江に吹き荒ぶは陸の嵐-1-




 緑を落とした柳枝が揺れる。
 ザァッと、江の面が波立つ。悠久にして長大な水が、風に煽られてさざめいている。
 まるで何か不吉なことの前触れのように。
 人の不安を掻き立てるように。




 生暖かい微風を頬に感じ、それで周瑜は目を覚ました。
 辺りは薄暗い。時期は小雪(しょうせつ)を越え大雪(だいせつ)に入った。夜明けはまだ遠い。
 隣では妻の晶が健やかな寝息を立てている。
 出仕までにはまだ時間がある。珍しいと思った。別に朝起きが苦手な方ではないが、早起きな性質というほどでもない。 こんなに早くに目覚めることは滅多になかった。
 不思議に思いながら、ふと横に視線を滑らせる。僅かに開いた蔀から隙間風が入ってきている。起こしたのはこれか、と、ぼんやり思い巡らした。
 この時期には珍しい南吹きのためか、少し温い。その微妙な仄暖かさが、半ばまどろみの中にある心を無性に騒がせた。
 どこか不穏な風。
 それを振り払うかのように周瑜は再び目を閉じた。もう少し寝ておこう、と。すぐ側にある人肌の暖かさが安堵を呼び、すぐにうとうととし始める。意識が眠りに沈んでいく時には、そのような不安はすでに忘れ去られていた。




 久々の沐日(きゅうじつ)を終えて一日ぶりに出仕した周瑜は、府城に顔を出した途端、違和感を感じた。
 異様な雰囲気が城内を取り巻いている。首を傾げるものの、どうやら気のせいではないようだった。
 端の柱あたりで話していた官二人が、周瑜を見た途端にハッとしたように表情を変え、そそくさと立ち去る。
 次に出会った数人も、こちらが会釈する間もなく逃げるように離れていくか、遠巻きにしてこちらを覗き見ては何やら小声で交わしている。その他も同様だった。
 ヒソヒソという囁きが否応もなく耳につき、刺さる視線に居心地が悪くなって、周瑜は人目を避けるように回廊の角を曲がり、より奥へと歩を早めた。
 周りに誰もいないことを確認してからホッと息をつく。勾覧によりかかり、冬色に染まる庭院を眺めた。
 別にこそこそ逃げるようなことをしなくてもいい筈なのに、居たたまれなかった。
 一体何だと言うのだろう。一昨日までは普通だったはずだ。官吏全員に好意を抱かれているとは思わないが、少なくともこのような空気に晒されることはなかった。
 しかし官たちの自分に対する態度、漂う雰囲気は、明らかにおかしい。一日いぬ間に自分に関することで何かあったのだろうか。
 皆の目を思い出す。どこか猜疑を剥き出しにした、苦くも刺々しい色。
 思い巡らしても、心当たりが思い浮かばない。理由が判明しているならまだしも、訳が分からないという戸惑いと不気味さが胸騒ぎを生む。
 姪琳を呼ぼうとして、昨日は彼女に仕事をいいつけて不在であったことを思い出す。そもそも、何かあったならすぐに知らせて来る筈だ。

「公瑾」

 誰でもいい信頼のある同僚に、と思っていた矢先に救いの手が差し伸べられた。
 聞きなれた声に周瑜は顔をあげる。いたのは相変わらず目に鮮やかな衣に身を包んだ呂範だった。
 心なし安堵の色を浮かべる周瑜に対し、呂範はいつになく緊張した面持ちで歩み寄って来た。

「城に来たと聞いたから、すぐに追いかけてきたんだ。会えてよかった」

 呂範は周囲を気にする風に左右へ首を巡らし、それから周瑜の腕を軽く掴んで更に人通りのない回廊の陰へ引っ張った。何か公にするには憚られる事柄なのだろう、呂範の声は低く抑えられている。
 周瑜の顔をもう一度窺って、呂範は溜息をついた。

「できれば出仕する直前に捕まえて伝えたかったんだが……その様子だと、すでに遅かったみたいだな」

 呂範にしては珍しく、回りくどい話し方だった。精悍な顔には苦々しい影が浮かんでいる。

「一体何事なんです」

 朝一の異常な出来事を話し、説明を求める周瑜に、呂範は難しい表情のまま

「お前に良くない噂が流れている」
「私に?」

 良からぬ噂とは一体何なのか。怪訝そうに眉を寄せる若き同僚へ、呂範は一瞬ためらうような素振りをみせながらも、意を決したように重々しく口を開いた。

「お前が―――周中護軍が密かに華北と通じ、江東を裏切ろうとしている、と」
「私が? 華北と?」

 思わず素頓狂な声が出てしまった。
 なぜと問う。その顔が愕然としていることは隠しようもなかった。

「噂の発信源は定かではない。ただ昨日お前が沐日なのを狙ったように突然流れはじめ、瞬く間に広がった。……お前が曹操の使者の室を頻繁に訪っている、その現場を見た、そう言った者がいるらしい」

 鈍器で頭を殴られた気がした。
 周瑜は両の眸を大きく見開く。その内容は、周瑜にとっては思いもよらなかっただけに、天地が引っ繰り返るほどの痛撃であった。
 慎重にしているつもりだった。人目には特に気を配っていたはずなのに―――まさか、見られていた?
 呂範は同情するように、どこか痛ましげな眼差しを、絶句し硬直したままの周瑜に注ぐ。その表情や双眸に宿るものからすれば、もしかすると呂範は薄々感づいていたのかもしれない。
 しかし彼は、周瑜の行動の真意がどうであれ、周瑜の人となりをよく分かっている。

「もちろん私や二張殿は、よもやお前が殿に反心を抱くはずがないと知っているし、このような噂を信じてはいない」
「……当然です」

 弱々しく低い声音ながらも、周瑜は断固と言い切った。
 しかしやはり衝撃が強すぎたのか、顔色は青ざめ、頬が強張っている。

「私も下官どもからこれを聞いた時には驚いたが、元々公瑾にはかの勅使の世話係という名目で監視する役目があったし、お前のやることには何かしら考えあってのことだ、とそう答えた。恐らく他のお前をよく知る官吏たちも、似たことを言って噂を牽制しているだろうが……それだけで簡単に収まるような問題でもなさそうだ」

 ふぅ、と重い溜息をつく。
 周瑜は若くして出世し、孫策の親友ということで信任厚く、活躍も目覚しい。その才覚と、更に美貌もあいまって、妬み嫉む者も多い。本人に非はないのだが、どうしても敵を作ってしまう。
 今回の噂の広がる速さ、そして収集のつかぬどころか過剰に煽られている感じは、その辺りも原因している可能性はある。
 つまり、これを機会に蹴落としてやれ―――ということだ。
 人の噂も七十五日というが、これはそんな単純に構えていい事でもなければ、のんびり放置していていい問題でもない。下手をすれば江東全体の士気に関わる。

「伯符様は」

 恐々と、その名を口にする。俯き加減だった周瑜の相貌がハッとして呂範を仰いだ。
 一番怖れているのはそれだ。孫策もこのことを知っているのだろうか。だとすれば彼はどう反応したのか。
 呂範は、まさにこれを言いたくなかったのだとばかりに、憂鬱そうに一旦唇を閉じた。しかし目は真っ直ぐ周瑜に当てられている。

「当然、噂は殿の耳にも入った」
「それで、あの方はなんと」
「同じだ。『公瑾が自分を裏切るはずがない』と言われた。いや、怒鳴った……かな」

 言って、呂範が苦笑する。
 その剣幕は本当に凄まじかったのだ。下手をすれば噂を告げた官吏を手討ちにしそうな勢いだったのを、呂範たちが慌てて諌めたくらいだ。

 ―――あいつが俺を裏切るはずがない! 二度とそんな下らない事を口にしてみろ、命はないと思え! 貴様だけじゃない、皆だ!!
「……とまぁ、そのようなことを言われてだな。それ以来誰もが恐れて噂を口にしようとはしないが、心内では疑っている者もまだいる」
「そう、ですか」
「だが公瑾、あまり言いたくはないんだが……安心するのは早いかもしれぬ」

 孫策の言葉を知って胸を撫で下ろし、少し落ち着きを取り戻した様子の周瑜へ、なおも呂範は硬い声音を緩めなかった。

「ああは言ったものの孫策様は、少し揺れていらっしゃる」

 言葉を選びながら、言いにくい事柄を慎重に伝える。

「お前の忠誠心を疑っているわけじゃない。しかし頻繁に勅使を訪っているという行動に関しては真偽を迷っておられる。口では有り得ぬと断言されているが、納得し切れてもおられぬようだ」

 周瑜は顔を引き締めた。孫策は決して流されやすい性格ではないが、こうだと思い込むと周りが見えなくなることがある。そしてそれを、自制できない。たとえば一度でも疑いが芽生えてしまうと……
 呂範が言わんとしていることが何となく察せられた。

「昨日は一日ひどく機嫌を損ねたまま、誰もお側に近寄らせなかった。今日も怒りはさめておられぬかもしれぬし、お前にきつく問い詰めることもあるやもしれぬ」
「分かっています子衡殿」

 懸念を表す同輩へ、にこりと周瑜は微笑を浮かべた。大丈夫だ、と言外に示す。
 呂範は常は傍観者に留まり、時に厳しいことを指摘するが、基本はさり気なく仲間を気遣う男だ。その程よい気遣いが、周瑜にはありがたくも心地いい。

「大丈夫です。きっと」

 遠い目つきで庭院を望む周瑜の横顔を見つめ、呂範は「その言葉、信用しているぞ」とその肩を叩いた。




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