その日の夕方、これもまた周瑜の室から戻ってきている途中だった。
寒々しい裏の庭院の中、眼前にちょこんと座り込む影。その腰にはしっかりと弓が下げられている。予想通りというか
―――孫家の兄妹というのは、つくづく庭に埋伏するのが趣味なのだろうか。
再び出遭ったその姿に郭嘉は思わず嘆息を漏らした。
「小姫はどちらに行かれるところで?」
「……」
「……また捉迷蔵をしているのか」
だんまりを決め込んでいる少女に、郭嘉は腰に手を当て呆れたように言う。下唇を突き出すようにするのは、彼女の不機嫌な時の癖なのだろうか。
そんなことを考えていると、孫珠が小さく口を動かした。
「おそいわ」
「は?」
「おそい、いつまで待たせる気よ!」
怒られてしまった。郭嘉はぱちくりと目をしばたたく。まさか、自分を待っていたのだろうか。確かに一昨日に比べてやや遅いが、そうすると一昨日と同じ時刻からここにいたということか。
(しまった、餌付けしたのがまずかったか?)
幼い子供というのは往々にして目新しいものや自分にとって良いことをもたらしてくれるものに寄って行きやすい。一昨日の自分の行為がそれを引き起こしたとするならば。さてはてどうしたものかと困り果てながら、郭嘉はとりあえず笑みをつくった。
「それはお待たせして申し訳なかった。それで、小姫はどうしてまた俺を待ってたのかな」
「……」
再び俯いて無言。
怒ったりむくれたり拗ねたりとまあ、よく分からない子どもである。やれやれ、と郭嘉は肩をすくめ天を仰いだ。そしてひとつの案を提示する。
「こんなところで座り込んでないで、あっちへ行かないか?」
軽く腰を曲げて手を差し出しながら、庭院の向こうにのぞく勾覧を指す。さすがに相手が相手である以上、貴賓室に入れるわけにはいかないし、だからといってここで話し込むのも、万一誰かに見咎められればなんとも気まずい。不名誉な評判が立つのは、勅使としても郭嘉の矜持としても甚だよろしくない。
ふと先ほどの周瑜の発言が脳裏を過ぎり、郭嘉は微妙な顏をした。自分の興味の対象はあくまでも成熟した女である。稚い幼女に対してそのような不埒な気は露ほども持たないが、確かにはたから見ると、これではただの不審者かもしれない。いやいや、と首を振り、あえてそういった発想は意識外に放り出す。
どちらにしたってここでこうしていればあらぬ誤解を受ける。その点、人の通る勾覧であれば、誰かに見つかった場合でもその者に引き渡せるし、何かと都合がいい。
そんな郭嘉の煩悶を知らず、孫珠は差し出された手をじっと見ていた。警戒しているのだろうか。
「そんなところでずっとしゃがんでいたら疲れるだろう?」
図星だったのか、ウッとばかりに孫珠の表情が変化する。もぞもぞと立ち上がった。
郭嘉はやはり苦笑したまま、勾覧のところまで歩いて行きその段に腰掛ける。だがふと、傍で立ったまま動こうとしない孫珠に気づき、疑問気に目をしばたたいた。ぽんぽんと隣を叩いて、
「ほら、とりあえず座れよ」
「……」
じいっと、物言いたげな目つきで目前と睨んでくる。郭嘉はますます分からなくなって、小首を傾げてみせた。
「そんなところに座ったらお尻が汚れちゃうじゃない。お父様もお兄様も、珠が座るときはちゃんとしてくれたわ」
勇ましいわりに衣の汚れは気にするのだな、と思いつつ少女の言外に意図するところをようやく察し、郭嘉は疲れたように額を覆った。はぁーと仕方なさそうに溜息をつき、
「ハイ……どうぞよろしければ」
己の前を空けて、膝を叩く。孫珠はパッと満面を輝かせると、いそいそと走り寄ってきてよじ登り、ちょこんと腰を落ち着けた。大変ご満悦なお顔だ。
(なんだ、結局はただの甘えたがりなんじゃないか)
我が侭なお姫様に心中で疲れたようにぼやきながら、しかし孫珠はまだ誰かに甘えたい年頃なのだということを改めて実感する。
父を早くに亡くし、兄たちも政事に追われて相手できない。母と二人、この乱世で、決して安心できぬ状況の中で暮らしている。時に波乱に流され、過酷な日々を送ることだってあっただろう。本当は、寂しいのかもしれなかった。まだこんなにも幼いのだ。
(奕もこのくらいの時があったもんな)
己の息子のことを思い出し、郭嘉は心中で頷く。そう思えば可愛い気のあるものかもしれない。
「ねぇねぇ、みやこってどんなところ?」
膝上がすっかりお気に召したのか、先ほどとは一転して上機嫌な様子で孫珠が問い尋ねてくる。足をプラプラと降り、興奮気味に頬を赤らませて顎を上げる姿は、好奇心いっぱいの子供らしさに溢れていた。
「そうだな……とても大きなところだよ。天子が居わして、人がたくさんいる。家も店もたくさんあって、色んな場所から色んな人が集まってくる」
「大きい? このお城よりも?」
「もっとずっとだな」
「そう……曲阿のお城よりも大きいのかしら」
一人ごちるように呟く孫珠の不揃いな前髪を指先で整えてやる。
「大きくて賑やかで綺麗だが、少し寂しいところだ」
「さみしい?」
郭嘉はただ無言で微笑する。言下に含まれる微妙な意味合いは、幼い少女にはまだ汲み取れなかった。
「あと寒いな。ここよりずうっと寒い」
「寒いのはきらい」
むむ、と小さな眉を寄せて考え込むようにする。それから孫珠は思い出したように、顔を上げた。
「お兄様は、みやこにいる天子様をお救いするのだって。天子様は悲しんでいらっしゃるの?」
郭嘉はどこか苦く、頬を緩ませた。子どもは素直だ。
「……どうかな、悲しんでいらっしゃるかもしれないな。今の乱れた世と、苦しむ民を憂えておられる」
淡々と、まるで他人事のように、遠くを見つめなが言う。そこに込められた感情は、言葉上のものだけではなく、もっと複雑な色合いを孕んでいる。しかし、表情からは到底その思いはうかがい知れなかった。
「天子様、おかわいそうね」
「そうだな」
果たして、次々と台頭する為政者に利用され、名ばかりの傀儡となるのが哀れなのか、それともそれらの有力者を退けられるほどの英気を持たぬ器が哀れなのか。
「お兄様が言ってたわ。天子様を悲しませているのは、悪い官吏だって。曹操というひとが、悪いのだって」
思いもよらず己の主君の名前が飛び出して、郭嘉は一瞬ぎくりとする。苦笑を禁じえなかった。
「さあなぁ、小姫はどう思う?」
「悪いひとが悪いに決まってるわ」
誠にごもっともな卓見を口にして、フン、と孫珠は小さな胸を張った。ませた事を言っても、やはり童児は童児だ。
「殿も、頑張ってるんだけどねぇ」
「なぁに?」
ぼんやりと頭上で呟かれた声が聞き取れず、孫珠はちょこんと首を上げる。
「いいや。誰が悪いのか、何が正義なのか……大きくなったら、小姫もきっと分かるよ」
「ふぅん」
よく分からない、とばかりに可愛らしく鼻で答え、孫珠は足元を見つめた。
「珠は大きくなったら策兄様のお手伝いをするのよ。お兄様のお傍で、一緒にお仕事をするの」
「へぇ」
「でも、母様が駄目だというの。女の子は、すばらしい旦那様のところにお嫁に行って、おりこうな子をいっぱい産んで、家を守るのだっておっしゃるのよ」
頬を膨らませ、孫珠は憮然とそう言う。
「小姫はお嫁に行くのが嫌なのか?」
「嫌じゃないわ。だって、珠は策兄様のお嫁さんになるんだもの」
幼い口調から出たとんでもない爆弾発言に、一瞬郭嘉は体勢を崩しかけた。
「小、
小姑娘~? 兄上とは血が繋がってるんじゃなかったか?」
「そうよ?」
それが何かとばかりに孫珠は答え、首を可愛らしく傾けた。