「ふう、やれやれ間一髪だった」
南の内庭からひとり離れ、郭嘉は後ろを見返りながら胸を撫で下ろした。さすがにあの場で、周瑜たちと一緒にいる自分の姿を孫策に見られるのは色々とまずい。
(……と、どこまで戻ってきたんだ?)
なるべく遠くにと思っているうちに、自分がどのあたりにいるのかが定かではなくなってしまった。
辺りは暗く、現在地を確認できるものがない。灯がないことに今更ながら舌打ちをした。
(しまったな。灯火は公瑾殿が持っていたし)
そもそも周瑜が内部構造を頭に入れていたのであそこまで惑うことなく進めたのだが。
これ以上行くと迷いそうだと、もう一度踵を返して戻ろうとするが、気づけばそこは一様の闇に包まれていた。先程まで淡く照らし出していた月は、いつの間にやら雲の向こうに隠れている。
(おかしいな。そう遠くまで来てはないはずだと思ったが)
まだ周瑜や呂蒙たちの声が届くあたりにはいると踏んでいたのが、いつの間にか周囲には深々とした沈黙に包まれていた。
妙だと思って試しに小さく己の細作の名を呼んでみる。が、応える声はなかった。
いつもならば片時も離れぬはずなのに
―――
郭嘉はその場に佇み、軽く小首を傾げる。
(思いのほか俺が移動してしまったのか?)
まあこんなところで迷ったところで命に別状はないし、いざとなれば明るくなってから戻ればいいのでさほど危機感はないが……
(とはいえ、これからどうすれば……)
腕を組み、悶々と考え込み始めた。
その時
―――
「もうし」
「うおッッ!?」
ドキッと心臓が跳ね、郭嘉は思わず息を呑んだ。
普段よりあまり物事に驚いたり動じたりしない性格だったが、さすがにこればかりは吃驚した様子で、慌てて背後を振り返る。
月が雲から顔を出した。
石の回廊に、ひとりの女が浮かび上がる。灯火を掲げ、上げかけた手をそのままに所在無げに立っていた。
郭嘉を見つめながら、驚いたような様でポカンとしている。どうやら郭嘉の声に、逆に驚かされたらしい。
「って……あれ? 女人?」
おぼろげな月光の元によく見れば、どうも城に仕える女官のようだ。ふとその服装に違和感を覚えたが、江東と華北では流行も異なるし、相手が女であることもあってか、さして気に止まらなかった。ともかくも人畜無害そうな相手に郭嘉はほっと息をつく。
「なぁんだ」
「も、申し訳ありません……驚かせてしまって」
女官は困ったように眉尻を下げて、袖で口元を覆った。
「いや、こちらこそ」
しきりに鼓動を繰り返す胸を宥めながら、郭嘉は薄ら笑いを浮かべる。こんなに驚いたのは久方ぶりでいっそ清々しい。
「しかしどうしてまたこんなところにいるんだ?」
まるで自分のことは棚に上げ、小首を傾げる。
「実は、随分前にここで忘れ物をしてしまって……ずっと探しているのです」
心底申し訳なさそうに言う侍女に、本来の女好きの精神が擽られたのか、一転して郭嘉は優しい声音をかけた。
「そうか、そいつは気の毒にな。でも、若い女がこんな夜更けに一人でうろつくのは危ないぞ」
「すみません。あまりにも大切な物だったので、いてもたってもいられず」
女官は悲しげに頭を垂れる。シャラリと簪が鳴った。
声音や薄っすらと浮かぶ姿形をよくよく見れば、なかなかに卑しからぬ容姿である。
(お、美人)
状況も忘れて、気をよくした郭嘉は思いの向くまま軽い調子で言った。
「何を探しているのは知らないが、こんな暗さじゃ見つかるものも見つからないだろう。失せ物は明るい日の下での方が出てきやすいものだ」
「明るい……」
「そうそう。何なら俺も一緒に探してやるし」
「誠ですか?」
その言葉に、女官は顔を上げた。ああ、と郭嘉が笑みながら鷹揚と頷くと、パッと表情を輝かせる。
「というわけで今夜のところは一緒に戻ろう……って、実は来た道分からないんだけどさ」
「あら、どちらから参られたのですか?」
「確か南の内庭……だったかな」
周瑜が言っていたのをおぼろげに思い出しながら、郭嘉は答える。ああそれなら
―――と侍女は華やかに微笑み、スッと灯を持つ袖を、ある方角に伸ばした。
炎が、ひとつゆらりと揺れた。