色とりどりに華やかな盛り上がりを見せる宴の広間。その上座近くで、紫髪と青瞳が特徴的な小覇王の弟孫権は、独り両手で杯を包み込むようにしながら、空ろに溜息をついていた。波立つ水面に移る歪んだ己の顔を見返し、鬱々とする。
「おい権! なんだシケたツラしやがって。お前が言い出した宴だ、もっと楽しめや」
上座から兄が身を乗り出しながら陽気に声をかけてくる。
ハッとして孫権は顔を挙げ、慌てて笑顔をつくった。
「ご、ごめん兄上……ちょっと考え事しててさ」
主君とはいえ、兄に対する口調は親しげなものだ。孫家はこれで通ってきているので、咎める者は誰もいない。むしろ睦まじい兄弟仲を見るほど、古参の諸将たちは微笑ましげに眼差しを注ぎ、官吏たちも江東の前途が明るいことを確信して安堵する。
しかし孫権の心中は複雑だった。
この宴は、確かに自分が言い出したものだ。そうする必要があったのである。しかし先月から連発開催している。宴というのは華やかな反面、そうそう簡単に催せるものではない。何せ金がかかるのだ。準備にしろ給仕にしろ食材費だの燃料費だのその他諸々。普段の食事の数倍かかる。許都の曹操ならまだしも、東呉の財力は底なしではない。基本的に財政は軍事面のほうに大幅に割かれている。宴一つやるにも、予算を少しずつ切り詰めていかなければならぬのだ。結構苦労がかかっている。
だがそれでも孫権は、「先ごろ投降した元山賊たちの部曲が見事反乱軍を鎮圧したとか。ここで宴など開いて彼らの功を労い、荒くれ者たちの心を掴んでおくのもいいのでは」などと方便を口にし、「確かにそうだな」と単純に同意を示した孫策から許可を得て開いてもらった。
恐らく孫策も、ただ孫権の言い分を鵜呑みにしただけではなく、最近の躁鬱とした弟の様子を心配して、少しでも気がまぎれるようにという取り計らいなのだろう。
だが、孫権の目的は実際そのどちらでもなかった。
恐らく。
(多分、ね)
本人ですら理由があやふやなわけは、かの助言者たる庭師の男がこう言ったからだった。
『今より三日後。宴など開いていただけますか』
一体何が目的なのか、何を企んでいるのかは分からない。だが不思議と、男の声音や飄然とした表情はこちらに否応なく信じさせる力があり、それはどこか参謀めいた
―――策を講じるときの周瑜と同じ雰囲気を感じ取ったからであった。
ただの庭師でしかないが、それでもあの男はきっと何かを起こそうとしているはず。それが一体何なのか自分には判然としないが、とりあえず言われたとおりやっていれば良いのだ。
なのだが。
先程からなんというか、心なし……
(気持ち悪い……)
酒を飲む前に服せと予め男から渡されていたあの薬がいけなかったのだろうか。いや、あの男は「いやぁ何。酒酔いを抑える薬ですよ」と満面の笑顔で言ってのけた。なんでそのようなものを一介の庭師ごときが持っているのかと疑問に思ったが、協力を失うのを恐れてあえて問わずに言われたとおりにした。
だが、酔いは確かに来ないものの、それは酒の量がそこまで達してないからであって。
ではこの気分の悪さは一体。
(飲みたいだけ好きなだけ飲んでいいと言っていたけど)
孫権は青い顔色で、杯をゆっくりと床に置く。
(飲めば飲むほど気持ち悪くなってきているような……)
ウッと、喉の気管の奥で込み上げるものがある。思わず嗚咽を押さえ込んだ。何やら目の前もふらふらとする。いつも酒に酔い我を失うとこのように所在定まらぬ状態にはなるが、あの時のような開放感や爽快感や高揚感はない。むしろこれ以上もなく最悪の心地だ。
だが、自分にはやらねばならぬことがある。
ちらりと外の空にかかる月を見やる。天文に慣れた目には、それだけで現在時刻が大まかに分かった。指定した時刻はそろそろだ。
宴は未だ盛り上がりと勢いが止まらない。孫権はその中をふらつく足で立ち上がり、覚束ない様子で広間の外へ人知れず向かった。
紫毛が広間の入口際から消えるのを肩越しに確認した郭嘉は、一つ胸を撫で下ろした。宴となれば勅使の自分も呼ばれるのは恒例だが、孫権がこちらに気づかぬよう、さり気なく立ち回るのに神経を使った。考えてみれば孫権が一人前として認められ宴に同席することはまだ二回目。彼が郭嘉の顔を知らぬのも、また郭嘉が彼の顔を知らぬのも、当然といえば当然だった。
自然な動作で席を辞し、周瑜を目で探した。
発見したかの中護軍は何やら高官たちに囲まれて至極うんざりした様子だった。いや、表向きは鮮やかな微笑を刷いて相手をしている。だが、あれはウザがっている顔だ。
「周中護軍殿」
「ああ、勅使殿。いかがなされましたか」
それとなく近寄り、そっと背後から声を掛ければ、周瑜はあからさまに安堵した表情で郭嘉を見返した。
「すまないけど、そろそろ私は室に下がらせていただくよ」
「左様ですか。では室までお送りいたしましょう。しばしお待ちを」
内心助かったとばかりに、周瑜は身支度を整え周りを囲っていた官吏たちに作り笑いで挨拶をした。
そのままそそくさと広間を退場する。
いくらか回廊を進んだところで、周瑜がため息とともに肩の力を抜いた。
「助かりました」
「何だかあんたも大変だな」
真剣に疲労を露にする周瑜に郭嘉は苦笑を滲ませる。あそこまで有象無象の輩に絶えず群がれては、さすがの中護軍といえどもいい加減煩わしくなってくるだろう。
「まぁ、仕方のないことなのですがね」
どうにもああいう席は不得手で、とこちらもやはり苦笑いをする周瑜。心労の絶えぬ東呉の智嚢を思って、郭嘉は心から同情した。だからと言って手加減はせぬが。
「それにしても、随分お早いお休みですね」
酒豪かつ無類の酒好きの郭嘉がわざわざ早めに切り上げるなど意外である。
言外にそう顕す周瑜へ、
「俺もそろそろはけたいと思ってたからな。やっぱり美味い酒は静かにのんびり飲むのが一番だ」
腕を頭の後ろで組みつつ、郭嘉が嘯く。同感です、と周瑜は頷いた。
と、その時。
回廊の先。右曲がりの角辺りに、蹲る人陰があった。
「おや? なぁ、あれって」
不意に訝しげに指を差した郭嘉の視線を追って、周瑜もそちらを眇め見る。風に吊り灯篭の仄かな光が揺れ、ちらりと特徴ある毛色が垣間見え、瞬時に凍りつく。
(仲謀様!?)
驚愕に目を見張り、慌てる。それからハッとして横を窺った。
幸い隣の男はそれが誰だか気づいた様子はない。「具合が悪そうな様子だが」などとぼやいている。
周瑜は瞬時に決断した。さっと人陰へ向かって駆け出そうとする。
「あ、公瑾殿」
だが、やにわに冠を思い切り引っ張られ、勢い余って仰け反った。
「何をするんですか」
冠がずれた拍子に笄が外れる。その拍子に緩んだ髷を押さえながら、いきなり意味不明な行動を取った相手へ小声で非難する。
だが不意打ちで相手の冠を奪った張本人は、全く悪びれた様子もなく庭先の方へと払っている。
「いや、ごめん。冠に
蜚翠がついてたから、つい思わず」
その単語に周瑜の頬が引きつった。怒りが生理的嫌悪に上塗りされる。
被り直すか?と冠を差し出してくる相手に「いえ」と掌を向け固辞した。あの黒い物体が這っていたと聞いては、さすがにそのままつける気にはなれない。士大夫たる者としては、人前で冠がない状態というのは単袍で外を出歩くのと同じくらい抵抗があるが仕方がない。どうせ今ここにいるのは子どもの頃より育ってきた幼馴染の弟と、単袍どころか湯浴の介助までされたことのある男だ。
「髻がずれてしまってすぐにつけられませんし、締めなおしている場合でもないので」
ひとまず返された笄を挿し直して何とか体裁を整える。
「ああ、あとそれから」
「何ですか」
もしやまだいるのではないだろうな、といささか警戒し無意識に腕をさする。
手短かにお願いしますと後ろの人物をチラチラと気にしながら促せば、郭嘉は口横に手を当て小さく囁いた。
「声を掛けるときは、耳元で呼んだほうがいいぞ」
「は?」
意味が分からない様子の周瑜に、彼は意味ありげに微笑した。そして、右曲がりの向こうから現われこちらに近付きつつある別の人陰をちらりと一瞥する。周瑜からでは見えていないようだ。
「馴染みの医者から聞いたんだよ。気分が悪そうな奴を見かけたら、おもむろに呼びかけるのではなく、側に寄って耳元でそっと声をかけろってな。酒を飲み過ぎた奴は驚いた拍子に吐くかもしれないし、場合によっては心の臓が止まったりするとか。かの神医が言うんだから間違いない」
「そうなんですか?」
曹操がかの神医に度々持病の頭痛を診てもらっているという話は聞いており、病弱体質の郭嘉もついでに治療を受けることはあるのだろう。
なんとなく腑に落ちぬ顔をしながらも、かの華佗大夫が言うのであればそうなのだろうと周瑜は納得した。
ひとまず足早く隅の高覧に凭れる人物に近付き、後ろからそっと耳元で声をかける。
「仲謀さま」
「ぐわぎゃっっ!!」
途端、奇声を発してその人物が飛び上がり、ザザッと身を退く。
吊り灯篭の真下なので、耳を押さえながら焦りなのか何なのか顔を真っ赤に染めているのかの主弟・孫権の様子が辛うじて確認できた。
孫権は周瑜の顔を一目見るなり、はたと瞠目して、逆立てていた気を静めた。
「なんだぁ、公瑾か……」
はあーと大仰に溜息をつく孫権に、周瑜は首を傾ける。
「お加減が悪いのですか?」
「い、いや」
依然顔を染めたまま、視線を泳がす。周瑜はますます訝った。主君だけに留まらず、その弟君とも、赤ん坊の頃からずっと知っている長い付き合いだ。言い難いことや隠し事があるときの孫権の表情を、周瑜はしっかり心得ている。
「何かあったのですか?」
「ちち、違うんだ。ただ」
「ただ?」
促す周瑜に、孫権がたじろぐ。どう答えたものかと考えあぐねていると、不意に勾覧から腕がすべってフラリと身体が大きく揺れた。
慌てて周瑜が支える。
「大丈夫ですか?」
「う……うん。なんかちょっと酔っちゃったみたいで」
ハハハと照れたように取り繕う孫権の笑い顔を見ながら、周瑜は心中で「えっ」と声を上げた。
(酔った……こんなまともなのに?)
さりげなく失礼な感想だが、確かに孫権の「酔った」は通常の「酔った」ではない。そのあたりのことを熟知している周瑜は果てしなく妙な顔をした。