「俺の名は張山太だ」
「はぁ」

 それはさっきも聞いた、という科白は胸の裡にしまっておく。

「今『冴えない名前』とか思ったな」
「いや、別に」

 びしりと指を差され、郭嘉は半眼で溜息をついた。むしろ名など訊いてない、と言いたいところだ。
 先程から周瑜の体を借りて居丈高に話している張山太とやら年齢不詳は、どうやら本人曰く死した人間の魂魄というやつらしい。
 なんでも生前に思い残すところが多すぎて、死んだ後も“あちら”にいけず、長らくこの銚婁殿で彷徨っているのだという。では何をしていたかといえば、取り憑ける若い男を捜していたとか。
 回廊のど真ん中でそれぞれ跪座(せいざ)しながら、郭嘉、呂蒙、孫権は張山太の話を大人しく聞いていた。
 それというのもこの張山太、とてつもなく言動が珍妙なのである。しかも身体は周瑜のものだから、外見とのあまりの落差に、ともすれば噴き出しそうになるのを、三人は腹筋に力を入れて必死で堪えなければならなかった。
 中身が異なると人間こうも違うものか。顔つきすら違って見える。元は周瑜だから顔の造りは人並以上に整っているはずなのに、中身がこの張山太のせいか、美周朗と言いづらいような何とも言えないようなことになっている。なるほど、内面は外見に出るとはよく言ったもの。
 つまるところ、激しく崩れていた。とてもではないが周瑜信奉者たちには見せられぬ姿だ。

「さっさとジョーブツすればいいのに、一体何が未練なんだ」

 孫権が至極もっともなことを訊く。声がかすかに震えているのは恐らく気のせいではない。
 すると周瑜の姿をした張山太は芝居がかった動作で声音高く言った。

「よくぞ聞いてくれた。それはもちろん、今度こそ思い通りの薔薇色人生を歩むためだ」
「はあ、薔薇色……ですか」

 顔の筋肉を懸命に制御しながら、呂蒙が鸚鵡返しに訊く。

「そう! 私は生前、それは冴えない男だった……」

 よくぞ訊いてくれたとばかりにグッと拳を握り、張山太は苦悩げに顔を歪ませた。

「自分で言うのもなんだが、顔は中の下、頭は鈍いし、武術もからきし。要領も悪くていつもいつもいつも貧乏くじばかり。上司に苛められ部下にも仲間にも馬鹿にされ何をしても上手く行かないどうしようもない毎日……」

 滔々と語る張何某に、三人は白けた視線を送る。

「これ、愚痴?」
「しかも!」

 さり気なく突っ込んだ郭嘉を遮るように、一際大きな声で張は言った。

「あまりにも冴えないせいで、女運からも見放され……人生で一度も輝かしい思いをしたことがない」
「はぁ」
「惚れた女からは悉くフラれる始末。ちなみに科白は決まって『あんた微妙にキモいのよ』」
「へぇ」
「そんなこんなしたままあっさり病にかかりあっという間にポックリ」

 くぅ、と涙すら滲ませる張山太に、三人は心底憐れみの眼差しを向ける。たまにいる、こういうツイていない人間。誰かの心の声である。

「何も良いことのない人生。こんなんでは死んでも死にきれぬ!」
「それで鬼となって彷徨っていた、と」
「そうだ!」

 一転してガバッと上身を挙げ、張は叫んだ。
 思うに彼がことごとく女から袖にされたのは、この極端な思い込みと言動も要因ではないか、と郭嘉は思ったがあえて言わなかった。
 周瑜の格好で、張山太は片手を掲げ、高らかに宣言する。

「そこで私は世の者たちに復讐してやろうと思ったのだ。私をコケにしまくっていた奴らに、最高の人生を歩んで見返してやろうと。要は顔と頭! これさえよければいいわけだと!」

 それは違うのでは、と呂蒙は思わなくも無かったが、すっかり確信しきっている張山太の様子に、これまたあえて言うのは控えた。

「そうして今夜、ようやく好機が訪れた……最初はそっちの男に入ろうとしたんが、弾かれてしまったんでな」

 言いながら横目で郭嘉をぎろりと睨む。
 郭嘉はといえば全然身に覚えがないので、首を傾げるばかりだ。

「たまにいるのだ。頭にバカがつくほど能天気に明るすぎる奴がな。貴様みたいなのは私達幽鬼にとって大変迷惑な存在、天敵だ!」
「……これって褒められてるのかな?」
「そうなんじゃないですか?」

 歩く魔除けですね、などと呂蒙が冗談なのか本気なのか分からない相槌を打つ。というか、それならば取り憑こうとする前に気づかなかったのだろうか、と張山太に体当たりされて未だ痛みを訴えている患部をさすりながら郭嘉は思う。
 そういえば大昔に肝試しをした時にも、「出た」やら「見た」やら皆が騒ぐ中、ただ一人けろりとしていたことがあった。そうすると自分は幽鬼に嫌われているということだろうか。なるほど、道理で一人だけ出会わなかったはずだ。

「でも俺だけじゃなくても、ほかにも子明殿とか若君とか、そこの――――

 ちらりと伸びている孫策を指差し、

「活きのいいピチピチの将軍殿とかもいただろうに」
「そこの二人は全然ガキだし、そっちで伸びてる奴は脳筋っぽそうだから話にならない」

 即答で答えた張山太に思わず噴き出す。憮然とした呂蒙が肘でその脇を突き、郭嘉はひとつ咳払いをした。

「それに、この身体の男はどうも霊的に波長の合いやすい体質のようだからな。これほど適した霊媒素材もない」
「ああ、そういえば感応力がある方だって言ってたしな」

 思い出したように郭嘉が言う。
 張山太は掌を天に向け、言葉を吐いた。いちいち大仰な所作だ。

「そう、私はようやく手に入れたのだ。この美貌、才能、身分! これで女にモテまくれる。灰色の振られ人生とはおさばらだ」
「目的はそこなんだ……」

 張山太の言い分に、呂蒙さえも呆れを隠せない。というより彼の『人生』はすでに終っているのでは。

「とりあえず事情はよく分かった。気持ちも察する。ただその体は――――
「よくぞ言った!」

 言いかけた郭嘉を遮って声を放ったのは、なんと孫権だった。
 先程から妙に静かだと思っていたが、いきなり立ち上がるなり拳を握りしめて叫ぶ。
 その目に僅かにきらりと光るものがあるのは……多分気のせいではあるまい。

「……は?」

 呆気にとられて郭嘉は孫権を見上げる。さすがの張山太も想定外の出来事にぱちくりと間抜け面を晒していた。
 しかし立ち上がった当人はすっかり熱くなっており、全く気にすることもなく続けた。

「よく分かるぞ、その気持ち。冴えない、影うっすーと言われ続け、女子から悉く逃げられ……」

 苦しげに眉間を皺寄せ、くぅっと唸る。

「き、貴様も分かるかこの惨めな気持ち」
「分かるとも!」

 同調したらしい張山太の呼びかけに、孫権が応じて互いにヒシと手を取り合う。

「……おい、若君がご乱心だぞ。お止めしろ」
「俺がですか?」

 無理です、と脱力した声音で呂蒙は返す。
 二人は茫然と傍観するしかなかった。なんだか投げやりな気分で帰りたくなってきた。しかし最大の被害者である周瑜を置いてもいけない。

「そうさ、どうせ俺なんて兄上に比べたらぜんっぜん影薄いし冴えないさ、何が悪い! 『仲謀さまって優柔不断ね。勇猛果敢な兄君とは大違い』だなんて……くそったれー!」
「なるほど、喧嘩の原因はそれか」

 郭嘉は半眼になる。

「おお、同士よ!」

 すっかり意気投合して固く抱き合う孫権と張山太。でも体は周瑜だ。

「科白と状況さえ分からなければ、心を一つにした主(弟)従の厚き抱擁ととれなくもないんだがな」
「ていうか、決定的に食い違っていることには気づいてないんですかね」
「知らぬが何とやらさ」

 ともかく、と郭嘉はようやく本腰を入れ始めたように、未だ抱擁し合っている張山太に向かった。

「訊きたいんだけど、いいかな」
「何だ」
「あんたは結局どうすれば満足するわけ?」

 フン、ともったいぶった調子で張山太は胸を張った。
 よし大分慣れてきたぞ、と郭嘉はどうでもいいことに頷く。

「ひとまずは生前出来なかったことを存分にさせてもらう」
「ほう。ではどれくらいでその体を持ち主に返してくれるんだ?」
「俺の気が済むまでだ!」

 呂蒙の顔色が変わった。

「えっ、ちょっと待って下さい。それじゃあいつになるんですか?」
「知らん」
「知らんて」

 慌てて立ち上がろうとした呂蒙を制して、郭嘉はのんびりと言った。

「悪いがその持ち主はこいつらにとって欠くことのできない重要な御仁なんだ。だからすぐにでも返してやってほしいんだが」
「知るかそんなこと」

 プイッと張山太はそっぽを向く。頑として譲らないつもりだ。

「ど、どうしよう」

 呂蒙は焦った表情で両手を合わせている。すがるように隣の男を見て、

「お、俺なんかで聞いた事があるんです。幽鬼に憑かれた人間は、少しずつ生気を蝕まれて、最終的には衰弱して死に至ると」
「……それマジで?」

 確かに見れば、たったこれだけの時間なのにすでに周瑜の相貌に憔悴の陰が漂っている。
 呂蒙の話に信憑性が滲み始めた。
 郭嘉もさすがに考えを改めた。このままではまずいことになる。
 万が一張山太がこのまま周瑜の体に居つき続ければ、幽鬼の未練を満足させる前に周瑜の方が先に参ってしまう。
 確かに曹孫の立場として考えれば、これほど郭嘉にとって望ましい状況もない。危険な宿敵が一人いなくなるのだ。
 だが……

(それじゃあ面白くない)

 別に、郭嘉は周瑜を殺したいわけではない。敵は敵だが、憎んでいるわけではなく、むしろこの関係を純粋に楽しんでいるのだ。
 それにまだきちんと勝負して決着をつけていない。こんな形で失うには、あまりにその才は惜しい。

「それは困るな」

 郭嘉は幽鬼に向き直ると、なるべく幽鬼を刺激しないように、ゆっくり語りかけた。

「そう卑下せず、よーく考えてみろ。本当にあんたの人生って、そんなに言うほど悪いこと尽くしだったのか?」
「悪いこと尽くしだった」
「即答かよ」

 郭嘉は漏らし、しかし再び根気強く言い募る。とりあえず何でもいい、会話の中で探るしかない。

「でもさ、何もあんたの周りに一人もあんたのことを考えてくれる人間がいなかったわけじゃないだろう? そんなに女に執着するならこの際女に限定することにして、本当に周りに誰もいなかったのか? よく思い出してみろよ」

 この際親族でもいいから誰かいれば儲けものなのだが。と思いつつ祈るように問いかける。
 これにもまた張山太はすぐさま口を開こうとしたが、寸前でふと躊躇し、ゆっくり逡巡するように瞳を動かした。

「……そういえば、一人だけいたな」

 ポツリと呟く。その言葉に突破口を見つけたような気がして郭嘉は素早く食いついた。

「誰だそれは?」
「幼馴染、だったかな」

 いまいちあやふやな答えだが、死んでからの年月を考えると記憶もおぼろげなのかもしれない。
 それでもいい、とりあえずこれがとっかかりになれば――――慎重に幽鬼の言葉を待つ。
 周瑜の姿をした張山太は、古い記憶の底から思い出を引き上げるように目を眇めた。

「ああそうだ、幼馴染だった。あいつは美人で、頭がよくて、俺なんかと正反対で」

 徐々に呼び起こされるままに、語りだす。しかし語るにつれ、その表情も段々と歪む。塩でも舐めたかのようだ。

「おまけに凄い勝気で我儘で、何故かいっつも私がその標的にされていた。そうだ、私は知ってるんだ。あいつ外見はネコ被りだから、人のウケもよかったし女官の中で出世も早かったが、実は物凄い負けず嫌いで向こうっ気が強いんだ。思えば小さい頃から私がその被害者だった。そうだそもそも」

 あまりに嫌な思い出なのかどんどん顔が険しくなって口調も止まらなくなっていく張山太に、慌てて郭嘉が合いの手を入れる。

「よ、よく分かったよ……ところで、そんな美人な幼馴染がいたのに口説いたりしなかったのか?」
「あいつをか!?」

 信じられない、冗談をいうな、とばかりに両眼を見開き、張山太は郭嘉を見た。余程ひどい仕打ちを受けたのだろうか。
 だが張山太は、罵詈雑言を吐くかと思いきや、不意に憮然として顔を背けた。その反応におや、と隣で静観していた呂蒙が瞬く。

「無理に決まってる。あいつは誰よりも器量よしだったし、多くの男共から言い寄られていた。私のような冴えない男とでは不釣り合いもいいところだ。百歩譲って交際を申し込んだところで、色よい返事なんかもらえるはずがなかった」
「なんだ、でも一応その気はあったんだ」
「べ、別にあったというほどではない!」

 物凄い剣幕で返されて、相槌を打った呂蒙は軽く身を引く。一体どっちなんだ、と怪訝そうに眉を寄せて呟いていた。

「そんなことどうでもいいんだ! どうせもうあいつはいない。重要なのは今だ。今このとき、俺がもう一度人生を、今度は満足のいく人生を歩めるかどうかだ」
「言っていることだけとれば素晴らしい主張なんだけど」

 当の本人がすでに死んでいるんじゃあな、と郭嘉は困ったように零した。うまい事詭弁を弄してこの思い込みの激しい男の性を利用できないかと思っていたのだが、話が振り出しに戻ってしまった。

「俺はこの身体で、もう一度いちからやり直すのだ! 邪魔をするやつは……」

 段々雲行きが怪しくなってきたぞ、と郭嘉は内心ひやりとした。張山太の声音が一段低くなっている。それも声自体は周瑜のものだからさらに迫力がある。据わった目がより不穏な気配を漂わせていた。

「おいおい、ちょっと待った。こんなところで悶着は起こす気は――――

 やや慌て気味に両手を振って戦意の無いことを示すも、張山太は既に見ていなかった。

「邪魔をするならば、殺す!!」

 いなや、腰に佩いていた長剣(周瑜がいつも帯しているものだ)を抜き、一も二もなく斬りかかってきた。
 夜光にキラリと刃が光る。

「うっわ」
「危ない!」

 呂蒙が血相を変えて叫ぶ。素早く膝立ちになり張山太の立ち位置の真正面にいて真っ先に標的となった郭嘉の腕を思い切り引っ張った。
 間一髪で剣閃を逸れ、裾の端を僅かに斬られた程度で済んだ。身体は周瑜でも中身が運動神経に恵まれていない張山太のためか、世辞にも機敏とは言えない動きであったことも幸いした。これが周瑜本来の腕前であれば、裾を斬られた程度では済まなかったかもしれない。
 張山太自身、うまい具合に身体を操作できないことに腹立ちを感じているようだ。たった一振りなのに、もう肩で息をしてこちらを睨んでいる。
 いつの間にかこちらも剣を抜いて構えた呂蒙が、複雑な表情を浮かべて警戒しながら郭嘉の隣に来ている。さすがにこの時には正気に戻ったらしい孫権も、同様の様相でやや後ろの方に回っていた。

「どうしますか……?」

 呂蒙が心底困惑しきった声音で郭嘉に問いかけてくる。中身は幽鬼といえども、身体は生きている自分の上司だ。本来こうして刃を向ける事すら躊躇われる。

「早まるなよ」

 下手な剣だからこそ逆にどうなるか分からない。剣術を嗜んでいる者ならまだしも、ど素人は時に思いもよらない行動に出る。下手に剣を振りかざせば、相手どころか自分まで傷つけかねない。

「でもこのままじゃ」
「いっそ気絶させて、朝日でも浴びせれば正気に戻るんじゃない?」

 孫権がこれまた冗談なのか本気なのか分からない提言をしてくる。
 郭嘉は正面を見つめながら、思いを巡らせた。
 妙だなと思う。先程から細作たちが全く姿をあらわさない。張山太が憑いたところまではまだとりあえず静観に徹していたと考えられなくもないが、今この時になって危機が迫っているのに細尊達が出てこないのは、普段であれば考えられない。

(もしかして、この幽鬼騒ぎの影響か)

 ありえないことではない。今や何が起きてもおかしくはない状況なのだ。郭嘉は意を決して小さく唾を飲んだ。こうなれば、孫権ではないがひとまず気絶させて捕縛し、確かな道士の元にでも連れて行って、祓いでも何でもしてもらうしかない。常ならば怪しげな方術遣いなど詐欺師の類と思うところだが、現にこうして鬼が存在しているのならば、あるいは信用のある者もいるのかもしれない。
 幸い、自分はともかく孫権や呂蒙は武術に長けている。二人がかりなら取り押さえられる可能性は高い。
 そう判断して、郭嘉が残り二人に告げようと口を開きかけたその時。

『このバカ山太ァ!!』
「!?」
「!?!」

 突如響き渡った大音声に、対峙していた四人の身体がビクリと跳ねた。
 険悪な空気が一気に拡散し、それぞれがそれぞれに声の方向を見やる。
 丁度、郭嘉と張山太の間。
 そこには、いつのまに現われたのか、一人の女の姿があった。




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