「そういうわけで結局、呂奉先は陳公台の計を無視したわけさ」
パチンパチンという幽かな音が静かな庭院内に吸い込まれていく。
「それで、泗水と沂水を決壊させたということですか」
「そうそう。あの時期の川水は冷たかったからな
―――よし、これでどうだ」
「甘い。
―――呂奉先も相手が悪かったというか運が無かったというか」
「そう来たか……んー、まぁな」
周瑜の打ってきた手に、郭嘉は碁盤を覗き込んで顎を撫でる。どう手法を変えるか考えているようだ。
二人はこうして空いている時間にはよく、この庭院を臨む欄干で碁を打ちながら戦事世事もろもろを語り合った。郭嘉が呉都に逗留して三月、すでに日常となりつつある。
「いやでも、あれも可笑しな話でさ」
目に石を置きながら、語尾に面白気な笑みが滲む。ぱちん、とまたひとつ音が鳴った。
「あの水攻め、実は公達……荀攸殿と一緒に川釣りに行った時に思いついたんだよこれが」
「はぁ?」
対抗して碁石を打とうとしていた周瑜が呆れたように声を上げ、ついでに正面に座る男を見た。釣り、とその単語を唇に乗せる。
郭嘉は相変わらず碁盤を見つめたまま、片手で白石を弄んでいた。
「双方膠着状態だったからな、息抜きに出かけたんだよ、公達殿と。あの人もなかなかの楽天家っていうか、俺と同じで手詰まりな時は焦らず気分転換って性格でさ。で、二人して釣りしに行って、ふと手をつけたらこれまた凍えそうなくらい水が冷たくって……その時二人でピンときて思いついたんだ」
その時のことを思い出しているのか、クスクスと笑いながら郭嘉は言う。
「呂布が籠城するかどうかも分からなかったでしょうに」
「いや、俺は奴は籠城するだろうと踏んでたよ。単純バカだから、たとえ陳宮がどんな献言をしようと、ゴチャゴチャ細かいこと察せられないのさ。特に追い詰められてるとな」
本能に従って最も単純明快な手で来るだろう、と。郭嘉の唇に呆れともつかぬ微笑が浮かぶ。
「まあさすがにあの禁酒令までは予想外だったがな。全く、見事にこちらの思う壺にハマってくれたってわけだ」
あの水攻めに含まれていた意味のひとつは、呂布軍の混乱
―――特に浸水や寒さによるによる精神的な焦りと判断力の低下だった。
周瑜もふむ、と口元に手を当てる。
「呂布が城外に打ち出て陽動している間に、陳宮と高順と城内を守り、内外呼応して挟み撃ち
―――策としては悪くなかったといますけどね」
「籠城よりかはな。まあ人選次第だったとは思うが。城の守りが奴ではなく張文遠であれば話は違ったかもしれん。でも最大の敗因は、呂奉先自身の問題だろう。誰を信じるべきで、誰を疑うべきだったか
―――最も信じるべき者を見誤ったことによるものだろうな」
「……結局、己が主を裏切り続けてきたがゆえに、己に仕える者を信じ切れなかったのでしょう」
皮肉な話ですね、と周瑜は小さく呟く。主君に求められるもの。それは、臣下を信じること。信じるべき臣下を見極めることだ。
それが成しえられぬ時点で、その者は主君となるべき器はない。
しかし郭嘉はそれにおやと目を軽く張る。心なしか
―――しかし確実に、周瑜の口調に棘のようなものを感じ取ったからだ。
周瑜は気づかず続ける。
「天下に掲げる義心もなく、ただ己が欲のためだけにいたずらに人を殺し武を振るった報いが、最終的には己が身に降りかかったということでしょうね」
「……公瑾殿って」
何ですか?と周瑜は視線を向けた。
「もしかしなくとも、呂布のこと結構嫌い?」
「は?」
言われた言葉に、周瑜は一瞬ポカンとする。だが、呆気に取られたような表情をしているのは郭嘉も同じだった。
「なんか公瑾殿にしては評言がキツイように思って」
「……別に、そんなことは」
周瑜としては一般論を言ったつもりだった。好きだとか嫌いだとか、そんな一個人の感情を呂布に対して持っていない。そもそも政事を語るの際には私情を排する。常に客観的な立場で物事を見なければ、判断を見誤ってしまうからだ。
だが郭嘉は「ふーん、そうか」とそれ以上追及はしなかった。代わりに、
「別にいいと思うけどなぁ。知ってるか、あの荀文若ですら、袁紹について話すときは『なんていうかもうとりあえず生理的に受けつけない』って口調なんだぞ」
意外そうに周瑜は瞠目する。
荀彧といえば、名の聞こえた清流派名士というだけでなく、それこそ清廉潔白、公明正大と謳われる人物だった。勢力を問わず敬服している者が多く、周瑜もまたその一人である。公に個人的感情を挟むことはおろか、あからさまに嫌悪を示すような人柄とも思えない。
「会ってみなきゃ分からないこともあるけど、人間誰しも気に入らない奴は一人や二人いるものだし、むしろ俺はそんな公瑾殿の方が人間臭くて好きだよ」
「何恥ずかしいこと素面で言ってんですか」
「んー、コクハク?」
「……」
「ときめいた? 今ときめいた? よっしゃこれで相思相愛~」
頬杖をついてにこにことのたまう男に、周瑜は氷もかくやとばかりの冷たい視線を送った。いっそ碁盤ごとひっくり返して顔面に投げつけてやろうかとも思ったが、寸前でグッと拳を握ってこらえ、額を覆うだけに留める。本当に何故この男はこうも
―――
「まあ、冗談はおいといてさ」
ひとしきり笑った男は、(これも計算のうちなのか)無事に済んだ碁盤に目を落とす。片手で白石を弄びながら、
「俺は、結構呂布は嫌いじゃなかったけどな」
周瑜が見つめると同時に、ぱちん、と下で音が鳴った。
「とことんバカでどうしようもない奴だったけど、この乱世で己にどこまでも真正直に生きた男だったからね」
「……」
その台詞に含まれる微細な響きに、周瑜は黙した。情のような、懐古のような
―――捕らえがたい、しかし同じ乱世に身を投じる者だからこその深みがそこにはあった。
「周りを省みず己のやりたいことをして、他人が与えるものに飛びついて喜んで
―――子供みたいな奴さ。でも、何よりも一途だった。
―――どんなことがあっても、一人の女をずっと愛し続けた」
絶世の美女だったと謳われる謎の踊り子の名が脳裏に浮かぶ。最後まで呂布と共にあり、その後は消息を絶ったと聞く。自ら離間の計の生贄となった彼女が何を思っていたのか、誰にも分からない。
「救いようの無い悪党でも、そういう裏表なく真っ直ぐだったところは嫌いじゃなかった」
それと政事では話は違うけれどな、と郭嘉は口角を上げる。
「貴方こそ、嫌いな人物などいないんじゃないかって気がしますよ」
「そうさ、俺は人間好きだからな」
冗談なのか本気なのか。屈託なく朗笑しながら、しかし不意に声音を下げて、郭嘉は言った。
「けど、俺にだって嫌いな奴はいるよ。それこそ心の底からムカつく、嫌悪の塊がね」
「意外ですね。誰ですか?」
「それは秘密」
意味深に言いながら、郭嘉は「ほら、公瑾殿の番だぞ」と碁盤を指して促した。すっかり対局を忘れて手が止まっていた周瑜は、はっとして視線を戻す。
目は黒白の碁石の並びの上を流し見ながら、話の続きにじっと耳を傾ける。
「話は戻るが、結局のところどんなに武がある奴でも器が伴わなければ駄目だという事例だな。臣下を信用できなければ終わりだ」
「曹司空殿は、その点よく家臣の心を掴んでいらっしゃるのでしょうね」
「ああ」
誇らしげに郭嘉は答える。周瑜はチラリと瞳を向けた。郭嘉の顔はこの上もなく嬉しげで、そして
―――
「あの方は凄まじいまでの人材収集病だけど、それは人物を見抜く眼力があってこそ活きる性質だ」
その病気のせいで俺たちが苦労するわけだが、と苦笑交じりに言う。
だが、そういいながら表情はとても柔らかなものだった。
郭嘉が曹操の話をするとき、あるいはその周りの同志であり朋である者たちを語るときは、いつもこんな顔をする。
「信を置くべき者に置き、心を預けるべきものに預けられる。だから臣も付いてくる」
「そう、そのとおりだ」
言葉を継いだ周瑜に、郭嘉は深い同意を表して頷く。
「なんだ、公瑾殿も我が殿の良い所が分かったみたいじゃないか。どうだ、いっそ東呉を捨てて共に来ないか?」
悪戯気に瞳を光らせながら、小声でそんなことを嘯く。
「冗談でしょう?」
周瑜も堪らず笑いながら返した。孫策に背を向ける自分も、曹操に跪く自分も、天地がひっくり返ったとしてもあり得ない。
しかし、笑みの中でもこれだけは強くはっきりとした声音で答える。
「曹司空がどれだけ大器の人物でも
―――私の主君は、孫伯符ただ一人です」
予想通りであるくせに、郭嘉はさも残念そうに肩をすくめた。
「ちえ、俺たち相思相愛なのにぃ~」
「なら、貴方がこちらへ来ればいいじゃないですか」
郭嘉はきょとんと周瑜を見た。道化の演技が解け、思わず素に戻ってしまったという、そんな顔だった。だがすぐさまニヤリと笑み、
「冗談だろう?」
そうして二人して噴き出す。
じきにやってきた呂蒙が不思議そうに首を傾けるまで、彼らは忍び笑いを続けていた。
笑いながら周瑜は思う。
―――本当は、半分以上は冗談ではなかったのだけれど。それは彼も同じだろうと思う。ただ、きっと知らない。自分には、己と同じ目線でものを見、同じ思考回路で考え、胸の裡を分かり合い、こうして心の底をさらけ出して笑いあえる朋友が、本当に少ないことを。周瑜が建言し献策する度に、意図を理解できず胡乱な眼差しで煙たがる者の多さを。呂蒙や呂範といった一部の者達は理解を示してくれるものの、それでも拭いきれぬこの孤独を。
彼が自身の周りの人について語る時の、あの満ち足りた表情を見て、叶わぬ望みだと分かっていながら、それでも願わずにはいられない。
叶うならば、どうかこのまま
―――