陸風吹いて江水流るる-1-




「はぁ……」

 少年は深く、憂鬱そうに溜息を吐いた。
 明らかにおかしなその様子にも、あえて問いかけるような人影は走廊になく、せいぜい燦々と陽光の降り注ぐ庭院に集う鳥の鳴声が渡るばかりだ。
 そんな穏やかな昼下がりに、少年の周りだけはまるで曇天に包まれているかのごとくどんよりと暗かった。それは偏に少年の醸し出す陰鬱な空気のせい。
 少年は己の手元に目を落とし、再びはぁ―――……と深々息を吐いた。その手に握られているのは、二枚の帛文。
 とぼとぼと長い走廊を歩みながら、時折止まっては長嘆息。思い出したように繰り返されるその奇怪な行動に、疑問の眼差しを向けた人物が一人。

「ん?」

 丁度走廊の丁字の交わりに通りかかった郭嘉は、曲がり角の向こうを目にし、不思議そうな表情で小首をかしげつつ、そのまま真っ直ぐ通り過ぎたのだった。




「奉孝?」

 あれ、と小さく声を上げて、今をときめく江東の名参謀・周瑜は、誰もいない室内を見回した。

(おかしいな、確か午後に尋ねて来るって言っていたはずだが)

 疑問気に首を傾げる。
 今朝、江東でも評判の名菓子が手に入ったから、よければ昼にお茶でもという誘いに、すぐさま是の一つ返事が返ってきた。今周瑜は仕事は昼上がりなので、主に午後は暇である。なので仕事が終わるころに周瑜の自室に行って待っている、と。
 (ことづけ)を伝えに来た細作の無表情を思い返しながら、自室に踏み入ってキョロキョロと首をめぐらした。
 大体いつもは人目を気にして周瑜の方があちらの室を訪れるのだが、その逆もままあった。そしてそういう時、彼は例外なく先に部屋で周瑜を待っている。
 だから今回、いるはずの影が見当たらないことに、周瑜は怪訝を隠し切れない。彼の者は客分なので、仕事が長引いているということはまずない。

「奉孝?」

 小声で呼びかけながらウロウロと室内を歩き回る。

(まさかどこかに隠れているわけじゃないだろうな)

 思わず牀台の陰などを覗き込みつつそんなことを思い、ふと壁際の半蔀が半ば開いていることに気がついた。確か行きは閉めて出て行ったはずだ。
 まさかと思い、そろそろと近寄って扉を押し開け、外に首を伸ばせば―――
 果たして、少し離れたところに見慣れた背が草叢に埋もれるように蹲っているのが見えた。

「……何をしてるんですか」
「うおっ」

 呆れた声をかければ、背が大げさなほどビクッと跳ね、驚きとともに首だけ振り返る。それからほっと安堵に脱力した。心なし気まずそうな笑みを浮かべながら、

「戻ってたんだな、公瑾殿」

 ええ、と周瑜は肯き返した。
 あの事件以来、周瑜は郭嘉のことを字で呼ぶようになった。もちろん第三者がいるところでは相変わらず勅使殿で通しているが。
 それが信頼と親しみの表れであることが分かっている郭嘉も、周瑜のことは字で呼んでいる。『殿』はいらぬのにと再三言う周瑜に、「なんとなく公瑾殿は公瑾殿って感じがするんだよ」と訳の分からぬことを笑って言った。しかし周瑜が郭嘉に字は呼び捨てでも依然として敬語であるのと同じだと言われれば、そんなものかと周瑜も納得した。
 そして今、草に塗れる郭嘉を見やり改めて問う。

「それで、そんなところで何をやっていたんですか」

 今や知らぬ者はいないというほど鬼謀神算で鳴らす名軍師なのに、目の前の郭嘉はしまったと、まるで悪戯がばれてしまった子供のていで頭を掻いている。そのあまりの落差に、思わず周瑜は可笑しくなって噴き出した。
 郭嘉はよいしょと立ち上がって膝を叩き、何かを抱えながら半蔀の方に戻ってきた。

「ほら、こいつ」

 そう言って周瑜の方に掲げて見せたその両手には、ぼさぼさした小汚い動物が一匹ぶらーんと胴を伸ばし、大きな釣り目が二つ。

「……猫?」

 まだ子供と思われる小さな猫は、お世辞にも可愛らしいとはいえず、どちらかといえばふてぶてしい面構えで、周瑜をジッと凝視していた。

「あたり」

 腕の中に抱き直し、郭嘉が満面の笑顔で答える。

「なんか外から人の泣き声みたいなのがすると思ったら、こいつがいてさ」

 面倒だから放っておこうかとも思ったのだが、なんとなく後ろ髪引かれて、相手をしていたら懐かれてしまったのだという。
 周瑜は呆れとも疲れとも思えぬ嘆息をついた。
 一体どこからどうやって入ってきたのか。子猫は大人しく郭嘉の腕に抱えられている。存外丸々としたその子猫をちらりとみやり、ふむと逡巡すると、周瑜は何気なくボソッと漏らした。

「まぁ、なかなか美味しいかもしれませんけどね」
「!?! 食うなよ!?」

 郭嘉は驚愕して叫び、思わず子猫を隠した。

「あれ、食材じゃないんですか?」
「違う違う!」

 必死に首を振りながら、心の中でひそかに周瑜に対する疑念が生まれる。

(いや、確かに地方によっては猫も食わないこともないが―――いやいやいや)

 動物を愛玩で飼うという行為がまだ一般的ではない時世、特に命あるものなら何でも食する人々からしてみれば、猫と見れば立派な食材に結びつくのも無理はない。無いのだが。

「とにかく阿毳(あせい)は駄目」

 気づけばあら餉の一員、ということにならぬようここぞとばかりに強調する。
 すると、周瑜は思わず別のところを聞き返した。

「阿毳?」
「ん? ああ、こいつの名前だよ」

 なあ、と郭嘉は腕の中の子猫に同意を求めるように見下ろす。心なしか怯えているように見えるのは気のせいだろう。
 もう名前までつけてしまっているのか。どうやら郭嘉は本気でその子猫を世話する気のようだ。滞在中の無聊を慰めるつもりなのかもしれないが、都に帰った後の世話は誰がすると思っているのだろう。きっと他人に押し付けるんだろうな……と確信しながら、諦めた表情で周瑜は見下ろした。

「なんて名前つけるんですか」

 (むくげ)ちゃんとは。

「だってほら、コイツまるで毛玉みたいだろう? はじめは阿毛にしようかと思ったんだけどさ、そうすると子明殿あたりが怒りそうだから」

 郭嘉はあくまでにこやかに告げる。
 それで阿毳。毛を二つ足しただけ。なんとも安直だ。
 三度呆れ顔をしながらも、周瑜は思う。
 近頃分かってきたが、郭嘉は口では面倒だなんだとは言いながらも存外面倒見がいい。例の放っておけない性分というやつなのだろう。そこへいくと自分もこの猫と同じということなのだろうか。なんだか複雑な気分だ。
 だが喉を擽られ気持ちよさそうにゴロゴロと鳴く子猫を見ていると、まあいいか、と思えてきた。

「どうでもいいですけど、そろそろ上がってください」
「おっと、そうだったな」

 郭嘉もようやく気づいた風に応じる。

「そうそう、こいつ腹空かせているみたいなんだ。何かないかな」

 えらく抵抗する子猫を先に周瑜に渡し、桟に足を掛け乗り上げながら(高位の官がする格好ではない)問う郭嘉に、周瑜はそうですねと目線を宙に巡らす。

「干魚なら厨房にもあると思いますが……茶菓子を持ってきてもらうついでに姪琳に取りにいかせましょうか」

 人間の食べ物など果たして食べるのだろうかと疑問に思いながらそう言った時―――

「公瑾!!」

 バンッと勢いよく扉が開くと同時に、室内でドタッガタガタンと派手な物音が鳴った。
 子猫を抱えたまま開いた半蔀を背にぽかんと佇む周瑜は、必死の相を浮かべた突然の闖入者を見て、心なし落ち着かぬ様子でその名を呟いた。

「伯符様?」
「居るか、公瑾! てか今なんかすんげー音がしたけど、どうかしたのか?」

 入ってきた時とは一転、きょとんと問うてきた主君に、周瑜はなんともいえぬ微笑を浮かべ、

「ええ……ちょっと猫がいましてね」
「猫? ってお前がいま抱えてるやつか?」
「いえ、もっと別の大きいのが」
「? ふーん」

 外の向こう側へガサガサと去りゆく音を背に、周瑜は引きつった笑いを漏らした。
 腕の中で子猫が、「なー」と鳴いた。

「それで、どうかなさったんですか?」

 そんなに慌てて、と周瑜が問えば、孫策はこれまでになく重大かつ深刻な顔でうむ、と頷いた。あまりの尋常ならざる様子に、もしや何か情勢に大きな変化でもあったのかと周瑜も思わず顔を引き締める。
 この江東を統べる長たる孫家の当主伯符は、何れかの強力勢力の謀反を告げるかのごとく、重々しく宣告した。

「権が、恋煩いだ」




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