適当な広さを持つ庭院に降り立ち、スラリと鞘から抜く。
 そこで孫策は軽く瞠目した。郭嘉が抜いたのが、片刃だったからだ。

(とう)か?……本当に、文官にしては珍しいな)

 良家の男子が習うのは大体剣だ。祭祀や公の儀式儀礼などで用いられるのも、身分が高い人間が携帯するのも、装飾品で多いのも剣。それは剣の方が刀より格式が高いからである。刀はどちらかといえば戦場において兵士が使う場合が多い。
 だが、ある程度の高位にいるはずの郭嘉は剣ではなく直刀を装帯していた。刀にしては長さが短く、おまけに剣と同じ向きに佩いていたから(刀と剣は佩く向きが逆なのだ)、気づかなかった。しかし、たしかに注意して見れば、環首がある。環首は通常、刀における形態だ。
 それとも華北ではこれが最近の流行りなのだろうかと孫策は軽く小首を傾げながら、自らも剣鞘(けんしょう)から諸刃を抜き放った。磨きぬかれた鋼が、陽光を反射してきらめく。
 孫策は両瞳を眇めた。刀であろうと、所詮は戦場の後方に構え、自ら戦闘行為をすることの少ない軍師。一対一の剣技では自分は負けない自信がある。




 澄んだ空に、高い音舞い上がり、吸い込まれてゆく。

「はっ」

 一合、二合、と剣撃が続き、斬り結んでは互いに間合いを測る。
 なるほど。孫策は心中で呟く。確かに周瑜の言ったとおり、郭嘉はそこそこ扱えるようだった。
 だが、本気で打ち合えば御せぬ相手ではない。事実、まだ余力のある孫策に対し、郭嘉は既に軽く息が上がり始めている。
 それよりも、孫策にはどうしても解せないことがあった。
 南北の武術は質が異なる。力強く、大振りで変化の抑揚に富む南方に対し、北方は洗練された、繊細で無駄のない動きが特徴だ。それは何度か対戦したことのある孫策のよく知るところでもあった。
 なのだが。

(なんだかなぁ……)

 閃く片刃を後退しながら弾き返し、孫策は怪訝そうな面差しで再び首を傾げる。
 郭嘉の刀術は、随分と荒削りだった。ひどく我流の入っているというか、どちらかといえば喧嘩剣法と言った方がしっくり来る。
 もちろん、孫策自身もこれまでの経験上、喧嘩技な部分も大いに混在している。だから程普にはよく注意されるのだ。けれども父の孫堅は名家ではないとはいえ士大夫として将軍職についていた。ゆえに孫策も幼少時からちゃんとした師につき、正統な剣術を学んだ。で一見我流色の強い剣術に見えても、根本的な基礎はしっかりしていたりする。
 同様に、決して下級氏族ではないだろう郭嘉も、それなりに体系的なものを習っていたはずだ。その証拠に、時折だが基本の所作も見え隠れしている。しかしほとんど型と言うべきものはなく、足運びもでたらめだった。
 それでも刃捌きは妙に現実的な趣があった。何より、相手の剣から視線を外さない。躱す時も受け流す時もギリギリまで引き付けてから動く。単なるお家剣法を習ってきただけではこうはいかない。刃を怖がらないのは、実戦慣れしている証だ。文官風情がと思うが、仕官前は侠客でもやっていたのだろうか。
 この矛盾した部分が、人を異様な気分にさせる。刀ということもあって、まるで山賊でも相手にしているかのような感覚に、孫策は顔を歪めた。

(まさかなー)

 全くよく分からない。
 郭嘉が自分の下裙に躓いてよろけた。お互いまあこのクソ動きにくい官服でよくやるよな、などと感心しながら、すかさず踏み込んで一閃するが、それは寸前で受け止められ、はじき返される。
 チッと、舌打ちをして、一歩引いて距離を取った。決して手を抜いているつもりはないが、相手もなかなか粘り強い。

(そういや公瑾のヤツ、妙にコイツのこと評価してたが)

 甚だ面白くない心持ちで、親友の白皙の面を脳裏に描く。ふと、その彼が何気なくごちた台詞を、思い出す。

『彼のような才を持つ人物がこちら側に一人でもいれば、きっと心強いことでしょうね……』

 本当に、何気なく零した一言であったのだろう。
 けれど長年の付き合いである孫策には、そこに篭る微細な色合いに、敏感に感づいた。

(コイツのどこがいいんだ)

 忌々し気に、眼前で汗を拭う男を見据えた。
 確かに頭は切れる。それは分かっている。自分は周瑜や呂範らのように智謀に長けていないし、張昭や張紘のように法だとか内政のことは不得手だ。自分で言うのもなんだが、頭の出来がすこぶるいい方だとは思わない。
 いつだって周瑜は誰にも言わず、ただ一人で黙々と考えている。いつだって自分は、一から説明されるまで、その意図が測れない。それが孫策はもどかしかった。心の内に溜めているということが目に見てとれる分、余計に。
 だから周瑜は、自分に合わせて他愛もない話をするより、こうした智謀の士と策を練り合い政事を語らうほうが実は楽しいのではないかと、つい卑屈になって勘繰ってしまう。

(あいつは、この男に残って欲しいのか?)

 己の思考と対等に渡り合い、言葉にせずとも意図を汲み、不足を補い合い、一を問えば十返ってくる。そんな心強い同胞が。
 孫策はそれらの後ろ向きな思考を、無理やり払い散らした。背後にせり上がる焦燥感など、決して認めない。ただムラムラと湧き上がってくる怒りに、奥歯を強く噛む。判っている、これはただの癇癪だ。
 それでも、無性にムカついた。こんなヤツ、いなくたって。
 (つか)をきつく握りなおし、渾身の力を込めて踏み出す。  こんな腕っ節の弱い軍師など、一思いに叩きのめしてやる。
 そろそろ呼吸の乱れてきていた郭嘉は、軽く歯を食いしばりながら、辛うじて避ける。
 すぐさま攻に転じ、正面から受けた孫策と切り結ぶ。
 その唇に、ふと不敵な微笑を刷いた。

「……『小覇王』とはよく言ったものだ」

 口調が変わっていることよりも、言われた内容のほうに意識がいった。
 耳にした途端、孫策は反射的にカッとなった。目前の顔をきつく睨め付ける。

「項籍に(なぞら)うとは、上手く表現したものだと言ったのさ」
「何だと」

 孫策が色なす。普段は賞賛となるはずのその言葉は、しかし今はひどく神経を逆撫でするものだった。
 それは、郭嘉が決して賞賛として口にしていないことが判るからだ。

「『覇王』は褒詞―――同時に不吉な呼称だ」

 浅い呼吸の下、途切れ途切れに聞こえる声に、孫策の表情が険しさを増す。ギリ、と競り合う刃に力を込めた。
 腹が立つ。明らかに劣勢なのに、余裕を失わない態度に。強い光を失わない、その瞳に。
 郭嘉は負けじと圧力に堪えながら、平静な声音で続けた。

「項籍は確かに英雄だった。強い武勇を持ち、猛威を振るった。だがついに覇権を手に入れることは叶わなかった。何故だか分かるか?」
「黙れ!」
「それは項籍が剛にばかり長け、柔を疎かにした者だったからだ。武勇は智略を以てこれを行うべし―――項羽はこの理を解さなかった。貴殿はお解かりか、小覇王殿」
「俺が、項籍と同じ愚か者だと言いたいのか……!?」
「違うか? 俺には、同じに見えるが」

 いけしゃあしゃあと返す。
 苦しげに息を吐きながらも、郭嘉は笑って見せた。
 孫策は、己の顔に熱が溜まるのをハッキリと感じた。血が頭に上る。憤りのあまり、目の前が赤く染まるかのようだった。

「俺は……俺は項羽とは違う!」

 自分は武に溺れ、武に滅ぼされることはない。だって、自分には―――

「中護軍殿がいる、か?」

 ハッと息を呑んだ。見透かされたと思った。
 郭嘉の双眸が鋭く光る。

「項籍にも范増があった。だが彼は亜父(あふ)の再三の進言を聞かなかった。結果、どうなった? 范増は無念を胸に項下を離れて死に、項姓は高祖に滅ぼされたんだ」

 ドクン、と大きく心の臓が脈打つ。
 動揺―――

「……俺が、公瑾を追い詰めると?」

 喉が震えるのが、自分でも分かった。
 怒りか、それとも……

「項籍が滅びた最大の原因は、己自身にある」

 気づいているか、と郭嘉は囁いた。

「曹孟徳は、梟雄姦雄とは称されても、『覇王』に(なぞら)えられたことはない」

 孫策は腕を振り切っていた。緋い飛沫が舞い頬に飛んだことに、気づかなかった。
 ただ惑うまま、激情のまま、刃を振り下ろす。
 刹那、絶妙な間で、郭嘉は真横に逃れた。そのまま素早く足払いをかける。

「っう、わ……」

 我に返った時は遅かった。勢いを殺せぬまま足を払われたせいで、大きく前につんのめる。なんとか無様に倒れはせぬと踏ん張った瞬間、横から強く体当たりを食らった。

「だ……!」

 均衡を取ろうとして蹈鞴を踏んだ足が、ずぼ、と沈む。
 あっと思った時は遅かった。ぐらりと身体が傾ぐ。背後には自分を映す水面。
 大きな水音が上がったのは、瞬きの後であった。




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