら郭嘉はクスクス、と楽しそうに笑う。
「おっもしろいなぁ。見てて全く飽きないや」
「そうですね」
珍しく同意を示した周瑜に、おや、と瞠目して見上げる。
「随分目をかけているようじゃないか」
「子明に碁を教えていたのですか?」
郭嘉の言葉は見事にはぐらかされ、別の質問を返される。
しかし郭嘉は特に意に介した風も無く頬を掻いて、
「ちょっとばかし暇だったものだからさ
――執務中に悪いことしちゃったかな」
これっぽっちも悪いと思っていない笑顔で双眸を眇め、
「あいつ、なかなか見込みがあるよ。ちゃんと勉学を身につけさせれば相当のものになるぞ」
周瑜は驚いたように鬼才と名高い男を見下ろした。
「子明が?」
「ああ、勘がいい。しっかり導いてやりな」
周瑜はただただ目を瞬く。碁を教える過程で呂蒙の才能の片鱗を探り当てたのだろうか。全く油断ならない男だ。
黙然と佇む周瑜の袖を、そうだ、と思い立ったように郭嘉が引っ張った。
「折角だから、やらないか?」
「私と、ですか?」
「天下の周中護軍殿と一回手合わせしてみたかったんだ」
無理矢理座らせて、郭嘉は邪気のない笑顔を浮かべた。
「……いいでしょう」
諦めたように嘆息し、しかし意外にすんなりと周瑜は受諾した。どうせこの後することもない。それに差し向かいでもう一度この男を見定めるには、碁というのは相応しく、またいい機会かもしれないと思った。
この程度のことなら、周瑜は大分郭嘉に対して警戒を見せずに接するようにはなっていた。
対戦しながら、他愛無い会話を交す。
それは実に緩やかで、心地よい時間だった。
日は大分傾き、夕日の橙が回廊と碁に興じる2人を照らしている。
既に対局はこれで3局目。
最初は郭嘉に取られ、次は周瑜が制した。
そして3回戦。形勢は拮抗していたが、やや周瑜の方に優勢を示していた。
その実、どの局面もかなり際どいものであった。先の勝利も、ほぼ痛み分け同然で辛くも周瑜に軍配が上がった。周瑜自身それなりに碁には自信のあるほうだったし、ほとんど対局で負けたことがなかったものが、郭嘉との対戦はなかなかどうして思い通りに運ばない。だが非常に気分を高揚させる。
郭嘉は実に巧妙且つ鋭い手で攻めてくる。下手な手は通用しないから、同等の頭脳を全回転させ、更に相手の裏の裏の裏まで読まなければならない。
今度はどういう手で出るかと考えながら、相手の動きに応じて自駒を動かしつつ、周瑜は不意に口を開いた。
「質問があるのですが」
「んー?」
声をかけられたほうは碁盤に目を留めたまま、生返事で答える。
「何故そんなに気をかけるのですか?」
その一言に郭嘉が顔を上げ、こちらを見る気配がした。
しかし周瑜は目を盤に向けたまま、静かに続ける。
「例えば先ほどの子明の件についても、黙っていれば良かったはずです。言えば、後々曹軍にとって厄介な相手になるかもしれない。そうなれば貴方にとっては何の得にもならず、むしろ不利になるだけだ」
「ああー」
郭嘉はぽりぽりと頬を掻いて、考えるように宙へ視線を彷徨わせた。
「ただの気まぐれだよ」
「そんなわけないでしょう」
ぴしゃりと周瑜が返す。
涼しげな双眸をひたと郭嘉に当て、
「何の考えも無しにそんな無益なことをするような人ではないでしょう、貴方は」
その言葉と確信のある目に、郭嘉はふと口端を上げる。
「なかなか、あんたの目を誤魔化すのは難しいな」
ほとんど読ませぬくせしてよく言う、と思っていると、再び盤に目線を落とす。
「別に、何か企んでるってわけじゃないさ。ただ殿が
―――曹公がこの江東を降した際に、より優秀な官僚がいた方がいいだろう? 人材好きのあの方のことだからな。芽があるなら腐らぬうちに即戦力級まで育ててもらわにゃと思っただけだよ」
「江東を降す
―――たとえ優秀な人材が増えても、制する自信があるというわけですか。随分と余裕ですね」
周瑜の瞳の底が冷たく光る。
「あるよ」
対する郭嘉は相変わらず動じもしないで泰然としている。
すぅっと閉じていた瞼を開き、言い放った。
「この俺がいる限り、曹孟徳の覇道は確実だ」
そう言い切るときだけ、郭嘉の顔は混じりけなく真剣だった。
今までにないその表情に、周瑜は、一時意気を奪われた。
恐ろしいほど真剣な。ひたむきともいえる強い意志。そこに含まれる確固たる自信と
―――そして僅かに滲む痛切なまでの深い願い。
普段へらへらとしていて掴み所のないだけに、時折見せる本気の表情は否応に他人をハッとさせ、吸い寄せられるような力を持っている。ああ、これが彼の本性の一部なのだな、と冷静に分析する。
「それは、宣戦布告ですか」
「どうとでも」
低い声音で周瑜が言えば、郭嘉はあっさりと切り替えした。この時点ではすでにあの抜き身の刃のごとき冷然さは消え、いつもの飄然とした男に戻っていた。
「でもな、俺はそれとは別に、中護軍殿とかと仲良くなりたいとも思ってるよ」
碁石を打ちながら、実に朗らかに言い出す。
突然の変わりようと唐突な内容に、周瑜の心には再び当惑が浮かぶ。
だが当の本人は気にせず、碁石を弄びながら続けた。
「周中護軍殿は賢いし美人だし、呂蒙殿は可愛いし、その他にも面白い連中がこの江東にはたくさんいる。中央のお堅い連中は見下してるけどな、実際人材だけならうちんとことも引けを取らないとも思う。
―――使命とか敵味方とか抜きにしてさ、そういう奴らと付き合ってみるのも一興だと思わないか?」
「貴方は……相当な変わり者ですね」
呆気にとられた周瑜の言葉に郭嘉は無邪気に相好を崩した。
「ふふ、それはよく言われるよ」
明るく言う郭嘉に、ふ、と周瑜も微笑した。作ったものでも、裏のあるものでもなくごく自然な。
周瑜は心の隅で思う。
この男はきっといずれ周瑜たちの目の前に立ち塞がる大きな障害となるだろう。最も恐ろしく、手強い。
でも、今このときだけは何も考えず、ただ客人として
―――知己として。
それもいいかもしれぬ、と少しだけ心中で漏らしたのだった。
「で、話し中に悪いんだけど」
郭嘉がふと下を指差す。
「この勝負、多分俺の勝ち
―――かも?」
「……!!!」
かなり周瑜有利になっていたはずの戦局は、いつの間にやら形勢が逆転し郭嘉の駒に制せられていた。
周瑜の手から、白い碁石がぽろりと落ちた。
この日郭嘉は苛烈な戦意に燃える実に珍しい周瑜の表情を見たと、後に酒の席で語る。