そんな感じで郭嘉がうっかり女官にうつつを抜かしていた頃。

「ところで何で兄上こそ、何故こんな時間に?」

 内庭では、ようやく衝撃から我に返った孫権が、恐る恐るといった具合に引きつった口元を動かした。
 なにゆえこのような場所で、孫策が片肌脱ぎになって猛烈に剣の素振りをしていたのか―――むしろその方が気になってしょうがない。
 一方、おかしいとは思っていないのか孫策はあっけらかんと

「いや、ここって誰もこなくて静かだから鍛錬には持って来いなんだよ。ていうか結構前からずっとやってたぜ?」

 木の影で実は『打倒曹操』と書かれた大きな藁仕立ての人形がボロボロになっているのは内緒である。
 何もこんな時間でなくても……と一同が思ったかどうかはさておき、呂蒙がハッと何かに気づいた表情で言った。

「ということは……!」

 衝撃を受けた表情で、思い至った予想を口にする。

「夜な夜な聞こえる男の奇声とは、もしかして」
「あー、そういや何度か表の方で悲鳴を聞いたなぁ」

 何だろうなアレ?ときょとんと首を傾げている孫策に、お前が犯人だったんかいと三者三様に胸裡で叫んだ。

「……ほらな、子明。所詮噂の正体なんてこんなものなんだ」

 周瑜はどこか遠くを見るように呟いている。もはや呆れを通り越して悟りの境地に至っていた。
 呂蒙は心底悄然とした様子で、声を絞り出した。

「うう、俺無学だから慣用句とかあんま分からないですけど、こういうのをきっと『正体見たり枯れ尾花』って言うんですね」
「おい待て、誰が枯れ尾花だ」

 一人分かっていない孫策が、聞き流せない一言にピクリと青筋を立てて突っ込む。しかし呂蒙には聞こえていない。

「なぁんだ、鬼の正体は兄上だったのかー。あーあがっかり」

 憮然と口を尖らしたのは孫権だ。一体どんなものを予想していたのか定かではないが、不満そうである。

「何なんだよお前ら皆して!」

 二人の責めるような視線の理由が理解できず孫策はただ戸惑い、周瑜に救いを求める眼差しを送った。
 はぁ、と本日何回目かの息をつき、周瑜は仕方なしに事の次第を説明した。

「近頃この銚婁殿で幽鬼が出るという噂が城内で流行っていると聞いて、こうして様子を見にきた次第です」
「ユーレイ?」
「何でも、男の奇声が聞こえてくるとかで」
「男の……もしかして、俺か?」
「でしょうね恐らく」

 がーん、とばかりに自身を指差す幼馴染に、周瑜は嘆息した。

「まぁいいでしょう。これで噂の真偽は確かめられたわけですし、もう用は済んだのですから帰りましょう」

 さっさと戻る姿勢で、未だぶうぶう文句を垂れる年少二人を促す。そして孫策にも、

「紛らわしいですから、これからはもっと普通の時間にまともな場所で鍛錬なさってください」
「いやだってさ、ここの方がなんか落ち着くんだよ」

 こちらもまた大人気なく言い訳しながら、周瑜の視線に促されて渋々帰り支度をする。人々が怖がって近寄らないようなおどろおどろしいこの場所が落ち着くとは、何とも剛毅豪胆というか。
 世話のかかる主君及びその他を疲れた面持ちで見やりながら、はたと周瑜は郭嘉の存在を思い出した。

(おや―――?)

 確か孫策と出くわしたときに咄嗟に回廊を戻って行っていたはずだった。
 しかし、振り返ってもその姿を見つけることができない。姿どころか気配さえなかった。

「おーい、公瑾ー?」

 いつの間にか身支度を済ませた孫策が、石廊に上って周瑜を呼ぶ。
 慌てる心を隠し、周瑜は「あ、はい」と応えを返した。
 すると、今度は孫権が思い出したように、

「あれ? そういえば、庭師は?」
「庭師?」

 弟の台詞に、孫策はきょとんと聞き返す。

「え、だから―――
「いや、ええと! 実はさっきバッタリ一緒に会った人がいて、やっぱり肝試しに来てたみたいなんです!」

 説明しようとした孫権を遮って呂蒙が慌てて笑顔で取り繕う。さすがにこれがバレたら大事だ。
 そんな怪しさたっぷりの呂蒙の様子にも、孫策は特に気にした風もなく「いないのか? 大丈夫か?」と訊いている。良かった……と呂蒙は冷や汗だらけの胸をひとまず撫で下ろした。
 周瑜はといえば相変わらず真っ暗な闇に包まれる背後を見返していた。

(一体どこへ)

 何やら不安になってきた。物事をよく弁えている男だ。内部構造を知らず闇雲に動き回るはずもないし、まさか迷ったとは思えない。何か不測の事態に陥っているのでは―――

「周中護軍殿」

 不意に影から聞こえた密やかな声に、周瑜はハッと首を向けかける。だが寸前で留まった。
 声は背後にしている室の窓から聞こえてきた。何度か聞いて知っている低い声音。郭嘉の細作のものだ。

「どうかそのままで―――我が主の姿が見えません」
「……どういう、ことですか?」

 孫策たちに気づかれぬよう極力声音を押さえ、吐息だけで周瑜は問う。
 すると今度は姪琳の方から返答があった。

「先程回廊を戻られる途中で見失ってしまったのです。一通りお探ししたのですが……」

 見失いました、と後を引き継ぐ声音は一見無感動だが、僅かに焦燥のようなものが滲んでいた。

「では、私も探します」
「それには及びません。討逆将軍に怪しまれる可能性もあるかと。それは我が主の望むところではありませぬゆえ」
「ですが……」

 など等と押し問答をしているところに、いい加減焦れた孫策が再び声を投げかけてきた。


「おい、公瑾! どうするんだ?」
「あ、ええと、ちょっと待って下さ―――

 言いながら肩越しに孫策を振り向きかけ、そして言葉を失った。その目に今、信じられないモノが映っていた。
 きょとんとしている幼馴染兼主君の、その背後。
 ハッと息を呑み、叫んだその刹那。

「伯符様!!」

 何が起こったのか、その時孫策にはわからなかった。確認する間もなく、後頭部に激しい衝撃が走り、かと思えば、一拍後には眼前は暗転した。
 周瑜が孫策の名を叫ぶ。孫権と呂蒙は、何が起きたのか分からずただ背後を見やって目を丸くしていた。
 孫策は突然その場に引っくり返ったかと思うと、気絶していた。慌てて周瑜が駆け出そうとしたのと、白いものが視界の端を過ぎったのは同時だった。
 それを咄嗟に目で追えば、つい先程一瞬だけ認めたものが、そこにあった。
 ぞくりと、背筋に悪寒が走る。
 両腕が、瞬時に粟立った。
 宙に浮く、真白い、男の顔。

『   』

 空虚な口を開閉し、声を発したようだった。
 だから嫌だったのだ、と頭の隅で漏らす。昔から、自分はこういうものをよく感じる方だったから。だがこうしてはっきり形を目にするのは初めてだ。
 この場から逃げるべきなのか、しかし倒れたままの孫策が気になって動くことが出来ない。そのまま目線を逸らせずに、中空に浮かぶ男の顔を凝視しているところに―――

「おお、助かった。戻って来れた」

 回廊の角から聞き慣れた声がしたのは、その時だった。

「奉―――!」

 ハッと一瞬そちらに注意が逸れる。刹那。
 揺らめいていた幽鬼の眼窩が、角より顔を覗かせた郭嘉を捉える。虚のような奥底がキラリと光った。

『生きた男……!』

 そう叫んだかと思えば、狙い定めたようにそちらに向かって疾走していた。
 駄目だ、という周瑜の叫びよりも早く、それは目的地に到達する。

「ん?」

 郭嘉は間近に迫った何かの気配に、ふいと顔を上げた。

『身体をぉお、よぉこぉせぇ~』
「うおぁ!?」

 何かに強かに体当たりされ、郭嘉は横合いへと弾かれた。そのまま派手に蹌踉き、両膝を付く。

「いってて……な、なんだ??」

 顔を上げた郭嘉は、軽く頭を振りながら訳が分からずに左右を見渡した。
 その普段と変わらぬ様子に、周瑜はホッと息をつく。良かった、憂慮していたような大事はなかったようだ。
 一方、幽鬼の方といえば。
 少し離れたところで、彼(仮定)は蹲りながら、痛みをこらえるように打ち震えていた。
 落ち窪んだ目の両穴に、心無し涙が滲んでいる。死して魂魄だけとなった幽鬼でも痛みを感じるのかと、周瑜はどうでもいいことに感心した。

『く、くそ!』

 こうなれば、と呟き、はたとその目が周瑜を捉える。
 彼がそれに気づいて反応するときには、既に少しばかり遅かった。




 にわかに静寂が戻った。
 とはいえ、変事が収まったようには、郭嘉には思えなかった。
 急に押し黙った周瑜の様子に得も言われぬ不気味さを感じ、息を詰める。
 卒倒したきりの孫策に呼びかけたり揺すったり往復張り手をくらわせていた孫権と、様子を見守っていた呂蒙も、その妙な沈黙にふと唾を飲んで目を向ける。

「公瑾殿?」

 患部を摩りながら這うように出てきた郭嘉が、様子のおかしい周瑜に恐る恐る呼びかける。
 『見え』ない三人には、一体何が起こったのかさっぱりわからない。
 しかし。

「ふ……ふふふ」

 じっと俯いて無言を保っていた周瑜の口から、不意に不気味な含み笑いが漏れた。
 一瞬郭嘉は眉根を寄せて、耳を疑う。

「こ……公瑾殿??」

 再び名を呼べば

「ふふ―――ふははは!」

 突然顔を上げ、高笑いを放った。 
 ……ふははは?
 三人の目が点になった。
 周瑜は普段の冷静沈着な美貌はどこへやら、妙に目が据わった状態で笑っている。まるで別人のようだ。
 あまりに不似合いすぎる言動にやや引き気味になりながらも、郭嘉は引きつった微笑で、いまだ高らかに哄笑する男へなんとか尋ねた。

「公瑾殿、どっか具合でも……」

 しかし相手は聞いていない。
 笑い止んだかと思うと、今度は胸の前で拳を握り、まさに恍惚の表情で唸った。

「ようやく……ようやく身体を手に入れたぞ! しかもかなり若くてピチピチ。顔も良し! これならいける!」
「あのー……」

 ひとり嬉々と感極まったように頷いている『周瑜』に、最早訝しげな眼差しで、郭嘉は幾度目かの声をかけた。

「公瑾殿……頭でも打った?」
「何だ、さっきからうるさいな。大体にして私の名は『公瑾』などというものではない」
「は?」

 『周瑜』はようやくその存在に気づいたかのごとく勢いよく振り返った。
 そしてギッと郭嘉を睨みつけ、鼻を鳴らして至極尊大な調子で告げたのだった。

「張山太だ!」

 その名前が、山彦となって石廊に反響する。

「……あんた、誰?」

 ひどく間の抜けた問いが、空間に虚しく吸い込まれた。 




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