突然視界の外から聞こえてきた甲高い声に足を止める。季節は少し日陰が肌寒くなってきたころのある日の昼さがり。丁度いつものように裏の庭院の抜け道を通って、周瑜の室から自分に宛がわれた賓客室に戻ろうとしていたところだった。
 郭嘉は一呼吸おいて、目線を落とす。
 その視線の先には、一人の童女がちょこんと立っていた。
 年のころは7、8歳だろうか。ぷっくりとした愛らしい輪郭に、くっきりとした目鼻立ちとこしゃまくれた表情。気の強そうな口元が誰かに似ている。長い髪の一部を二髷に結い上げ、長裳をヒラヒラと身に纏っている姿は、十分可愛い部類に入るだろう。―――腰に下げている弓という物騒なものを除けば。
 彼女は、情に強そうな大きな瞳でじいっとこちらを見上げていた。

「えーっと……」

 郭嘉はちょっと困ったような、誤魔化すような笑みを浮かべた。

「なにもの」

 少女は先ほど発した問いかけを繰り返した。小生意気ながらに命ずるような強い口調である。キッと睨みすえる瞳の表面に明らかに怪しむ光が宿っている。
 郭嘉は少し逡巡したのち、灌木の枝葉に引っかからぬように屈んだ。少女に目線を合わせ、なるべく警戒させぬよう持ち前の笑顔を浮かべて優しく訊く。

「んーっと、お譲ちゃんはどこの子かな?」
「『お譲ちゃん』じゃないわ。子ども扱いしないで、失礼な人ね」

 少女がムッと口を尖らせる。ませた返しに郭嘉は軽く笑って改めた。

「それは失礼。それでは、姫君はどちらからいらしたので?」
「知らないひとには教えない」

 プイッとそっぽを向いて少女は拒絶を示す。
 郭嘉は苦笑気味に言った。

「知らぬ人に話しかけちゃいけないとは教わらなかったか?」

 危ないぞとやんわり窘めれば、少女はチラと横目を向けてきた。

「このお城のなかで“しゅ”に悪いことするひとはいないわ」
「……」

 その言葉で、郭嘉は少女の正体を消去法で絞り込む。これは女官や官吏の誰かが連れてきた子供ではない。

「あなたこそ怪しいわね。誰かに言いつけるわよ」

 少女の大人びた口吻に、郭嘉は笑いながらゆっくりと否定した。

「いやいや、おじさんはね、都のほうから来たお使いだよ」

 言いながら郭嘉はちらりと背後を意識する。ここより自室は目と鼻の先だ。
 以前のように「庭師」とでも偽ってもよかったが、これくらいの子供は見聞きしたことをすぐに他人にしゃべってしまうから、下手な嘘をついてバレれた時が厄介である。それよりもあえて正直に言い、のちに問われたときに「室の外の庭院を軽く散策していたのだ」とでも言うほうが怪しまれずにすむ。
 少女は不思議そうに、聞き慣れない単語を鸚鵡返しした。

「みやこのおつかい?」
「そう、天子様のね」

 少女は半信半疑の目つきで見ている。郭嘉の言っていることが真実かどうか訝っているのだろう。
 郭嘉は再び軽く笑顔を向け、別の話を振った。

「小姫はここで何をしていたんだ?」
「……隠れてるの」

 郭嘉の雰囲気から、危害を加える人物ではないと判断したのか、少女は少し警戒を解いた様子で答えた。

捉迷蔵(かくれんぼ)か?」

 怪訝そうに郭嘉は問う。まさかこのような城中に一人で?

「お付きは?」
「まいてきたわ」

 あっさりと言った幼い少女に対し、郭嘉は唖然とした。

「じゃあ侍女達から隠れてるのか?」

 少女は答えなかったが、恐らく当たりなのだろう。
 人のことを言えた義理ではないが、あまりの破天荒ぶりに郭嘉自身もはや驚いているのか呆れているのか自分でも分からなかった。
 身なりの限りでは身分のある家の娘であろうに、とんだじゃじゃ馬娘である。撒かれた哀れな侍女たちは今頃大慌てで探している頃だろう。下手をすれば、娘の親―――主人から雷が落ちかねない。否、雷で済めばいい方だ。

「大丈夫なのか? 今頃きっと心配しているぞ」
「いいの」

 憤然と言い返される。

「みんなうるさいんだもの。だから母様のお話が終わるまでひとりで遊んでいるの」

 どこか怒るように、下唇を突き出しながら言い吐く。何か不機嫌になるようなことがあったのだろうか。
 郭嘉はそうかと相槌を打つ。不意に、離れたところから己を呼ぶ耳に馴染んだ声音が聞こえた。
 肩越しに見やれば、室の前に随従の一人が立っている。何か報告しにきたのかもしれない。一応郭嘉も勅使として東呉で果たす任務がある。何も遊んでいるばかりでは決してない。

「おっと、おじさんはそろそろ行かなきゃならないようだ」

 よいしょ、と腰を伸ばす。

「小姫も、こんなところでひとりで遊んでいるのはやっぱり危ないぞ。それにあまり他の人を困らせちゃ駄目だ。いい子だから早くお帰り」

 優しく言い含め、少女の背を撫でてやる。
 子ども扱いされたことに腹立ったのか、ぷぅっと頬を膨らませる少女に、ふと思い出したように郭嘉は懐から包みを取り出した。

「そうだ、これをあげよう」

 包み布の上に乗っているのは、薄い桃色をした小さな甘菓子。先ほど周瑜と茶を飲んでいたときの余りだった。それを包みなおして少女の掌に持たせてやり、今度はぽんぽんと軽くたたく。
 「それじゃあな」と言って手を振り、そこを去った。
 だがいつまでも少女がそこに立っている気配を、室に戻る間ずっと背に感じていた。




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