後宮に仕える女官風の出で立ち。彼女は郭嘉たちに背を向ける形で、仁王立ちになって張山太に向かい合っている。
 呂蒙も孫権も呆気にとられている。だが、その姿に郭嘉は見覚えがあった。

「あれ?」

 先程道に迷った時に案内をしてくれた女ではないか。
 そういえば、と思い返す。張山太というトンデモない幽鬼の出現とその他のドタバタですっかり失念していたが、郭嘉はこの内庭に戻って来られてから彼女の姿を見ていない。今まで何処にいたのだろうか。
 しかし、何やら郭嘉が出逢った時と口調も雰囲気も性格も違う。しとやかとは到底言い難い圧倒的な気配が、ひしひしと伝わってきた。
 背後の郭嘉たちを尻目に、女官は腰に手をあて、胸を反らして張山太を見据えていた。それまで不穏な陰を帯びていた張山太の様子が怯む。

「ぎょ、玉蘭……?」
『あんた、ようやく見つけたと思ったら……こんなところで何やってんの』
「ひっ」

 ギロリと睨みつけられ、張山太が(周瑜の)身体を縮こませる。夜幕の下でも分かるほど目に見えて青ざめていた。まさに蛇に睨まれた蛙状態。そういえば周瑜は実は恐妻家であるという風説も聞く。もしかすると案外家ではこういう図なのかもしれない、と郭嘉は場違いかつ勘違い極まりない想像を抱いた。

「お、お前こそなんでここに……」
『まだ分かんないの?』
「は?」

 ぱちくりと瞬く幼馴染に、玉蘭と呼ばれた侍女は眉間に手を当てて嘆息した。

(わたし)は、あんたを探してたのよ』
「探し?」

 張山太はきょとんと繰り返す。改めて何かを発見したように、玉蘭をまじまじと凝視した。

「だって、俺が死んだのは」
『そうよ、ずっと昔。妾はその後60年の生涯を全うして大往生したわ』
「あ、そう……」

 ふん、と踏ん反り返りながら、玉蘭は婀娜っぽい仕草で張山太を見やった。

『でもあんたときたら、妾が死んだって言うのに全然迎えにも来てくれないし。地府に訊いたらまだ魄がこっちに留まっているって言うじゃないの。だからずっとここで探し続けていたのよ』
「え……何故に?」
『この唐変木。女にここまで言わせておいてまだ分からないの!?』
「す、すみません」

 どもりながら即謝る張山太の様子に、生前に相当躾られたらしいと郭嘉はちょっと憐れみの視線を送った。完璧に勢力図が逆転している。
 はぁ、と鋭く溜息を吐いて玉蘭は俯いた。

『あのねぇ。妾は、結局生涯誰にも嫁がなかったのよ』
「……え?」

 何で、と張山太は目を大きく見開く。

『縁談話は腐るほど来たわよ。でも全部蹴ったわ』

 現在にしろそれ過去にしろ、一人の女性が嫁ぎもせず後家になるというのは常識としてありえなかった。よほどの理由がない限りまず家が許さない。それは家の恥でもあるからだ。女は子を残してこそ儒の教えに叶う。それでも彼女は決して受けなかったという。別段、身体のどこかに問題があるというわけでもなかっただろう。むしろ器量よしであった。
 その覚悟が一体どれほどのものか。

『だって妾が一緒になりたかった人は、すでにこの世にいなかったんだもの』
「……」

 呆然と、張山太は見つめていた。絶句しているようだった。
 玉蘭はそんな幼馴染を真摯な眼差しで見返した。

『妾は待っていたのに。ずっと待っていたのよ。あんたが言ってくれるのを』

 声音の内に、震えるようにひたむきな響きが宿っていた。

「そんな、俺は……だって」

 カラン、と剣が地面に落ちる。
 張山太は明らかに動揺していた。

「だってお前は美人で……私のような駄目男など、目もくれるはずない」
『バカね。選ぶ選ばないを判断するのはあんたじゃなくて、妾でしょう』

 どうしようもない、手のかかる弟を見るような眼差しで、玉蘭は慈愛に満ちた微笑を浮かべた。

『小さな頃からずっと一緒だったんだもの、あんたの駄目なところなんてとうに知ってる。でも、誰も知らないようないい所も、知ってるわ。バカで、お人よしで、ウソがつけなくて。でも、とても優しい。困っている人がいると、つい助けてしまうくらいね。騙されているって分かっていても、周りにバカにされても、やめなかった。文も武もてんでダメだったけど、手先が器用でよく木材を拾ってきては、彫師顔負けの色々なものを作っていた。あんたから貰った置物も、楽器も、全部大切にとってたわ」
「あんなものを?」

 信じがたいというような表情で、張山太は呟いた。あんながらくた、とうに捨てられたと思っていたのに。
 本人すら忘れていた――――長所とも思っていなかった些細な事柄を、玉蘭は贈られたものとともにずっと大切にして忘れなかった。その事実に初めて気づき、愕然と立ち尽くしているようだった。

『あんな上辺だけの妾を見て言い寄ってくる男にどれだけ魅力があるというの。本当の妾を知ってて、なお側から離れなかったのはあんただけよ。同じように、上辺だけのあんたを見て去っていく女達と、妾を一緒にしないで』

 ゆっくり近付いてくる玉蘭を、張山太は驚愕の顔のまま周瑜の双眸を通して茫洋と眺めていた。
 間近で立ち止まり、玉蘭が見上げる。その白面は、穏やかで優しげに綻んでいた。
 ほっそりとした両腕を伸ばし、今だ言葉なく立ち尽くす男の両頬を包む。

『さあ、その借り物の身体から出ておいで。とても美しいけれど、これはあんたには似合わない。あんたは、妾の姿でこそ好いところが輝くのよ』

 スゥッと、玉蘭の肢体が浮く。そのまま流れるように天に昇る中で、玉蘭の両手に引かれるように周瑜の身体の内から出でる白い影があった。
 張山太の魄だろう。それは、見たことのない男の姿をしていた。張山太、その人自身だ。
 影は、寄り添うようにしながら中空で手をとりあう。
 それから、ふと玉蘭は郭嘉を見下ろした。

『ありがとうございます。貴方のおかげで長年の探し物をようやく見つけることが出来ました』
「探し物ってのは、そいつのことだったんだな」

 玉蘭は微笑む。まさに華が綻ぶような笑みだった。

「見つかってよかったな」
『貴方が「明るい元でならば探し物も見つかる」と仰ったからですわ。だから眩い光について行ってみたのです。本当にその通りでした。ずっとすれ違いだった私達の心のズレが生み出した空間の隔たりを、おかげで超えることができました』

 言われても郭嘉には自覚がないことだから、ただ黙って笑うしかない。

『お騒がせしました。この人が迷惑をかけてごめんなさい』
『す、すまなかった……』

 玉蘭に小突かれて、張山太は気まずそうに視線を反らしながらもごもごと口を動かす。

『その……彼にもどうか、申し訳なかったと』

 張山太が抜けて、意識を失い地に倒れ伏す周瑜に目を向ける。心底反省したようだ。

「ああ、目を覚ましたら伝えておくよ」
「今度は自分のことをそんなに悲観しないで、その女性と仲良く成仏してくださいね」
「そうそう」

 口々に言って鬼達を見送る。ついさっきまでの切羽詰った空気を思えば全く暢気なものだと苦笑しながら、郭嘉は晴れて結ばれた男女を見上げた。少し考えてから、

「末永く幸せに」

 何やらこう言うのもおかしい気がしたが、言祝ぎを口にした。
 そのまま三人が見守る中、二つの白い影は、夜の帳に吸い込まれるようにすうと消えて行った。




「なんだか、とんでもない肝試しでしたね」

 ポツリと、遠く明るみ始めた空を見上げていた呂蒙が言う。

「そうだな」

 郭嘉も同意する。終わってみればまるで夢のように現実味のない出来事だったように感じる。ふと感じた重みに胸元を見やれば、いつの間に入れていたのか、木彫りの立女俑が懐からのぞいていた。
 殿の中を探索しているときに、ある一室で見かけた、あの像だった。

「本人が言うほど()男でもなかったですね」

 最後にようやく本人の姿を現した張山太は、確かに言われるほど不細工でもなく、言ってみればごく普通の平凡な顔立ちの男だった。

「要は外見じゃなくって、中身の問題ってことだろうな。どんなに造りが美形でも、心が貧相であればそれが外見に影響してくるのは、今回の公瑾殿乗っ取り事件でも明らかだろう」

 乗っ取り、と呂蒙が笑っていいものか迷う風に中途半端な薄ら笑いを浮かべた。

「逆もまた然り、ってことだよね」

 妙にすっきりした声音の孫権。彼も何かまたひとつ、吹っ切れたのかもしれない。

「鬼も無事に昇天したことだし、これにて一件落着だな。さて帰るか」
「そうですね」

 呂蒙が孫策をおぶり、郭嘉と孫権それぞれが周瑜を両側から支えて、歩き出す。
 おぼろげな光たなびく朝焼けの中、長い夜を過ごした銚婁殿をあとにした。

「ん? そういえば何か忘れているような……」

 門を出る時に、一度だけふと郭嘉は呟いたが、すぐに気のせいかと首を捻った。




「ちょっと、いつまでこうしてなきゃいけないのよ!」
「私に聞くな」

 すっかり忘れ去られた憐れな細作は、不意に襲ってきた金縛りのために、『打倒曹操』の人形と共に東の内庭の樹の陰で動けないまま固まっていた。




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