「それは弓腰姫ですね」

 周瑜の言葉に、弓腰姫?と郭嘉は口を動かした。
 孫軍の懐刀は、相変わらず男でも見惚れる優雅な手つきで茶を杯に注ぎいれ、眼前に寛いでいる男に差し出す。
 それを啜りながら、郭嘉は再び瞳を向けた。

「孫家の末姫ですよ。名は珠様。周りからは弓腰姫とも呼ばれます。幼いながらに勝気なお方で、武術を習っていらっしゃいまして。いつも腰に弓を下げているので、そういう渾名がついているんです」
「なるほど」

 少女の男勝りともいえる姿を思い出しながら、納得顔で郭嘉はうなずく。
 郭嘉はあの日に出遭った出来事の一部始終を、翌日の同時刻に周瑜に語っていた。
 それで冒頭の答えが出てきたわけである。

「将来が楽しみだな。きっと美人に育つぞ」

 何気なく言っただけだったが、しかし周瑜が胡乱気な目つきを向けているのに気づき、「何だよ」と心持ち身を退く。

「……まさかとは思いますが、手を出したり」
「するわけないだろ! さすがの俺も子供に手を出す趣味はないわ」

 郭嘉は泣き笑いのような表情で、己にかけられたあらぬ誤解に対し憤然と否定した。広い世にはそうした嗜好の者がいることは知っているが、およそ理解の範疇外だ。好みは人それぞれとはいえ、幼子に食指を伸ばすのだけは許されてはならぬとさえ思う。いかな負俗の気質とはいえ、それくらいの常識はあるつもりだ。

「一体どんな目で俺を見てるんだか」

 ブツブツと文句を言う男に、周瑜は微笑のまま「すみません」と形ばかり謝る。遊んでるな、と郭嘉はその秀麗な面を恨めし気に睨めつけた。
 それにしても、と思考を戻す。さすがは孫家の―――というより、あの孫策の妹である。兄に似て、随分と血気盛んで勇ましい気性のようだ。血は争えない。

「まあ、昨日から呉夫人が曲阿から見えられていますからね。それでご一緒に来られたのでしょう」

 孫策は家族をこの呉県とは少し離れた曲阿県に住まわせていた。

「なかなかオテンバみたいだな」
「ええまあ……」

 周瑜は苦笑気味に応じる。

「とりあえず(やしき)の奥でじっとしているのがお嫌いなのは確かですね」
「気ィ強そうだもんな。もしや討逆将軍に一番似てるとか?」
「そうですね。孫家の血を色濃く受け継いでいる方です」
「そりゃ周りは大変だな」

 小さく笑いながら、郭嘉は暖かい茶を含む。香り高い茶葉の風味が口中に広がり、身も心もホッと落ち着く。

「ところで、珠姫はお一人でしたか?」
「ああ。お付きの侍女たちを撒いてきたって豪語していたよ」
「またですか」

 はぁ、と呆れたように息をつく周瑜。

「ご存知ないでしょうが、珠様は曲阿の城でご自身付きの侍女たちに矛を持たせて武装させているのですよ」

 郭嘉は思わず飲んでいた茶を噴いた。

「……マジ?」

 確かにそのようなことは存知てない。孫策周りの関係人物は家族親戚を含め事前に情報収集していたが、幼い妹に関してはせいぜい年齢と居住地くらいで、さほど詳しく調べてはいなかった。

「本当です。恐らくここにまでは連れて来てはいないでしょうけれど。だから普通の侍女をつけると嫌がられるのですよね」
「それは……将来夫となる奴は大変だな」

 並みの男じゃまず気負けしそうだと、ずらりと並ぶんだ武装した侍女の中に立つ、一際男らしい姫の姿を想像して、郭嘉は引きつった笑いを頬に浮かべた。相当な肝玉を用意していかないと敵いそうもない。

「しかし、それでしたら一応釘を刺しておかねばなりませんね。男勝りと言っても、この江東を束ねる明主の妹君ですから」
「ああ、そうしておいたほうがいいよ」
「女性となると見境のない危険人物もいますし、万一にも間違いがあっては」
「……その誤解、どうにかならない?」

 脱力気味の情けない声音に、周瑜は人の悪い笑みを浮かべた。最近許都の勅使を揶揄うコツを覚えたようだ。郭嘉にとってはあまりありがたくない話だが。

「冗談はさておき、実際問題ここは曲阿の城ではないですから、あまりお一人で出歩かれると困るのは確かです」

 そうだろうと頷きながらも、郭嘉は勝気な少女のどこか拗ねるような表情を思い浮かべていた。侍女が気に入らぬと言って一人隠れていた、強情っ張りの小さな姫。そこに見え隠れする、幼いなりに譲れぬ小さな主張。

「実は、それだけじゃなかったりな……」
「え?」
「いや、なにも」

 ぼそりとひとりごちた郭嘉に、周瑜が首を傾げる。しかし郭嘉はとぼけてみせた。
 話はそう簡単なものではない気が、なんとなくしたのだった。




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