石の回廊に立つ下裙の衣が、不意に揺れる。足元にじゃれ付いてきた柔らかなむく毛に、郭嘉は目を細めると、それを抱き上げた。

「初めて見たときよりずっとデカくなったな、お前」

 程よい位置を探して蠢いていた猫が、返事をするかのように鼻先を向けて、ナァと小さく鳴いた。腕にかかるズッシリとした重さも、最初に抱き上げた時より、大分重くなっている。頻繁に見ていたせいか、あまりその変化を感じることがなかったけれども。

「……それだけ、長くここにいるってことかな」

 ポツリと、猫に話しかけるというよりは独りごちるように、呟きを零す。毳は自分は無関係というような顔で、頭をすり寄せてくる。ふわりとした毛が口元を掠め、またひとつ微笑んだ。それから、緑をすっかり落とした寒々しい木々の庭院を見た。どこか遠くを眺めるように細めた双眸には、高く青い北の空が映っていた。




 冬の到来を告げる、冷たく清々しい風が頬を撫でる。孫策は意気揚々と回廊を歩いていた。
 健やかに澄み渡った快晴。室の窓や蔀をすべて開け放っていたら、解放感に満ち満ちて、気がつけば剣を取って外へ出ていた。こういう日は思い切り身体を動かすに限る。―――もちろん鬼の目を盗んでだが。
 丁度、自分の右腕兼親友の執務先へ向かう途中である。
 手合わせをするなら他にも色々いるのだが、程普は歴戦の老練であるがゆえに指導を受ける意味ではいいものの、やれ作法がどうの基本がどうのと煩く、弟の孫権は決して弱くはないのだが、それでも孫策からしてみれば今一歩であった。
 細かいことを気にせず、対等の力量で思いっきりぶつかり合うには、やはり呼吸を最もよく知る幼馴染が一番だった。
 弾む心のまま、足取りも軽く、慣れた道順を辿り角を曲がる。
 そこで、不意に耳に入ってきた声に、孫策はハッとして歩を停めた。

「考えてみれば毳という名前も失敗したかな。むく毛っていや普通は犬のことだもんなぁ」

 などとブツブツと呟いている。その男は、今現在孫策が府城の中で最も顔を合わせたくなく、かつ最も毛嫌いしている人物。
 その当人は、何故だか両手に猫を抱えていた。しかも高い高いでもするように頭上に掲げて話しかけている。傍目にがヤバイ奴だ。
 ふかふかの獣を見上げながらううむと唸っていた郭嘉も、回廊に立った気配にすぐさま気づき、「あ」と口を開けた。
 突然の第三者の出現に驚いたのか、猫が彼の腕から逃れて飛び降り、背後へ走り去ってゆく。それを孫策は目で追いながら、あれはもう少しで食べごろかな、などとどうでもいいことを思った。彼の幼馴染がかつて似たような発言をしたことなど、彼は知る由もない。
 ばったり鉢合わせした現場に、一瞬の重い沈黙が下りる。

「これは討逆将軍」

 先に平生の落ち着きを取り戻したのは郭嘉の方だった。違和感を感じさせない間合いで軽く拱手を掲げる。心中の一瞬の狼狽も驚愕も読ませぬほどの、素早い転身だった。ここは経験の差というよりも性格の問題か。
 そこで孫策もはたと我に帰り、勅使の(おもて)を睨み付けた。にっこりと笑んだその顔は、作り物なのか素なのかも判じがたい。
 憎らしい相手より出遅れたことに憮然としながらも、拱手を返す。あちらは挨拶としての拱手だが、こちらは己より高位の者に対する礼としての拱手だ。討逆将軍位は、司空軍祭酒位と同格。しかし相手はその上に「勅使」という役がついている。
 郭嘉が此処に居ることはおかしくはない。基本的に機密区画を除き、このあたり一帯は自由に出歩いていいこととなっている。厠や沐浴所への行き来もあるからだ。府城の外に出るのでなければ、特に目付けもつけられない。
 だからこそ、偶然にも顔をつき合わせたことが、孫策は気に入らなかった。
 何でよりにもよってこんな時にこんなところにいるんだよ、といったところか。

「将軍も息抜きですか」
「……」

 できれば口も利きたくなかったが、さすがにこのまま無言で過ぎ去れば非礼に当たる。なんでもいいから適当に言葉を捻り出してさっさと立ち去ろうと孫策が考えていると、郭嘉がふとその手元を見止めた。

「なるほど、鍛錬ですか。よい天気ですからねぇ」

 こういう日は身体を動かしたくなるものです、などと、空を見やりながら妙に緊張感に欠けた口調で言う。

(こいつ、敵陣(ひとんち)で何でこんなに寛いでるんだ?)

 胡乱げに孫策は眉を顰める。確かに孫策たちはいたずらに勅使を殺傷したりはしない。そこまで江東も命知らずではない。
 しかしそれでも敵地に身を置く以上、常に敵意に晒されている。特に孫策はこの東呉の主だ。普通の神経ならば、もう少し緊張感があるものだろう。にもかかわらず、目の前の男はそのようなことは知らぬとばかりに、呑気にも欠伸などかましている。
 その気負わぬ立ち振る舞いが得体が知れず、妙に癪に障った。
 元々、孫策はこの男が嫌いだった。いや、嫌いと言うよりは苦手に近い。勿論初見の第一印象が最悪だったせいもあるが、それを差し引いても、受け入れがたかった。
 特に眼が苦手だった。
 彼の眼は、これまで孫策が会ってきた人間が向けてきたものとまるで違う。今までにない。まるで品定めをするような―――孫策という人間の底を見極めようとする眼だった。
 選定されること自体は、これまでにも経験がある。張昭や張紘といった、名のある名士学者たちの多くは皆、まず孫策の人となりを見た。そして、臣下として傅いた。
 だが郭嘉のそれはまた違う。厳格な張昭よりもずっと深く、厳しい。内側まで暴かれそうな気がする。
 だからこの男と顔を合わせると、いつも孫策の方が落ち着かなくなる。そんな自分に気づいているから余計に嫌だった。
 早く立ち去ろうと急く孫策の目に、ふと、その腰元に佩いた刀剣が留まる。
 それは周瑜から聞いたのだったか。許都の軍師祭酒は、文官のくせに外出の際、常に傍から離さない刀剣が有ると。
 そういえば、と思う。前に、なんともなしにかの幼馴染が執務室でこんなことを漏らしたことがある。

『あの勅使殿は、見かけによらず喧嘩慣れているようですよ』

 周瑜はこの使者の接待を担っているから、大方何かでそういう会話に及んだのだろう。しかし別に興味がなかったので、ふーんと適当に聞き流していた。
 孫策は、ちょっとした悪戯を思いついた。日ごろの鬱憤を晴らすと同時に、この男の余裕面を剥いでみよう。それは、軽い意趣返しのつもりだった。
 ニヤリと口端を上げる。

「ああ、一汗かこうと思ってな。―――そうだ、ここはひとつ、勅使殿にお手合わせ願えないか」

 郭嘉は一瞬何を言われたのか分からないようだった。
 空から視線を外して孫策を見返し、目を点にしている。

―――はい?」
「お噂では、勅使殿はなかなか腕に覚えがおありだとか。折角の機会、是非私も刃を合わせてみたい」

 普段は使わないような堅苦しい言い回しで慇懃無礼に告げる。
 郭嘉は二、三拍、言葉を捜しあぐねる様子を見せた。やや首を傾け、やんわりと言う。

「いやー…そんな、お見せするほどのものでは。私の剣技など将軍に比べたらそれはもう児戯に等しい、ズブの素人ですよ」

 お恥ずかしいと遠まわしに断る郭嘉に、孫策はここぞとばかりに押しの語気を強める。

「ご謙遜を。その腰の剣は、飾りではなかろう」

 そう言って、くすんだ艶を放つ銕の鞘を指す。形ばかりの装飾きらきらしい青銅剣ではなく、実戦を前提とした、実用に富んだ鉄製の剣。剣術を好む孫策がそれに気づかぬ筈がない。

「聞くところによれば、片時も身から離さぬとか。さぞかし自信がおありなのだろう?」
「ああいや、これは……」

 郭嘉は目を落とし、腰の柄に軽く触れる。その瞳の奥に微かに込もった色に、目下の計画に気をとられている孫策は気づかずにいた。むしろ、しめたとばかりにずい、と身を前に出した。ここへきても郭嘉は常の調子を乱さずのらりくらり躱しているが、この提案を好ましく思っていないのは確かだった。

「何、ただの手合わせだ。何も殺し合おうと言っているわけじゃない」

 それに、と孫策は双眸をキラリと閃かせた。

「ここで申し出を断っては、軍師祭酒の名折れになろう」

 低く、囁くように言う。実際に断ったところで別に名折れになどなりはしないのだが、孫策はそこには構っていない。挑発が目的なのだ。

「……」

 郭嘉はじっと孫策を見つめ、やがて笑った。孫策の思惑などお見通しというような笑みだった。

「仕方ない―――そこまで言われるのであれば」




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