窓辺に頬杖をついて生温い風を受けながら、目先に入る前髪を指に引っ掛ける。

「不吉な風が不穏な噂を乗っけ~」

 意味の分からぬ節回しで即興の歌を謡い、郭嘉はぼんやりと摘んでいた髪を払った。

「何ですか、その歌は」

 感情無い声が低くつぶやく。あまりにも平淡すぎて、ツッコミなのか感想なのか疑問なのか分からない。

「ただの鼻歌」

 くすりと笑い、郭嘉は身体を室内に向けた。さっきまでは卓に向かっていたのだが、面倒臭くなり気分転換に窓の外など眺めていたのだ。
 卓を挟んだ更に向こうには、細尊が片膝をついて控えている。
 昨日周瑜がいなかったため郭嘉は小用と湯浴み以外で室内からは出ていない。しかし細尊により、一日にして広まった噂はすでに聞き及んでいた。

「まさか人に見られていたとはな」
「面目ございません」
「お前を駅までやらせたのは俺だ。しかも姪琳も別件で外していたなんてな。油断した失態は俺と公瑾殿それぞれにある」

(しかしドジったとはいえ厄介なことになったな。公瑾殿は今日は出仕日だろうが、さてどうなるやら……)

 どこか他人事のように思いながら、卓上の布に向き直る。残念ながら、郭嘉にとっては噂よりもこちらの方が最優先事項だった。
 手の者がもたらした布の書は、もちろん許からのもの。

「やれやれ、そろそろだとは思っていたが……」

 記された墨の面を指で弾く。そこには『いい加減、目的を果たしてさっさと帰還せんか』という内容の文。
 万一途中で盗まれても大丈夫なように配慮してか、送り主の名はない。しかし手蹟()だけで郭嘉には誰だか分かる。
 思わず苦笑がもれる。

「殿じゃなくて、文若殿から来るとはな」

 どこか予期していた風に郭嘉は一人ごちる。
 細尊は何も答えない。だが心中では荀彧の催促も妥当だと思っているに違いない。
 確かにいささかのんびりしすぎた自覚はある。思いのほか居心地がよくて、ついつい悠長に過ごして帰還を先延ばしにしまっていた。揃えるべき情報も知りたい事柄も、既に大方得ている。このまま帰ってもなんら不足不都合はない状態だ。
 郭嘉とて、いかに独立官でもそう長々と席をあけてはいられない。戻ったら卓にどっさりと仕事が積まれることだろう。
 それを想像すると余計に帰りたくなかったりするのだが……そうも言ってられまい。

「冬至だ」

 いきなり短く告げた郭嘉に、細尊が顔を上げる。
 郭嘉は再び窓枠に肘を掛けて外を見やり、引き締めた顔でもう一度宣言した。

「冬至には発つ。それまでに全ての準備をしよう」
「……御意」

 寡黙な細作は静かに頭を垂れ、姿を消した。
 それを見送ることなく、郭嘉はずっと明るい日差しの落ちる庭院を見つめていた。どこか物憂げな横顔に、遠く思い馳せる風情を乗せて。
 その手は、膝上に丸まる猫をずっと撫でていた。




 廟議の間は、やはりさざめきに揺らいでいた。
 その渦中である人物は、不特定多数の好奇や疑心に満ちた視線にそ知らぬ顔をして、相変わらず怜悧な面持ちで涼しげに佇んでいる。
 こういった噂の類については、どれだけ口で否定しても効果はない。むしろ躍起になればなるほど余計に煽り立てるだけなので、冷静に無視を決め込むのが一番なのである。そもそも周瑜はこの手の誹謗中傷まがいのことにいちいち傷ついたり動揺したりするほど柔ではない。
 ただ、恐らくもう―――しばらくは自重しなければいけないな、とだけ。そこだけが少し残念な気もして、こっそり溜め息を吐いた。
 幸いだったのは、見られたのが周瑜が貴賓室に訪れている時だったということだ。逆であったら大問題だが、周瑜は監視役があるわけだから訪問に関して実際に咎められる筋合いはない。
 事実郭嘉と会って話していたからと言って、内容はとりとめないものだし、裏切り内通など論外だ。
 だが、それを知らぬ者に説明したところで、言い訳にしか聞こえないだろう。
 問題は―――
 未だ空席の、上座を見やる。
 どう言ったものか。どうすれば激させず、穏やかに理解を得られるような説明ができるか。
 幼い頃から知っているだけに、一度こうだと思い込んでしまったあとの孫策の激しさには、正直手を焼く。
 何とかなるだろう。楽観的にそう思い直すことにした。

「皆揃っているな」

 表の入り口から、孫策が入ってきた。さっと潮騒が引くように場内が静まる。周瑜を含め、皆一様に拱手した。
 ふと周瑜は瞳を上げた。一瞬だけ、孫策と目が合う。しかし、それはすぐに向こうから外された。
 一見したところではそう変わったようすはない。しかし―――わずかな違和感。『少し揺れている』と表現した呂範の言葉がよく分かった気がした。
 孫策は上座に到って向き直る。段も椅子もない。
 皇帝でも宰相でもない自分が、廟議の場で皆より上に立つのは主義でないとして、話し合うなら同じ目線で、と孫策が取り決めたのだ。
 こういう気さくで伝統に囚われない姿勢は、本当に好まれる性なのだが……

「さて、皆様揃ったところで、まず各部署の長官より優先事項の連絡を―――

 張昭の朗々たる声を幕開けに、議はいたって平常どおり執り行われ始めた。
 ただ一つ、廟議の間、孫策が一度も周瑜を見るどころか、声をかけなかったところを除いて。
 その常とは明らかに違う出来事に、どこかほくそ笑むように窺っている官僚たちの視線を、周瑜は始終感じていた。




「公瑾」

 廟議が終わって、その時はじめて孫策は声をかけてきた。周瑜が首を巡らす。
 広間から去りかけていた官僚たちも、そ知らぬふりをしなが興味津々とばかりに聞き耳を立てている。
 孫策は仏頂面のまま、

「あとで話がある」

 素っ気無く言うと、周瑜を通り越して先に出て行く。
 その後ろ姿を見送りながら、周瑜は相変わらず凪いだ双眸で、幾度目になるかの嘆息を漏らしたのだった。




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