「ゆうれい?」
饅頭を掴み頬張りかけた郭嘉と、片や茶器を口に運んでいた周瑜の声が、突然闖入してきた人物に向けられて重なった。
情報をもたらした張本人である呂蒙はといえば、そんな二人に対してどこまでも真剣な表情で、はいそうなんです、と神妙に頷いたのだった。
郭嘉と周瑜がこのように一緒に茶を飲んで談笑することは別段珍しいことではない。特に接待役である周瑜が勅使の貴賓室に足を運ぶことに何ら問題があるわけではない。しかし立場は依然として名実とも対立関係である以上、あまり頻繁な接触も不要な不信を生みかねないので、他の官吏達には内密にしている。
しかし例外的に呂蒙だけはこの二人の交友関係をとうに知っており、それに疑惑を抱くどころかむしろ自分も便乗しているくらいで、このように公務の間を縫ってしばしば二人がいるところに顔を出しては遊びに来るのは最早お馴染みのことだった。
そのお馴染みの場面に急いだ様子で飛び込んできた呂蒙によって、冒頭の台詞に戻るわけである。
「
鬼って、お前そりゃあの死んだ人間のアレか?」
郭嘉が小首を傾げつつ、ぽやんと確認の問いを呂蒙に向ける。
「そうです、人間の幽霊です。最近密かに噂になっていて……なんでも、出るんだそうですよ」
「出るって……何処に?」
郭嘉が矛先を変えて周瑜の顔を見れば周瑜は初めて耳にしたとばかりに、やはり不思議そうな表情でさぁと答えた。
なかなか反応の薄い二人に、呂蒙は勢い込んで声を上げた。
「銚婁殿にですよ!」
「銚……?」
「ああ、あの城の外れの?」
「そうです!」
東呉城内に明るくない郭嘉にはさっぱりであったが、その名を耳にした途端周瑜は心当たりがあるのか思い出したかのように口に上らせた。呂蒙が顔を輝かせて力強く何度も頷く。
「何だ? その銚婁殿とやらは」
「城の艮の方角にある殿です。廟を伴った小さな建物なんですが、一体それがいつの誰の廟なのか全く分からないんです。初めのうちはそれでもきちんと手入れされてはいたものの、いかんせん場所柄が良くなく……いつのころからか奇々怪々な現象が起きるとかで皆が怯え、そのうちに誰も踏み入らなくなって今は廃墟と化してます」
どこまで本当なのかはわかりませんけどね、と付け加えながら簡単に周瑜が説明するのに、ほうと郭嘉は感心して頷く。呂蒙がその後を引いた。
「そう、前々からヘンな噂の絶えなかった『開かずの廟殿』ですけど、この間からそこに恐ろしい鬼が出るとかで今や城内はその話で持ちきりですよ」
そういえば、と郭嘉は頭を巡らす。確か細尊が持ってきた数多の情報のなかに、そのような内容が含まれていたような気がする。その時は別段取りとめることもない話だと思って即座に切り捨てたのだが
―――
「で、その鬼がどうしたんだ?」
こういう話はそれこそ今に始まったことではないのだろう、さほど驚いた様子も無く周瑜は呂蒙に目を向ける。怪力乱神を語らずではないが、彼はそもそも幽鬼の類を信じない。郭嘉も完全否定こそしないが肯定もしない。二人とも、そうしたものは大概人の心の恐怖が生むものだと知っているからだ。軍師は迷信を信じず、逆に信心深い人心を利用する。
「それがなんですけど」
なぜか声を潜め、呂蒙は思わせぶりな眼差しで低く答えた。
「どうにもこうにも、昔あそこで死んだという官吏のものらしいんです」
呂蒙が仕入れてきた話を纏めるとつまり、かつて和帝の時に、この呉都の城で下吏として務めていた男が、主君の娘に惚れてしまったが、身分違いゆえの適わぬ恋に身を窶して、衰弱するままにとうとう死んでしまった。しかし男は死してもなおその恋を諦めることができずに、今も夜な夜な出没しては徘徊しているらしく、なんでも「女はいねぇがー」とか、「ひと~り、ふた~り、さ~んに~ん……きゅうに~ん……みな男……女が足りない」などという声を聞いたとか聞いていないとか。
「……なんか微妙にズレているような気がせんでもないが」
「ともかくともかくです、特にここのところ何人も男の声を聞いたって人が出てるんですよ!」
郭嘉のさり気ないツッコミを綺麗に躱し、呂蒙はここぞとばかりに主張した。心なしか瞳が好奇心に輝いている。
「『女はいねがー』って?」
「いや、さすがにそれはないですけど……でも、奇声のようなものや、恨めしげな男の声を聞いた人は何人もいます」
やっぱり絶対何かいるんですよとワクワクした調子で言い募る呂蒙の斜め前で、周瑜は俯きがちに顎に手を添えた。
「だが、幽鬼など……」
「え、公瑾殿は信じないんですか?」
「信じるも何も、この目で見ていないからな」
苦笑を浮かべて周瑜がそう答えると、呂蒙の双眸がきらりと光った(ように見えた)。
「
―――じゃあ、見に行ってみません?」
「……は?」
きっかり一呼吸の間を置いて、周瑜は声を漏らした。
呂蒙が、好奇に踊るのを隠し切れぬ口調で、今度はじっくりと繰り返した。
「だから、噂が本当かどうか、実際に行って確かめてみましょうよ」
「はぁ?」
今度こそ周瑜は呆れたように声を上げた。理解できない、とばかりに、唖然とした表情を呂蒙に向ける。
「だ・か・ら! 肝試しですよ肝試し!」
これが言いたかったのか、と、今更ながら呂蒙がわざわざこの噂話を持ち込んだ真意を悟り、周瑜は眉根を寄せる。
「何を馬鹿なことを。大体肝試しって時期でもないだろう。そんな噂を本気で
―――」
「よし、乗った」
意外にも、周瑜の言葉を遮って呂蒙の提案に賛成する声を発したのは郭嘉だった。
え、と思わず隣を凝視する周瑜に、郭嘉は軽い調子で言う。
「面白そうじゃないか。折角だから噂の真偽とやらを見極めてやろうじゃん」
予想外の言葉に、周瑜はただぱちくりと目を瞬くばかりだ。
実際のところ、郭嘉は暇で暇でしょうがなく、何か目立って楽しい刺激を探していたのだ。要はただの退屈しのぎの暇つぶしである。
「ですよね!?」
思わぬ賛同を得られて、呂蒙が嬉しげに声を弾ませる。こちらはただ単に好奇心が勝っただけだ。
ただ一人周瑜ばかりがついていけずに眉を顰めている。
「自分の立場をご存知で?」
「夜中の、そんな曰くあるようなところならさほど人も来まいし、見咎められる心配はないさ。まあ同じく肝試しに来る奴もいるかもしれないが、念のため細尊に見張らせておけば問題ない」
と肩を竦めてみせる。
「所詮はお遊びだよ、公瑾殿。確かに肝試しには時期外れだが、噂の幽鬼の正体を暴くのも一興だろう」
「そんな尤もらしいことを言って単に暇つぶしがしたいだけでしょう」
「当然だろ?」
いけしゃあしゃあと満面の笑みを浮かべる郭嘉に、周瑜は疲れたように額を押さえる。
「それとも何、公瑾殿もしかして鬼が怖いとか?」
「そういうわけではありませんが……」
というかそういう問題では、と困惑気味に言いかけた声を皆まで言わせずに、郭嘉はにっこり笑った。
「じゃあ決まりだな。今夜決行だ」
「やったぁ!!」
「……」
二対一で強引に可決され、周瑜は二の句を告げぬままこれ以上も無い長嘆息を吐いたのだった