いててて……と強かに打った腰を摩りながら、郭嘉はしまったと思った。

(菓子を食い損ねた)

 一体何のために行ったのやら。これでは単に損しただけのような気がする。
 未練がましく後ろを振り返るが、恐らく今は訪問者がいるだろう。さすがに彼にこの情景を見せるわけにはいかない。
 やれやれと思い直しながら、四つん這いで藪を掻き分ける。何でまたここの庭院はこうも蓬蓬に放ったらかしなのだろうと頭をひねりつつ、とりあえず人目につかぬよう自室を目指し前進する。
 が、その途中でふと目に止まったものがあった。

(おや?)

 草の向こうに、勾覧に凭れかかるようにして、憂鬱そうに溜息をつく人物の姿が。

(あれは確か、さっきも……)

 行きに見かけたのと同じ人物だ。見たところ他の呉の将官と変わらぬ服装だが、まだ年のころは十も半ばの少年だ。着ている衣はかなり上質のものと見える。
 官服にはもちろん支給品もあるが、下級官とは異なり高官は元々名門名家の出が多く、また収入もそれなりにあるため、正装の規範からはみ出さない程度に各々つくってしまう(郭嘉のように規範内ですらない平服などは論外だが)。だから言ってみれば官服の質の良し悪しはその人物の出自を物語る。
 そこへ行けばかの少年はいずれ名のある上流階級の出ということになる。
 あの若さで早くも官吏に取り上げられ、しかも生活水準も高いとなれば、十中八九高官の子弟だろう。まさに今をときめく者が、一体何をあそこまで思い煩っているのか。
 だが郭嘉は、その様子にピンと来るものがあった。元からこういうことに関しては鼻が利く。
 苦笑いしながら、さてこの場をどうしようかと考える。自室に戻るにはあの前を通らねばならない。官吏となれば少なからず郭嘉の顔を知っている可能性があるわけで、万が一こんなところで怪しげにウロウロする許都の使者の姿など見られでもすれば、あらぬ疑いをかけられることは必定。
 だがあの様子ならば、まぁこの草葉に隠れて通れば多少のことでは恐らく気づかれないだろう。そう思い、中腰になってそっとその場を通り過ぎようとした。
 その時、ざっと強い木枯しが吹いた。

「あっ!」

 少年が声を上げる。
 何か白いものがひらひらと風に乗り、郭嘉の面前に飛んできた。条件反射で掴み取る。
 それは、墨で綴られた文だった。

「文?」
「あ……」

 思わず呟いて、固まる。それは向こうも同じだった。
 郭嘉は背中に冷や汗が流れるのを感じながら、こちらを凝視している少年に、ぎごちなく首を向ける。
 まずい。完璧に目が合っている。
 この場をどう乗り切るべきか。郭嘉が上手い口実を考えあぐねていると、その前に少年の方が口を開いた。

「お前何者だ? 見ない顔だが……」

 眉根を顰め、警戒心を露にして鋭く訊いて来る。この意外な言葉に、郭嘉の方が虚をつかれた。だがすぐさま笑顔に転換する。

「いえ、これは失礼しました。わたくしこの度新たに雇われた庭師でして、お庭の点検に参ったのですが……」

 あまりにも広いお庭ですので迷ってしまいました、とそれはそれは立て板に水の如くさらさらと言う。助かった、彼は自分の顔を知らぬようだ。おまけに今は服装も地味なもので、あまり目立たない。

「庭師?」

 やや碧味がかった瞳を見開き、少年はきょとんと聞き返す。

「ええ」

 どうせこの有様の庭院だ、おそらくこれまで専属の庭師などおるまいと推測して郭嘉はあくまでにこやかに頷く。
 少年はさほどそれを疑う風もなく、「そうか……」と呟くと、再び脱力したかのように俯いた。
 郭嘉はとりあえずほっと胸をなでおろす。それから、陽光に照らされ紫に輝く珍しい髪色を眺めながら、何だかどこかで見たことがあるような既視感に襲われた。
 そしてはたと、手元の文の存在を思い出す。それは少年も同様だった。

「あっ! ま、ままっ!」

 哀れ少年の制止よりも早く、郭嘉はその文面を目にしてしまった。

「んん、何々? 『貴女はまさに白い雪の中艶やかに咲き誇る椿。その桜貝のごとき唇から紡がれる言葉は円月すらも恥じて姿を隠すほど芳しく……』」
「わーー!!」

 顔面耳まで真っ赤になった少年が居ても立ってもいられず叫ぶ。
 だがわざわざそのようにせずとも、郭嘉はそれ以上読みはしなかった。というよりも、読めない。

「……」

 無言で肩を震わせる。駄目だ、堪えろ。噴出すな。笑ったらおしまいだ。ここが正念場だぞ郭奉孝、と念じながら、口元を掌で押さえる。

「……笑いたきゃ笑えよ」

 しかし言葉よりも明らかな郭嘉の態度に、案の定少年はヤケクソになって吐き捨てた。ぷいと顔を背ければ、もうだめとばかりに郭嘉はブハッと噴出した。

「い、いやこれは失礼……ブフッ」
「もういいよっ」
「失礼ながらこれは若君の?」
「そうだよ! 恋文!」

 ほんとうに恥半分で投げやりになっているのか、少年はそう言うと「返せよ」と手を伸ばす。だがあえて郭嘉はそれを無視して、

「真に僭越ながら、若君はもしや恋煩い中ですか?」
「!」

 少年の顔色が変わる。

「先ほどからのご様子ですと、なかなか病は重いようにお見受けしたのですが」
「……やっぱり、分かる?」

 気まずそうに上目遣いで少年が訊いてくる。

「ええ、まぁ。というか、かなり」
「やっぱり、やっぱりかぁ」

 盛大に溜息をつき、少年は高覧に突っ伏す。

「患い中って言うかね、俺、女の子に触れたことないんだ」
「は?」

 意味を図りかねて郭嘉が目を丸くすると、

「いやさ、兄上が『お前ももう17なのだから、そろそろ女を知っておかないと後々恥をかくぞ』っていうから、ならばと思ったんだけど、よくよく考えると俺家族以外の女の子とまともに話したりしたことなかったんだよな。恋愛なんていざ知らず……」

 尋ねてもいないのに、少年は勝手に仔細を話してくれる。どうやら誰かに聞いてもらいたかったらしい。要するに、どうやっていいか分からない、ということのようだ。
 そういえば俺は十三で筆下ろしだったな、などと極めてどうでもいいことを思い返しつつ、郭嘉はさりげなく訊いてみた。

「女性と付き合いがない?」
「ああ、出仕するようになったのは十五のころからだが、生まれてこの方一度も告白すらされたことがない」
「失礼ながら、御歳は?」
「十七」

 女性と非接触で十七年。どれだけボンボンなんだと思うが相手が良家の子息であればそれも当然かもしれなかった。特に儒家は未婚男女の交流を厳しく制限している。自由人であることを許されていた自分とはそもそも環境が違った。
 だが、と不思議に思う。見たところ少年は面立ちは悪くない。むしろ精悍な方といえよう。性格も純朴そうだし、何より若々しい。放っておいても城中の女官の一人二人は寄ってきそうなものだが。
 何か別のところで問題があるのだろうか。
 そこで郭嘉はふと思い立って尋ねた。

「それでは、若君は意中の相手がおれるわけではなく?」
「いや、いるんだよ。一応、なんとなく気になるな~って娘は」

 一転勢い込んで主張する少年。そりゃそうだろう、意中の相手がいなくては恋煩いとは言えない。
 その娘とは、城中に仕える女官で、三つほど年上だという。なかなか器量よしで、最近よく見かけるようになってからいつのまにか目で追うようになったのだらしい。

「やっぱり最初は好きな娘とシたいじゃん」

 あけすけな本音を暴露しつつ、何度目か分からぬ溜息を吐いた。気持ちは分からんでもないが。恋愛がしたいのかやることやりたいだけなのか、話によっては最低男になってしまう。

「それで、何か問題でも?」
「いや、問題と言うかね……ま、色々と」

 何故か遠くを見やるように、少年は妙に引きつった笑いを片頬に浮かべた。




「相手の身分がつりあわないとか?」
「いや、釣り合わないことはねぇんだよ。どうもその女官っていうのは権の三つ上なんだが、名家の誉れ高い蒿家の次女でな。身分としては孫家としてもまったく申し分ない。むしろこちらとしてはありがたいくらいだ。器量もいいと評判だし、なかなかお似合いだとは思うんだ」

 孫家はそもそも寒族の出だ。いくら今権勢を振っているとはいえ、江東の中でも由緒ある家柄ともなれば、成り上がり者になぞと疎まれることは稀ではない。
 茶を運んできた姪琳に目で礼を言いつつ、周瑜は卓の向かい側で渋面を作る親友に疑問を投げかけた。

「なら何故そこまで思い悩む必要があるんですか」
「それがよー権の奴、あの歳まで母ちゃんや姉妹以外の女ってものにとんと接したことないからさ。免疫とかそういうのに欠けるんだよな」
「最初のうちは誰だってそうですし、失敗を重ねて色々と悟っていくものなんじゃないんですか?」

 貴方だって似たようなものだったでしょう、と言えば、そりゃそうなんだけどさ、と苦々しい呟きが返ってくる。
 二人は若い頃から孫朗周朗と呼ばれ、顔も家も申し分ない、それはそれはモテモテ公子だった。まさに黙っていても女が寄ってきて引く手数多な状態。それは結婚した今でも変わらず、言い寄ってくる女性は絶えない。
 孫策が権と呼ぶ弟も、そんな孫策の血を分けた兄弟なのだから、案じずとも自ずと女性と交流が持てるのではないのだろうか。しかも孫権は孫策よりも思慮深く優しい気質なので、孫策以上に女性の人気も得られそうなものだが。

「私には伯符様がそこまで気に病む理由が分かりかねますが」

 茶を啜りながら、兄馬鹿とも言える孫策の心配振りに苦笑する。
 だが孫策は違うのだと首を振った。

「問題はそこじゃないんだ」
「?」
「お前は視察に出てたから知らないだろうが、実はな……」

 孫策は項垂れ深く重い息をつきながら、ようよう語りだした。
 それは周瑜が周辺地域の灌漑事業の案件を詰めるため現地視察に行っていた頃、孫策は十七になった弟のために、一発出会いを演出してやろうと、おなじみの官吏だけでなく身分の高い上級女官を招き、ささやかな宴を開いた。周瑜のいない間を狙ったのは、彼がいると女官たちの目が釘付けになってしまうからである。
 孫権も初めての経験に、おそらく気が舞っていたのだろう。
 そこまで聞いて、周瑜はなんとなく嫌な予想がついた。
 案の定というか、孫権は母の呉夫人にきつく言い置かれていたのにもかかわらず、勧められるままに三杯以上の酒を飲んでしまった。

「……まさかとは思いますけど」
「そのまさかなんだよ……」

 おそるおそる尋ねた周瑜に、孫策は疲れたように告げた。
 容姿良し、頭良し、武にもそこそこ長け、さらに思いやり深い孫権。まさに欠点なしとも思えるそんな彼に、唯一つ致命的な欠点があった。
 それは、酒癖の悪さ。
 いや、悪いなどというのはまだ可愛い方だ。
 はっきり言って酒乱。
 一見いいとこばかりの孫権は、酒が入ると性格と人相がまるっきり変わり、普段からでは想像もできないほど暴れる。暴挙にでる。まさしく大虎状態。それは逆切れした孫策以上に手がつけられないと一部ではもっぱらの噂である。臣下ではあまり行き過ぎた行動に出られぬからもっぱら孫策が綱引き役をするほど、その暴れん坊ぶりは凄まじい。しかも本人はキレイサッパリ何も覚えて無いのだから性質が悪い。

「それをさーよりにもよって主要な才色兼備の女官達の前でやっちゃったものだから、それ以来なんとなーく引かれて……」

 演出どころか、裏目に出て逆に障壁を作ってしまった。ガックリと肩を落とした主君に、周瑜はなんとも言いがたい微笑を浮かべるしかなかった。




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