「それじゃあこれ頼むよ」
「御意」
細尊は差し出された竹筒を頭上で神妙に受け取った。
郭嘉は江東に独自の情報網を持っていると同時に、独自の情報伝達の経路をも確立していた。いくつかの地点にある『駅』から『駅』へと一人ずつ馬を走らせて伝達していく。言うなれば郵や伝馬の応用である。このほうが一人が一匹の馬で駆けるよりもずっと疲労負担が少なく済み、かつ情報の相互交換も早い。
郭嘉は丁度諜報から戻ってきたばかりの細尊に、「悪いな」と言いながら文書を渡した。恐らく細尊が特定の郵駅に着く頃には、曹操側からの返事と交換できるだろう。
ここから一番近い郵駅には二人ずつ配置してある。故にどこかの郵駅が空になることは決してなく、返信も素早く行われる。ちなみに中継点たる駅はといえば、一見それとは分からぬ普通の酒店などである。
最寄の郵駅まで信を届ければ、あとはまたすぐに折り返し帰って来るだけでいい。あちらからの返事は別の者がここまで届けに来ると言う寸法だ。
そうやって届けられた曹操からの前回の書簡には、外交及び軍備計略に関する案件についての相談事項が記されていた。それらにひとつひとつ意見を述べ、最後に『今は焦らず、機を見ること。到る時に備え、軍の整備と練兵に専念すべし』と添える。
そうして記した書を渡し終えた後も、跪いたままじっと見返してくる両目に当たった。
「? 何だ?」
瞬きながら尋ねれば、細尊は感情の読めない顔で返した。
「お顔色が優れないようですが」
「そうかな」
しれっととぼけたようにあらぬ方へ視線をやる。
「某のおらぬ所にて何かありましたか」
「何もないよ」
「……貴方がそうおっしゃるならば、そういうことにしておきましょう」
主の態度に何を感じ取ったのか、ただそう言って目を伏せると、一礼して腰を浮かせようとする。
「細尊」と呼び止める声があった。
無表情な顔が向けられると、
「殿には内緒にしていてくれよ」
郭嘉は人差し指を口元に当て、にやりと笑んだ。
細尊はしばらく無言で見返し、それから黙礼をして姿を消した。
周瑜は卓の前に座り、肘をついて額を覆った。
自然、溜息が零れる。
「どうしかしたのか?」
振ってきた声にハッとして顔を上げると、回廊の真ん中で呂範が不思議そうにこちらを見ていた。どうやら丁度通りがかったところらしい。相変わらずの派手な袍の袖には、冊書がいくつか抱えられている。
「そんなところで溜息なんかついたりしていたら、女官どもが騒ぐぞ。『きゃー憂いを帯びた周瑜様もステキ~、あの溜息の理由を是非とも聞いて差し上げたぁい』なんつって」
「子衡殿」
男前に女真似をする同僚の字を、やや難しい顔で呼ぶ。
その声の質からこの手の冗談は効かないらしいと判じた呂範は、ぴたっと口を噤んだ。それから面白がるように、
「どうした、珍しく随分と余裕がないな」
「そんなことは」
ない、と言いかけて周瑜は口篭る。実際どうなんだろうと自分でも思う。これは余裕がないのだろうか。
「お前がそんな風になるって言うことは、よほど切羽詰っているんだろう。なんだ、殿と喧嘩でもしたのか」
「そんな、子供じゃないんですから」
苦笑して返すと、呂範は明朗と笑って言う。紫紺に濃朱、金といった色合いを合わせた衣は相変わらず派手だが、彼が着こなすと嫌味なくらい様になっている。
「どうだかな。お前も殿もいいかげん頑固で負けず嫌いだから。でもお前、今は仕事の一部を他の者に代行させているんだろう。確か許都からの勅使の世話役兼監視役を一任されてると聞いたが」
それから「ああ」と声を上げ、
「もしかしてお前のその様子は件の使者のことでか」
さすがだ、と思った。
呂範はこう見えてなかなか鋭く人の機微をよく読む。平常心に自信がある周瑜も、この同僚にすべて隠し通すことは至難の業であった。
周瑜の無言を是と取ったのか、呂範はふむ、と鼻を鳴らす。
「そんなに手強いのか?」
お前がてこずるなんてな、と呟く。
周瑜はゆっくり口を開いた。
「……手強い、というのでしょうか」
なんというのだろう。これは
―――恐怖?
あの全てを見透かすような瞳が、だろうか。あるいは内を暴かれそうになる声音か。
掴み所なく、決して人には心を読ませない。なのに己の心に入り込まれそうな恐怖。
呂範は竹簡でトントンと自分の肩を叩いた。
「まあ、あんまり気張らないことだ。お前は何でもかんでも一人で気負いすぎるきらいがある」
「子衡殿……」
似たようなことを近くに聞いたばかりで、もはや何とも返せず、困ったように周瑜は首を傾ける。
「お前の悪い癖だな。何でもかんでも一人で背負い込む。別にここには周公瑾一人しかいないわけではないのだから、いい加減周りに押し付けるぐらいの図々しさを持て。それが協調性というものだ」
「容赦ないですね」
痛いところを突かれ窮した周瑜に、当たり前だ、と呂範は語気を強める。
「これくらい言わねば、どうせお前はいつもどおり平然と笑って流すだけだからな」
毅然と言い放つ。周瑜は返答に困って、ただただ苦笑を浮かべるばかりだった。
そしてふと、許の使者の顔が過ぎる。
そういえば少し似ていると思った。
呂範に、郭嘉は少し似ている。顔の造作とか立ち振る舞いがというわけでなく、周瑜の、いうなれば欠けたところを的確に言い当て、遠慮せず直截に述べるところが。
ふと郭嘉が言った、知らぬ相手を形容しようとする時にはどうしても身近な者を例に置き換えてしまうという台詞を思い出し、確かにと思う。
付き合いの浅い者や、それでなくとも普段の態度からでは、大体の者が周瑜の本当に思うところを感じ取れない。
それは周瑜が心中を隠すのが巧いからであったが、呂範はそれに惑わされることのない数少ない友人のひとりだった。
ただしそれは、呂範との付き合いが長いこともある。もともと人の心の機微に敏い男ではあるが、長い付き合いの末の言葉であることも確かだ。
しかも呂範は、どちらかといえば常に傍観者的な立ち位置にいる。誰に肩を持つのでもなく、正悪もなく、客観的に意見を述べる。あえて人の心中に踏み込んでいこうとはしない。言う時は言うし、放っておく時は放っておく。独特の距離感を持った男だった。
対して郭嘉は、一目二目視ただけでその為人を看破してしまう。恐ろしいほどの観察眼と分析力。周瑜の持つ影を見てとり躊躇いなく触れてくる。土足で踏み込むのでもなく、はたまた恐る恐る腫れものに対するようでもなく、素で核心をつく。あまりにも自然なそれを心地よいとさえ感じる。
我慢できぬ性分なのだと言っていた。否、恐らく放っておけぬ性分というのが正しいのだろう。
だから余計に周瑜は戸惑う。当惑して困惑する。保っている均衡が揺れる。油断してはならないという義務感の秤と、私的な好意の秤が拮抗する。警戒という壁が崩れそうになる。
周瑜とて人を見る目はあるつもりだ。相手の求めるものを見通すのは得意だという自負もある。だからこそ惑うのだ。懐柔しようというのでも媚を売ろうというのでもなく、ただ淡々と響く言の葉に。そこに何か裏を見ようとするにも、何も見えないのは、底が深いせいなのか、それともそもそも底などないせいなのか。
はじめて会った時の印象はあまり良いものではなかった。
それから不思議な男だと思うようになった。おかしな男だとも。
自分はいわば敵で、そのようなことを忠告したところで彼には何の得もないだろうに。
でも紡がれる言葉は、強固な警戒の網をすり抜け心の奥底に滑り込むのだ。まるで頑なな魂を溶かそうとするかのように。
再び物思いに沈んだ周瑜に、呂範はやれやれといったように肩を竦め、冊書を持ち直した。
「それじゃあ俺はそろそろ行かねばならんから」
「え?
―――ああ、すみません。お引止めしてしまいましたか」
「気にするな」
まあ気を詰めるのも程々にな、と言い置いて呂範は卓から離れる。そのまま回廊を行こうとして、ふと立ち止まり振り返って同僚の名を呼んだ。
「公瑾」
「はい?」
「俺たちは、お前から見てそんなに頼りないか?」
「
―――……」
周瑜はハッと瞠目した。
呂範はただ答えを待ちじっと見据えてくる。
数拍目を瞬く。それから、ゆっくりと微笑んだ。
「いいえ。信頼できる人々と優秀な仲間に囲まれて、私はこれほどになく恵まれた所にいると、思います」
「それを聞いて安心した」
呂範は口端を上げて笑うと、今度こそ背を向けて回廊を曲がって行った。
呂範の色鮮やかな背が見えなくなり、足音さえも聞こえなくなると、頃合を見計らったように一つの影が周瑜の背後に現れた。
「公瑾様」
「
姪琳」
小柄な少女である。年の頃は15、6であろうか。まだあどけなさを残す顔立ちは愛らしいといえる。しかし少女は、普通の女官たちが纏うような裙衣や裳裾ではなく、もっと身軽そうな簡易の服を身につけていた。
少女の名は王安娜、字を姪琳と言う。周瑜が使う細作の一人だった。
「どうであった」
「はい
―――ご命令どおり使者に不審な動きがないか監視してましたところ、先ほど男が一人、密書らしきものを持って城外へ出たのを確認いたしました」
周瑜が眉を顰める。
「男? 何者だ?」
「見慣れぬ顔でした。恐らく使者殿の使う間諜ではないかと。室内を傍聴しましたが、特にこれといった会話もなく……」
「追ったか」
「それが
―――あちらの方が上手のようで、こちらの尾行に気がついてか城内にて撒かれてしまいました」
申し訳ありませぬ、と悔しげに唇を噛んで報告する細作を見下ろし、周瑜は小さく嘆息する。
「そうか……それはご苦労だったな。続けて監視してくれるか」
ハッと姪琳は顔を上げ、慌てて礼をした。
「は……は! 次こそは公瑾様のご意向に沿いますよう、頑張りまする!」
細作と言っても少女は少女。それらしく取り繕っていた姿勢が、一気に崩れた。
そんな様子を見て周瑜は苦笑する。
「ああ、任せたよ。無理はしないでよいから」
「はっ 全力をもって勤めを果たします!!」
勢いよく言って、姪琳はその場から消え去る。
周瑜が彼女にあまり複雑で汚い仕事を任せず、差し障りのない雑事を命じるのは、このような娘であるが故の親心である。
毎度のことながら一抹の不安を抱きつつ、周瑜は天を仰いで嘆息した。