勅使に宛がわれた賓客室は、政務を行う大殿から通廊を渡った北東側の棟にある。周瑜はその室の手前で立ち止まった。目隠しがわりに立てられた衝立を前に一声掛けると、中から微かだが応じる声がした。
 失礼します、と断ってから、衝立を避けて室内に足を踏み入れる。
 奥に設えられた牀台に近づき、横たわる人物を見下ろした。普段は結い上げられている鬢は、今は解かれており長い髪が牀の上で柔らかく波打っている。

「お加減はよろしいですか」

 許都の使者は目を薄すらと開いて、傍らに立つ者を見上げた。頬は熱のせいか今だ紅みが差しているが、当初の頃に比べると呼吸も落ち着いてきたし、何より意識がはっきりしていた。
 熱でぼんやりしている双眸が、周瑜を捉えて軽く細まった。

「おかげさまで。迷惑かけたな」
「全くです。なぜもっと自分の身を労わらぬのですか」

 郭嘉はかすれがちな喉の奥で笑った。

「バレたか」
大夫(いし)はあなたが以前から体調を崩していたようだと言いました」
「やっぱり身体に関して医者に隠し事はできないな」

 視線を外し黙りこむ周瑜を目だけで見上げ、

「それならばちゃんと部屋で静養していればよいものを、か?」
「え?」
「顔がそう言っている」

 くすくすと笑われながら言われ、周瑜は困惑気味に眉を寄せた。確かにそう思っていたことは事実だが、そんなに顔に出ていたのだろうか。むしろ自分は分かりにくいと言われるし、分からないようにしている方だとも思っている周瑜だが。

「いつも口酸っぱく言われることだしな」

 他人事のように言う郭嘉に、はぁ……と周瑜は肩を落とした。促す声があり、牀台に傍らに備え付けられている円座へと遠慮なく腰掛ける。

―――そういえば、礼を言うよ」
「何がですか?」

 にわかに言われた内容に、周瑜は瞳を瞬く。

「今回のこと、俺んとこの連中に黙っていてくれただろう? 助かった」

 郭嘉のところの、というのは、許都から付いてきた随従のことである。
 ああと呟いてから、周瑜は静かに口を開く。

「貴方自身が黙っていてくれと言ったからでしょう」

 郭嘉は熱に浮かされる意識の下で、ただ「随従たちには黙っていてくれ」と譫言(うわごと)のように繰り返していた。
 彼は当然単身で江東に差遣されたわけではない。一応勅命大使という身分で訪れるわけだから、それに伴う随従衆がちゃんといる。だが彼等は貴賓室からやや離れた殿に滞在しており、周瑜は予め彼等の耳に事が伝わらぬよう厳重な緘口令を下していた。また向こうからこの殿への出入りも、込み入った話し合いがあるからと一時的に制限していた。随身らは相当不服を唱えたがしようがない。
 こちらとしても、このことが許都に伝わるのは避けたかった。それは曹操の勘気を恐れたためであったが―――それにしても謎なのは何故郭嘉がわざわざあんなことを言ったのかということだ。
 それを訊けば、まあ色々事情があってな、と含み笑いが返ってくるのみで、他には何も教えようとしなかった。

「来たばっかで何もせず帰るのはさすがにちょっとな……」

 ボソリと呟かれた言葉は周瑜にはよく聞こえず、「は?」と訊き返されれば「いーや、なんにも」と郭嘉は首を振った。
 それから話題を変えるように、

「にしても、中護軍殿がわざわざ見えるとは。一応見舞いに来てくれたのかな?」
―――あのままではさすがに後味が悪いので」

 素っ気なく答える周瑜へ、気にした風もなく郭嘉は「そりゃどうも」と相好を崩した。
 妙に気まずい気持ちを押しとどめながら、周瑜は郭嘉をひたと見据える。
 真直ぐに注がれていた視線が、しかし不意にふ……と柔らかく溶けた。優しげ、というよりは、どこか牽制するような微笑だ。そうして、はっきりとした口調で応える。

「私を懐柔しようとしても無駄ですよ」

 言われ、郭嘉がぽかんと呆けた。この男の素の表情を見るのはこれが初めてかもしれないと、周瑜は妙なところに感心した。
 郭嘉は熱のことなど忘れたようにしばらく瞳をぱちくりとさせ、それから苦笑を浮かべた。

「なんだ、それもバレてたのか」

 悪戯が失敗した子供のように、残念そうにぼやいた。
 やはりと周瑜は心中で呟く。そうでなければあの行動と言葉は繋がらない。
 冷たく研ぎ澄まされる脳裏の中で、その言動を反芻する。初対面の他人の裡にもすぐに溶け込む話術。彼は人心を籠絡するのに長けている。

「だが、半分は外れだ」
「?」

 思いがけず放たれた一言に今度は周瑜のほうが目を瞬き、郭嘉をまじまじと見つめる。
 中原の才子は、顔を天井へ向けた。

「確かにわざわざ酒に誘ったのは、あんたが一番一筋縄じゃいかなそうだからというのはあった。半分はな。でも、もう半分は―――多分、性分だな」

 分からない、という風に困惑している周瑜を見上げ、郭嘉は苦笑を更に深めた。

「中護軍殿みたいな奴を見ると、どうにも放っておけなくなる」
「私みたいな?」

 郭嘉は溜まった熱を吐き出すように天井へ向け長い息をつく。

「一人で背負って内に悶々と抱え込む奴に限って、近くにある出口に気づかず迷宮を彷徨っている。答えはすぐそこにあるのに。それがじれったくてたまらない。放っておけと思うのに、気がついたら手が出ている。つまるところただの自己満足で余計なお節介焼きだ。人殺しの策を練る俺が言うのも変な話だが……」

 そう語る双眸は、熱と倦怠感に茫洋としながらも、静かにしっかりとした光を湛えていた。といってその口ぶりに偽善めいた驕りは見えず、ただ淡々と、むしろ己の欠点を告白するかのように自嘲している。
 偽わっているとは思えない。そこに虚言を見出そうとしても、周瑜には不可能だった。
 ―――だからこそ、よけいに戸惑った。

「特にあんたを見てると、なんだか凄く危うい感じがしてさ、無性にハラハラする。あんたには偉そうに冷酷になれなんて言ったが、結局俺も思い切れない人間ってことだ。こればかりは自分でもどうしようもない」
―――何故ですか」

 周瑜は静かに口を開いた。

「理解できません。貴方には、そうする義理はないでしょう」

 血族でも同志でもなく、ましてや知己でもない。

「さぁね。性分というのはいわば本能のようなものだから、理屈は関係ないんだろうよ」

 まるで他人事のごとく淡白に告げる郭嘉を、いっそ呆れ果てた表情で周瑜は見つめる。

「存外、甘ちゃんなんですね」

 そうだな、と郭嘉は喉の奥で笑う。

「我ながら本当にそう思うよ」

 でも―――と瞳を伏せる。その鼓膜の奥で、絆されるなよ、と朋の声が響いた。

「俺はそういう自分が厭いじゃないんだ」
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