とんだ発想に、郭嘉は段々頭を抱えたくなってきた。童子だからこそ許されるといえばそうではあるのだが―――
 引きつった笑いを浮かべながら、

「あのねぇ姫君、残念ながら兄妹は結婚できないんだ」

 それとも江東にはそういう風習があるのだろうか、と一瞬考え込んでしまう。
 どちらにしろ、これが3、4歳くらいの幼子ならまだいい。しかし、見たところ歳は7歳かそこら、さすがにそろそろ世の道理を教えておかなければ後々冗談ではすまないことになる。
 今の世は早婚が普通である。中流階級以上の家であれば、法的には20歳未満で嫁いでいなければ罪にさえなる。孫家は元は寒族だったと言うが、今の社会的地位からすれば完全に適用内(とは言っても、昨今の情勢では完全に守られているものでもないが)。早ければ13、少なくとも15になる頃には縁談の話が来るはずだ。遠からぬ未来であれば、子どもとはいえ正しい知識は学ばさなければならない。いや、それ以前に社会倫理の問題でもあるのだが。
   だが案の定というか、孫珠は不満そうに膨れっ面をした。

「母様もまわりの女達もみんなそう言うわ。なんでいけないの?」
「なんでと言われても……」

 こればかりはどう答えたものか、さすがの郭嘉も窮した。

「黄帝様がそうにお決めになったからだよ」

 とりあえず適当に言っておく。全く間違いではない……はずだ。多分。何かしらの絶対的な存在が、人間をそういうふうに作ったのだろうから。
 さすがに相手が人知を超えた存在になると、孫珠も反抗できないだろう。
 ところが孫珠は、

「知らないもん。珠は、策兄様じゃないとイヤ。いつも一緒にいれないもの。お手伝いもできないもの」

 俄然聞く耳持たずだ。

「お手伝いは、もう一人の兄上がちゃんと小姫の分までこなしてくれるんじゃないかな」
「権兄様は全然ダメよ。頼りにならないわ」

 遥か年下の妹姫に一刀両断された孫権を思い、郭嘉は哀れみの念を送った。

「それに、大兄君(おおあにぎみ)にはすでに奥さんがいるじゃないか」
「大喬姉様はいいの。珠は『だいにふじん』になるもの」

 第二夫人、と郭嘉は虚ろに呟いた。歳のわりに凄いことを平然と口にする少女である。いや、ある意味で子どもだからこそよく分かっていないのか。
 孫珠はかまわずに続ける。

「珠はいっぱい武術を学んで、どの将軍よりも誰よりも強くなって、策兄様をお守りしながら、お兄様のお手伝いをして一緒に平和な国をつくるのよ。それでお兄様のお嫁さんになって、お兄様の子を産むの」

 弓を玩びながら、孫珠はエヘンと鼻を鳴らし、そう言い切る。

「それは大層な野望……いえ、夢で」

 郭嘉は最早諦めて感想を述べる。そんじょそこらの将軍よりも強く、勇ましく矛を振り回す戦姫の姿を想像して、背筋が冷えた。この姫なら、冗談抜きで本当になりそうだから恐ろしい。
 
「でも、母様はやっぱりダメって言うの……珠はお兄様と会いたいのに、なかなか連れていってくれないし」
「もしかして、だから隠れているのか?」

 そりゃそうだろう、と呉夫人の心労のほどを思いながら、ふと引っかかっていた疑問を口に出してみる。
 捉迷蔵の鬼は、本当は気の利かぬ侍女達ではなく―――

「珠は帰らないわ。ずっとここにいるの。お兄様のお傍にいるの」

 膨れ面のまま、深く身を沈めるように背中を丸める。手持ち無沙汰なのか、それとも思い通りに行かないことの憤りの現われなのか、両の拳でトントンと自分の膝を叩いていた。

「帰らないんだから」

 己に言い聞かせるように、口の中で繰り返す。
 孫珠を見る郭嘉の両眸にふと悼むような哀しむような光が過ぎった。

「小姫は、大兄君が大好きなんだな」
「そうよ。誰よりも大好き」

 得意げに言う少女の髪を微笑みながら梳いてやる。
 その耳の奥に、重なる懐かしくも遠い声。

 ―――お兄様、大好き―――

 妹というものは、往々にして兄を恋い慕うものなのだろうか。
 郭嘉は瞼を閉じ、去来する思いとともにその記憶を散らした。感傷に浸るには、今は時ではない。

「小姫、嫪娰(ろうじ)というのを知っているか?」
「ロウジ?」
「おじさんの郷里にある昔話に出てくる、古い女神の名前だよ。強く、賢く、美しい戦の女神。嫪娰には双子の兄がいて、名を恒禮(こうらい)という。恒禮と嫪娰は生まれ出でた時から一心同体だった。いつも共にいた。まわりの神々は、二人はいずれ婚を結ぶのだと思っていた。古の伏羲と女媧のようにね。けれど、嫪娰はそうしなかった。何故だか分かるか?」

 孫珠は素直に首を横に振った。

「嫪娰はな、兄神を慕いながらも、近しすぎる血の(けっこん)は子々孫々に禍を起こすと言って、あえて身を退いてその位を他の女神に譲ったんだ。以来決して前には出ず、陰ながらに兄神と(あによめ)を助け、支えた。そして兄神が戦場に行く時には、付き従ってその背後で戦った。恒禮は、嫪娰がいると絶対戦に負けなかった。これを嫪娰の貞という。おじさんの郷里の女達は皆、そんな嫪娰に憧れていたものだ」

 孫珠はただ黙って郭嘉の話を聞いていた。

「小姫だって、兄君のお嫁さんになるほかにも兄君のお手伝いをする方法がある」
「ほかに……?」
「ああ」

 訝しげに問う少女へ、郭嘉は微笑んだ。

「多分今は兄君も小姫の言うことを笑って受け止めるだろうけど、そのうち小姫が大きくなったらそうはいかない。兄君はきっと小姫をお嫁さんにはできない。小姫は兄君を困らせたいか?」
「……困らせたくない」
「なら我慢しなきゃな。兄君のお手伝いをしたいんだろう? 小姫がいい子にして言うこともちゃんと聞くことが、まず一つ、兄君の助けになる」

 孫珠は不安がるような、思い悩むような仕草をした。

「珠がいい子にしていれば、お兄様は喜ぶかしら?」
「何もずっと我慢していることはないぞ。小姫は小姫らしくしているのが一番だ。けれど、あまり困らすようなことをしたり言ったりしちゃあいけない。小姫は、もう子どもじゃないんだろう?」
「子どもじゃないわ」

 背伸びしたがる少女の性質を逆手に取りながら、郭嘉は微笑して言葉を紡ぐ。

「そしてもう一つの助けは、兄君を安心させること」
「あんしん?」

 孫珠は鸚鵡返しに唇を動かし、振り向いて高い位置にある顔を仰ぎ見る。

「どうすればお兄様は安心するのかしら」
「そうだなぁ……小姫が幸せでないと兄君は心配するだろうな」
「珠は幸せよ?」
「今はそれでいい。でも大きくなったらそうはいかない。たとえばお嫁に行って幸せな家をつくるというのは一つの方法だな」

 郭嘉とて、女の幸いとは何も婚姻だけではない、むしろそれによって不幸になる者もいるとは承知しているが、孫珠のおかれている環境では他の道を選ぶのは困難だろう。悲しい世の習わしだ。

「今のままじゃだめなの?」

 孫珠は体を戻して、ムス、と両の頬杖をつく。

「……お兄様のお嫁さんがダメなら、珠はお兄様みたいなひとじゃなきゃイヤよ」

 口を尖らし断固とした調子で言った。

「お兄様みたいな、強くてかっこよくて優しい男のひとじゃなきゃ許さない」
「それならばそういう人を見つければいい」
「そんなひと、きっといないわ」
「いるさ。小姫は知らないな、この世はものすごく広いんだぞ」

 郭嘉は笑う。 

「きっと小姫なら見つけられるよ。それまでには、小姫は色々なことを我慢して、色々なことを知って、色々なことを身につけなければいけない。大好きな兄君のためにもな」
「……」
「できるか?」

 小さな頭が、こくりと頷く。

「よし、いい子だ」

 郭嘉は微笑しながら、髪を梳ってやった。

「お兄様みたいに強くて優しいひと……本当に、いるのかしら」

 まだ見ぬその人物を思い、孫珠は小さく、不可解そうに零す。
 その後―――ずっと後に、政略のために己が婚姻を結ぶことになるとはまだこの時は思いもよらず、そしてその相手のことも、この時はまだ知る由もなかった。
 孫珠は再び黙り込んだ。それからやがて、ぽつりと呟くように、

「……公瑾はずるいわ」
「公瑾殿?」

 あまりにも脈絡なく唐突に挙がった人物に、郭嘉は不思議そうな眼差しで目をしばたたく。
 しかし孫珠はそのようなこと構わないようだった。

「公瑾は、いつも策兄様のお傍にいるもの。いつも一緒にいて、お手伝いできるんだもの。ずるいわ」
「小姫は公瑾殿が嫌いか?」

 孫珠はふるふると首を振った。

「公瑾は珠の好敵手よ」

 その言葉に郭嘉はつい噴き出しかけた。
 口に手を当て、陰で笑いをかみ殺す。

「そ、そうか。じゃあ、大きくなったら公瑾殿も適わないくらい、美人で強い女性にならなきゃなぁ」

 身体を小刻みに震わせる“椅子”に、孫珠は得意そうに「そうよ?」と答え、無邪気に笑った。




BACK MENU NEXT