そんな問答をしている二人の様子を見ていた人物が、もう一人。
郭嘉たちが歩いてきた回廊とは逆の、曲がり角の向こう側に一人の女官が佇んでいた。
彼女は恋仲の相手に、今日この時間この場所で待っているという言伝を受けた。ここまでの道程、表情は努めて済ましたもので、むしろツンと不機嫌そうである。当然だろう、と彼女は内心呟いた。
三つ年下の彼は初々しく甲斐があるものの、いささか恋愛対象としては刺激が足りなすぎた。そこで彼女は一計を案じ、彼を焦らしに焦らしまくったのだが
―――さすがに突然押し倒されたときは驚き、憤りのあまり容赦ない一手を食らわせてやった。力任せに事を進めようなど、無粋にもほどがある。
未だその腹の虫は収まってはいない。本当なら、今回の呼び出しにも応じる心算はなかった。だが、気がつけば何故かこちらに足を向けていた。
きっとこれは、哀れみだ。そもそもこんな恋愛ごっこだって、あの酒乱も甚だしい少年を憐れんでちょっとした気紛れついでにつきあってやっただけなのだ。
そう、今こうして向かっているのも
―――
だが、回廊の先、彼の少年の姿を目にしたとき、彼女のそんな言い訳めいた心は瞬時に消え失せた。
頼りない明かりを揺らめかす灯篭の下、確かに彼はいた。しかし、一人でではない。見知らぬ女人に縋りつくようにして、顔を赤く染めながらはにかんだように笑っている。相手は女官仲間の中では見覚えのない面立ちであるが、美しい造形であることは遠目でも分かる。何より少年の見るからに楽しげで嬉しそうな顔。傍から見ても、邪魔を惜しむほどのいい雰囲気である。
途端、それまでの彼女の玲瓏たる面が僅かに硬くなった。
きゅっと唇を噛み、さっと踵を返す。柔らかな絹の裳裾が翻った。
(……意趣返しに、新しい恋人との仲を見せつけようってこと?)
沸々と腹の底から怒りが込み上げてくる。やりきれなさに、目頭が熱くなった。何故こんなにも腹立たしいのか。自分で言ったではないか、所詮これは遊びだと。本気ではないと。ならば彼が誰と仲睦まじくなろうと、知ったことではないではないか。なのに、何故にもこんなに胸が苦しくなるのだろう。
悔しい、悔しい。
やるせない
―――
溜まった涙が、頬を落ちた。熱い軌跡が、瞬間的に空気に触れ冷える感覚が妙に鮮烈に感じられた。
言葉に出来ない感覚、胸中の混乱の渦を振り切るように、自然に身体が力んで足を速める。
それがいけなかったのだろうか。それまで忍ばせていた足音が、微かに鳴った。
ハッとして、それまで目の前の人物に気を取られていた孫権が首を巡らせ、背を向けて足早く去る彼女に気づく。
支えてくれていた手を振り切り、顔色の悪さも構わず追いかける。後ろから名を呼ぶ声が掛かったが、少年は振り返らなかった。
追ってくる気配に気づいた彼女は、慌てて走り出す。孫権から逃げるように、泣いた顔を見られるのも悔しくて、顔を袖で隠しながら。
「蓉華!」
名を叫ばれ、そうかと思ったら追いつけれて腕を捕らえられた。
強い力で掴まれるも、しかし少年はそのままで、彼女をこちらにむかせようとも何もせずただただ静止した。
掴まれた腕から感じる体温が、異様に熱い。
彼女はそれを感じながら、只管その状態で顔を背け続けていた。
「蓉華
―――来てくれたんだな」
静かに、しかし嬉しげな声色で、彼はゆっくりと言った。
「……」
「蓉華……その、この間のことなんだけどさ」
無言の彼女に、目線を落としながらやや躊躇うような口ぶりで少年は切り出す。
「俺がどうかしてたよ。勘違いしてたんだ。君が怒るのも当たり前だった。あれは俺が完全に悪かった。すまない、この通りだ」
「……今更、そのようなことどうでもよろしいです」
ようやくぽつりと口を開いた彼女に、少年はハッと顎を向けるも、その冷めた言葉に戸惑った眼差しを注ぐ。
彼女は依然こちらに顔を向けようとせず、袖口で覆ったまま静かに淡々と続けた。
「もう、過ぎたことです」
「蓉華?」
「ご用がお済みでしたらお放し下さい」
「蓉華、まだ怒ってるのか?」
「怒ってなどおりませぬ」
「怒ってるじゃん」
焦れた少年が強く言い返す。
それに、彼女はとうとう抑制力を失った。
バッと勢いよく振り返って、自分を捕らえる者の顔を強く射抜いた。
「ならば申し上げますが!!」
少年が大きく目を見開く。
構わず彼女は叫んだ。
「昔の女にした所業を今更謝られる必要はございましょうか!? 余計なお気遣いにございます! よもやこれ以上、私を辱め惨めにさせたいのですか!」
「む、昔の女?? 待ってちょっと、何の話?」
「お惚けですか!!」
ギッと鬼のような形相で睨まれ、少年はたじろぐ。
「あれほどまでの仲睦まじき姿を見せ付けられて、まだそのような戯れを仰いますか。さっさとあの美しい女人の元へお戻りになればよろしいのでは?」
「……は?」
少年は豆鉄砲を食らったかのごとく、これほどもないくらいに大きく目を瞠った。
ぱちくりと瞬きを繰り返しながら彼女を見る。彼女の顔は本気だ。思いつきで物事を言っているようには思えない。
視線をさまよわせてゆっくりと記憶を巻き戻す。それから、あ、と口を開けた。
「もしかして、さっきの?」
まさか、とは思いつつ、訊いてみる。
「言い逃れは聞きませぬ」
少年は数拍呆けたようにしながら、俯き震えだした。そして、たまらないとばかりに噴出し、大声で笑い始めた。
「ぷっ…はは! あっはっは!」
「な、何が可笑しいのでございます?」
突然のことに今度は彼女の方がうろたえて少年を見上げる。
「す、すまない……だって」
なんとか笑いの虫を押さえ込みながら、少年は涙を拭って言う。
「さっきのは、女の人じゃなくて公瑾殿だよ。中護軍で、兄上の幼馴染の」
思えば確かに周瑜は何故か冠をつけていなかった。官吏は通常人前では冠をつけているものなので、剥き出しの髷に簪だけの状態では一見女官風にも見える。身長も間近に見れば平均男性並みにあるが、孫権の方が上背があるため並ぶと分からない。極めつけあの美貌では、遠目からすると勘違いするのも無理はなかった。
「え……?」
はた、と彼女の表情が素に戻る。
言われていることが分からないというように目を瞬いた。
ゆっくりと脳がその言葉を繰り返す。
顔が、これ以上も無く真っ赤になった。
「ぷぷーっ、はははは!」
「お、お笑いになられますな!!」
「い、いやだって! こ、公瑾殿が新しい恋人?……ブハッ」
再び笑い続ける少年に、彼女は照れと恥ずかしさと理不尽な怒りでそっぽを向く。
それを抱きしめて、少年は笑みを納めぬまま言った。
「可愛いな、蓉華。焼餅焼いてくれたのか」
「自惚れを。私は焼餅なんかやいておりませぬ」
「うんうん」
泣いた痕も明らかなのに素直じゃない彼女に、少年はそれでも嬉しそうに肯く。
抱かれた腕の中で、彼女は薄く頬を染めたまま憮然と目を伏せた。
年下なのに、少年の背は彼女よりずっと高く、柔らかく包み込む懐は暖かかった。
彼女が思っていたよりも、少年はずっと成長した男性であったのだ。
そのことを今更のように発見し、そして遊びだと思っていたのにいつの間にか本気になっていた自分自身の心に、そっと触れる
。ずっと気づいていなかったのは、自分の方だった。
吊り灯篭の炎が照らす中、暗い回廊に二つの影がずっと映し出されていた。
一部始終を柱の物陰から見守っていた郭嘉は、空気を読んで同じく避難してきた隣の周瑜に小声で囁いた。
「何だかよく分からないが、どうやら無事に上手くおさまったみたいだぞ」
話し声は所々聞こえたり聞こえなかったりだったが、二人の様子から問題が円満に解決したことが見て取れる。
「……何だか当て馬にされたような気がしてならないのですが」
憮然とする周瑜に、郭嘉はただ笑うばかり。
「気のせい気のせい。いいじゃないか」
「まぁそうですね」
郭嘉が少年こと孫権に「酒を飲む前に飲め」と言って渡したのは、郭嘉が持参してきていた軽めの風邪薬。これは実は酒とは飲み合わせると急激に具合が悪くなるのだ。以前知らず郭嘉はその状態に陥ったのだが、華佗が「死にはしないから問題ない」と言っていたので、まあ孫権も大丈夫だろう。まさに肉を切らせて骨を絶つ、だ。
「あーあ、若いっていいよな」
郭嘉は伸びをしながら、身を翻す。そういえばここのところ禁欲生活を強いられていて、女に触れずにいて久しい。随分健全な日々を送っているものだと、許都の面々が見たら目を剥くだろう。実際享楽に耽れるものなら耽りたいが、さすがに今は立場的にまずい。いかに品行不良で鳴らしている郭嘉といえども、そのあたりは弁えていた。
必然的に手癖は慎まなければならないわけだが、郭嘉にしてみれば日常の楽しみを抑制された拷問に近い生活である。
物足りなさ気にぼやく郭嘉の背を見返し、周瑜はすかさず言う。
「帰りたければ帰ってもよいのですよ」
「冗談。何も功績ないまま帰れはしないよ。そんなことしたら殴られそうだしな」
挑発的な科白に、郭嘉は肩越しに振り返りにやりと口端を上げた。
その反応にいささか面白くない思いを抱いた周瑜は、ふと一計思いつき、口を開いた。
「別にいるのならいつまでもいていただいて構いませんけど」
ん?と郭嘉が首を後ろに向ける。俄かな周瑜の対応の変化に、疑問の表情を浮かべている。
「私は貴方のこと、わりと好きですからね」
後で帰りたいと言っても帰しませんよ。
言葉の甘さとは裏腹に冷笑しながら、周瑜はすれ違いざまに耳元に吹き込む。
瞬間郭嘉は全身にぞわっと鳥肌を立たせる。耳と叫びそうになった口をそれぞれ押さえ、戦々恐々と犯人を振り返った。
「成程、北の天才軍師の弱点は耳ですか」
常は憎らしいほど余裕を崩さぬ男の心底間抜けた表情が見れたことに溜飲を下げ、周瑜は満足気な微笑を浮かべ足取り軽く先を行く。
「おいコラ、年上をからかうな」
その背に反論をぶつけるも、弱々しく情けない声になった。
「人に内緒で勝手に策を弄した挙句に、当て馬に仕立てて下さったお礼ですよ」
「……バレてら」
「この私が気づかぬとでも? 見くびられたものですね」
肩越しに嫣然と笑う。が、その目は一切笑っていない。
(まずい、これは完璧に怒っている)
「わ、悪かったって」
いつになく冷や汗と焦り交じりに謝りながら、郭嘉はふと背後で幸せそうにしている二人を見やり、ふと微笑を浮かべた。
そうして衣擦れの音に注意しながら踵を返し、周瑜の後を追った。
恋せよ若者。
春の蕾は、そこにここに。