強い日差しに翳る走廊を、呂蒙は足早に進んでいた。
 腕には竹簡を括った冊書が一巻抱えられている。上司である程普から使いを頼まれたものだ。軍事に関する案件の裁可をうかがいに、孫策の政務室へ急いでいる最中であった。
 別段急ぎの用ではないのだが、思わず足が小走りになってしまうのは呂蒙の実直純朴さの現れだ。まだ若い、大きめの瞳に忙しさを滲ませる表情は、どこか落ち着きの無いうっかりさを感じさせる。
 本人は不服と感じているようだが、なかなかの豪傑である反面での呂蒙の危なっかしさは、周りの人々をしばしばハラハラさせた。
 そして結局そのうっかり加減はここでも証明されることとなる。




 小走りに進む足。一つの物事に直進する目。

(ええっと、殿の室はここを右に曲がって―――と)

 呂蒙は頭に思い描いた城中の地図に沿って、少し先にある丁字に折れた角に差し掛かる。
 だが逸る気持ちが歩みを早め、意識の集中を独占し―――角の向こうから歩いて来る人の存在に気付くのに僅かばかり遅れた。

「あッ!!」
「うわっ!!」

 回廊の角を右に曲がりかけた呂蒙の視界に、突如現れた人影。
 あまりにも突然のことで勢いを殺せず、呂蒙はそのまま突っ込む。相手も、いきなり飛び出してきた人物に驚いたのか、声を上げてそのまま衝突した。
 どん、と音がして、ガンガラと互いに手に持っていたものが床に落下する。
 派手な音が走廊に鳴り響く。

「ってて」

 呂蒙はぶつけた個所を抑え、同時に目にした書類の有様に真っ青になる。
 編綴されていた冊書は、落ちた拍子に綴り紐が切れ、竹簡がすべてバラバラになっていた。
 心中で悲鳴を上げながら咄嗟に拾い上げようとすると、冊書の周りに黒と白の小さな円い石のようなものが多数散乱していることに気付く。と同時に頭上から「あーあ……」と茫洋とした声音が降ってきた。
 ハッとして顔を上げれば、そこには手に円い二つの木の器を持ち、困った風情で床を見つめる男が佇んでいた。はたとして思い返す。そういえばたった今自分は前方不注意でこの人にぶつかってしまったのだ。

「す、すみませんっ あの、俺」

 慌てて頭を下げて謝る。それから、ふと前面に立つ男が何者か思い出した。

(ぎゃー――きょ、許都の大使!!)

 己の暴挙に、先ほどとは別の意味で血の気が引く。

(どどど、どうしよう! どうすべきなんだ俺!?)

「申し訳ありません!!」

 呂蒙は今度は叫ぶように謝罪すると、跪拝拱手して深く頭を下げた。

 まずい。もしこれで使者の不興を買ったら……!

 今江東は微妙な立場にいる。孫策や周瑜や張公等が齷齪(あくせく)してその微妙な均衡を保っていることくらい、智に疎い呂蒙でも分かっていた。
 しかしその苦労を今自分はぶち壊しかねない状況にいるのだということに、さあっと背筋が冷たくなる。
 だが必死に謝ることくらいしか自分にできることはない。俺のあほーと呂蒙は我が身の不注意を呪った。

 ところが。

「ぶっ」

 しばしの重い沈黙後返ってきたのは、噴出す声。
 あれ?っと思って恐る恐る目線を上げる。
 眼前の人物は、俯き口元に手をあてて細かく震えている。

「あ、あの……?」

 おっかなびっくり声を掛けると、相手は声に出して笑い始めた。

「ぶはっ、あーもう駄目! あはははは!」
「??」

 ぱちくりと目を瞬かせる呂蒙。
 使者殿がご乱心した……茫然と失礼なことを思う。それとも何か自分は変なことをしただろうか。
 頭を捻るその様子ですら可笑しいのか、使者の男は只管笑い続けている。

「……あのー」

 再度の呂蒙の呼びかけにようやく使者は涙を拭うようにして目を向けると、

「わ、悪い悪い。だってすっげー可笑しい顔で百面相するんだもん」
「へ?」

 言われて反射的にぱっと両手で己の頬を触る。そんな呂蒙の仕草にもう一度短く笑うと、使者―――郭嘉ははぁ~っと大きく息を吐いた。

「そんな怯えんでも別に取って食いやしないさ」
「え、いやそういうわけでは」
「ぶつかったくらいで俺が怒るとでも思ったのか? 許都の、大司空曹操の配下がそんな狭量な人間だと?」
「い、いえ! そ、そんなことはけけっして……」

 そうだった。名目は皇帝の勅使だが実質的にはあの曹操の使者だ。それも、曹操が最も信頼を置いている参謀。
 郭嘉は未だ笑いの余韻の残る顔で、

「いくら天才の俺でも、ぶつかってきたという狼藉程度で戦の理由にはできないよ。だからそんな怯えてくれるな」

 そう言って、ふと足許へ目を落とす。

「あちゃー、それにしても随分派手にぶちまけたもんだなこりゃ」
「あ、俺、いや私が拾いますので!!」

 己の不注意のせいでこうなった負い目もあり、慌てて白黒の粒に手を伸ばした呂蒙を、郭嘉が制した。

「いや、これは置いといていいよ。それよりも―――

 無惨にバラけてしまった竹簡へ目を移す。

「そっちの方、どうにかした方がいいんじゃないか?」

 大事な書類なのでは?と言いながら郭嘉が指差す方向で何を意味しているのか気付いた呂蒙は、しまったっと再び蒼白になる。
 程普に知られたら雷だ。いや雷どころではないかもしれない。大雷。否、大地震。地震雷火事親父。
 しかし哀しいかな。ここまで見事に順番も乱れた冊書を元通り修復できる頭脳と技能を呂蒙は持ち合わせていなかった。
 どうしよう、いやでもその前に使者殿の落し物を拾う手伝いをするべきでは、とうろたえる。赤くなったり青くなったり目まぐるしい呂蒙の姿を可笑しそうに見やりながら、郭嘉は言った。

「貸してごらん。俺が直してあげよう」
「えっ……?」

 木片を両手に戸惑う江東の武将へ、使者は手を差し伸べる。
 呂蒙は迷った。果たしてここで彼に竹簡を渡していいものだろうか。
 中身は兵役の条件に関する改変の許可を求める、実に些細なものだ。江東の軍にとっては不必要なものではないとはいえ、さほど重要な事が書かれているわけではない。その上この状態で持っていけば、確実に周瑜たちの手を煩わせることになる。それは呂蒙にとって一番避けたいことだった。
 だがだからと言ってよりにもよって大使にそれをさせるわけには―――
 呂蒙の逡巡を読み取ったのか、郭嘉はふっと微笑んだ。

「急ぎなんだろ? 別に俺に知られてもまずい内容で無いなら直してやるから、貸してみな」

 その一言で、ようやく呂蒙はおずおずと決断を口にした。

「そ、それじゃあ……」

 お願いします、という言葉と共にバラバラになった竹簡をひとつひとつ手渡す。
 郭嘉はそれらを長い袍の袖に受け、勾覧に設えられた席に持っていくと、中を確認しながらひとつひとつ手際よく並べていく。
 その早さを見ながら、呂蒙は頬を染めてほぉっと感心の息を漏らした。さすがは高名な曹操の懐刀。世に稀な切れ者であるという世間の評価は、嘘ではないと実感する。
 あっという間に竹片を並び終え、紐の切れた部分を結び直して綴り直す。
 できあがった冊書は、原形とほぼ相違なく完璧に仕上がっていた。

「ほいっと、一丁あがり」
「ありがとうございます!!」

 目を輝かせながら礼を言う呂蒙を眩しそうに見やりながら、郭嘉は冊書を渡す。

「今度はちゃんと落ち着くことだ」
「は、はい……申し訳ありませんでした」

 恥じ入ったように俯くと、不意に頭を撫でられた。
 呂蒙は固まった。使者は構わず興味深そうにナデナデしている。ちなみに二人の身長差は、呂蒙の方が僅かばかり高い。

「まぁ、元気がいいのはいいことだけどな」

 笑いを含んだ声がして、呂蒙はなんだか居心地の悪い気持ちになる。
 これは間違いなく、完全に子供扱いされている。

「ほら、行けよ」
「ですが……」

 呂蒙は目線を床に散らばった石に落とす。このまま放置していくのは、非常に気が引ける。

「私の不注意のせいですから、私が片付けます」
「いいって。急いでたんだろう? 早く持っていってやりな」

 笑いながら有無を言わせぬ調子で促され、呂蒙は躊躇いながらもそれじゃあ……と言って一礼し、後ろ髪引かれる思いでそこを離れた。




 無事案件を孫策の政務室に届け、ついでに周瑜の顔も見れて少し心が浮いた状態で戻っていくと、先ほどの場所から少し離れた所の勾覧に許都の使者はまだいた。
 飲茶用に設えられた石の卓と椅子。まさにその椅子に足を組んで腰掛け、頬杖をつきながら真面目な表情で卓上に目を落としている。その横顔は、先ほどのおどけた人物と同一とは思えない。
 散乱していた黒白の小さな丸石はすでに綺麗に回収されていた。
 では何をしているのだろう、とそろりと覗くと、郭嘉の目線の先―――即ち卓には別の黒い石でできた正方形の盤が置かれ、その上に先ほどの白と黒の丸石が配置されている。

(何だろうあれ……)

 不思議そうに呂蒙が様子を窺っていると、視線に気付いたように郭嘉が顔を上げた。
 おや、という風に軽く目を開き、それから笑みの形に細める。

「やあ。ちゃんとお使いは済んだか?」

 お使い……と呂蒙は軽く引き攣りながら、

「あ、はい。おかげさまで。―――あの、本当にありがとうございました」

 そう照れた風に辞儀をする。郭嘉は軽い調子で「不要緊(きにするな)」と返した。
 それから呂蒙をまじまじと見て、ふぅんと鼻を鳴らすと一言、

「成るほど、お前があの『阿蒙』ってわけか」

 微笑しながら言った。
 途端、呂蒙の表情が凍る。

 『阿蒙―――蒙ちゃん』

 それは武には優れながらも、智に劣る呂蒙のことをからかって人々がつけた呼び名だった。
 しかし当の呂蒙にとっては屈辱以外なんでもない呼称。
 まざまざと自分の知能の低さを思い知らされる。
 だからこそ、その名が郭嘉の口から出たとき呂蒙は双眸を硬く強張らせた。

「これが気になるのか?」

 呂蒙の様子に気付いているのかいないのか、郭嘉はにやりと笑みながら自分の手元を指す。その先には黒い盤。
 昏い淵に沈みかけた感情が、ハッと引き戻された。

「あ、いやその……」

 歯切れ悪く口篭りながらも、呂蒙の大きな双眸は明らかに好奇心を顕わにしている。
 郭嘉は軽く手招きした。

「これは碁という」
「ご?」

 聞いたことのない単語に、呂蒙が鸚鵡返しに訊き返す。

「こうやって白と黒の碁石で分かれて、一対一で対戦するんだ」

 黒い石を弾きながら郭嘉が言う。へぇ……と呂蒙は呟いた。

「碁は、言うなれば小さな戦場だな」
「戦場?」
「そうだ。自分の陣地と持ち駒を持ち、対戦する。この小さな碁盤の上で戦の再現をするんだよ」

 郭嘉は白黒の碁石を交互に人差し指で動かしながら説明する。

「相手の心理を読み、次の一手を先読みする。いかに相手を欺き、策略を張り巡らすか。罠にかけたり、かけられたり、逆に罠を利用して返り討ちにしたりする。囲まれれば相手の包囲網の弱いところを探って突き血路を開く。只の置石だと思えばそれが実はとんだ布石だったりする。戦う相手によって戦い方も変わってくるし、心理も変わってくる。―――碁は戦法や策謀を考える鍛錬に最適な遊戯なんだよ」

「戦法や策謀……」

 ぼんやりと、呂蒙は呟く。
 戦の再現。戦の仕方を、頭の使い方を知る遊戯。

「やってみるか?」

 考え事に沈んでいた呂蒙は、突然投げ掛けられた言葉が理解できず、ぱちぱちと目を瞬いた。相手は頬杖をついたままこちらをにやにやと見つめている。
 呂蒙は頭の中で今の言葉をゆっくり反芻し―――

「えっ!? いや、その俺頭よくないしっ」

 あまりにも予想外のことに口調が地に戻っていることに気付かない。
 ごくさらりと口にした使者を前に、動揺しまくりながら汗を流して必死に弁解する。

「お、俺にはそんな難しいことは―――

 ていうかそれ以前の問題で、相手はあの曹操の使者で、自分は仕事中の帰りで―――

 焦りのあまり思考回路がおかしくなっている。
 だが当の郭嘉は平然と手をひらひらさせ、

「大丈夫だって。丁度俺も独り遊びに飽きて誰か相手が欲しいところだったんだ」

 実に軽い。己の立場とか任務とかすべて忘れ去ったような軽さで、飄々と言ってのけた。

「いいからいいから。ちょいとそこにお座んなさい」

 半ば強引に呂蒙を卓をはさんだ対面に座らせ、いそいそと碁盤の上に並べられた石をそれぞれの器に戻す。
 なんだかよく分からない展開に、呂蒙は泣きたい気持ちになった。

「いいか、まずは……」

 しかし郭嘉の講義が始まると、とりあえずぐっと顔を引き締めて聴く体勢を取った。
 ところがである。始めは使者殿の機嫌を損ねてはいけない(さっきも世話になったことだし)という気持ちからだったのが、説明が進むにつれて徐々に意識が真剣に聞き入るようになっていった。
 多分郭嘉の教え仕方や好奇心の引き出し方が巧かったのだろう。しかし数時後には、呂蒙はジッと盤上を動く郭嘉の指を追っていた。
 実際、郭嘉の話術は巧みだった。

 石を動かしながら、辛抱強く教えていく。教えながら、それを戦に見立てた解説などを加える。こういう陣形のときはこう対する、こういう攻撃のときはこう反撃する、こういった布陣は罠だからこちらから攻める、など、実に細かく。呂蒙は目を輝かせて見入った。ひとつひとつを熱心に理解しようと身を入れていることに自身ですら気付かない。仕事をすっかり忘れて、新しい遊戯に没頭した。言われたとおりにやってみると、その度に郭嘉は肯いたり助言をしてくれたりする。やがて大体の規則を覚えると、今度は自分なりに動かしてみた。

「例えばここの石がこう動くだろ? その時は……」
「じゃあ、もし相手が……」

 次第に呂蒙の方から質問をするようになっていた。どんな疑問にも、郭嘉はちゃんと答えてやる。だが中にはなかなか鋭い質問もしてくるようになり、郭嘉はふむ、と目を細めた。
 呂蒙は飲込みが早かった。一つ教えれば、次はそれ以上の結果を示す。
 彼の中に隠されたものに、郭嘉は顎へ手をやった。

(周りからは阿蒙なんて呼ばれているようが、これはなかなか―――

 心中でひっそり呟きかけたとき、呂蒙が一手打って来た。おっと、これはやばいやばい、と身を戻し、郭嘉は対抗すべく一手を返した。




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