中護軍としての職務は、勅使接待役と兼任している今は実質侍郎(じかん)が代理を勤めていた。周瑜がやることといえば最終段階の案件や報告書に目を通して裁可を下すだけとなっている。
 普段はもちろん周瑜自身が細かなところから見て行くのだが、今はそこまでは手が回らない。その点、周瑜は人を見る目がないわけでも、人に信頼して託すということができないわけでもないから、委任することに躊躇いはなかった。この東呉には自分の他にも優秀な人物はたくさんいる。
 疎漏のない報告書を読み、改めて自分の人選が間違っていなかったことを確信して、提出してきた次官を労った。

「問題はないようだな。ご苦労だった」

 筆で制可と記し、護軍印を押す。周瑜の印が必要なのはこの案件で最後だった。
 は、と侍郎は恐縮したように頭を下げ、漆の盆に簡や冊を積む。
 それから不意に周瑜を見上げ、意を決した風に口を開いた。

「周中護軍」
「何だ?」

 何か見落としがあったかと思い、周瑜は瞬き一つして目を向ける。
 しかし侍郎の心意はそういうものではないようだった。いくらか躊躇ったのちに、真剣な面差しでゆっくり述べる。

「私どもは口さがない風評など露ほども信じておりませぬ。中護軍に直接お仕えする我らには、今現在己が目にしている中護軍のお姿こそが真実です。ですから決してお気に病まれぬよう」

 それだけは申し上げたかったので、とぎごちなくも懸命に伝えようとする侍郎に、一瞬周瑜は目を瞬き、それから微笑んで頷いた。
 その気遣いが嬉しかった。自分が誠心誠意行ってきたことは、必ずちゃんと見ている者がいる。それだけで充分だった。

「私は大丈夫だ。むしろ私が至らぬばかりに、そなたらにも余計な心労をかける。すまないな」
「いえ、滅相もございません。悪いのはあのような根も葉もない噂を流した輩です」
「ありがとう」

 本当は根も葉もなくはないのだが。だがそれはここで言うべきことではない。
 苦いものを胸の奥に押し込み、周瑜は素直に感謝した。

「恐れ入ります」

 尊敬する上司の心からの礼に侍郎は畏まった調子で拱手し、晴れやかな顔で室から退出する。
 自分は部下に本当に恵まれた。そのことを嬉しく思うし、誇りに思う。
 ふぅ、と一息つき、気分転換に茶でも入れるかと窓を見たところで、白いものが入ってくるのが見えた。
 足元にまとわりついてきて、甘えた声で鳴く。

(せい)

 腰を屈めて抱き上げれば、その首に以前はなかった藍の紐が結ばれている。揺れる二つの瑪瑙(めのう)の珠房に、どこかで見た色だなと思い、はたと思い出す。この室より遥か北西に位置する賓客室の主の(もとどり)によく揺れている色だ。
 これがまたもこもこと太った白い毳によく似合い、何となく可笑しくなって、くすりと笑う。

「お前、これをあそこまで持っていけるか?」

 少量の茶葉と小さな菓子を包んだ布を、くるりと猫の首に回し、前で括る。小さな背負い袋の出来上がりだ。首周りと後ろにかかる重みに最初はむずがるような素振りを見せた毳も、やがてどうでもよくなったのか、なすがままになっている。

「寄り道せず真っ直ぐ行くのだよ。途中で盗み食いしたら駄目だからな」

 周瑜はそのまま再び毳を窓から外に下ろした。行け、とやわらかな背を軽く叩く。毛玉が転がるみたいに、毳は一目散に庭院の草木の間を縫って走り出した。
 笑みながら消える白い影を見送り、さてとばかりに窓の透かし戸を閉める。
 向かわなければならない場所がある。




 硬く閉じきった扉戸は、中の主の心情を象徴しているかのようだった。
 もう一度緩やかに呼気を吐き出し、周瑜は凛然と顎を上げ背筋を伸ばした。

「伯符様。よろしいでしょうか」

 本来の形式ばった礼は省き、親友にして幼馴染という気安さを背後にして簡易に挨拶をする。礼節にうるさい程普や張昭あたりが耳にすれば憤慨することこの上ないだろうが、幸い本人はいないので構わない。こういう時に下手に遜るのは慇懃無礼なだけで、孫策相手には逆効果なのだ。
 ややあってから、不機嫌を隠さぬぶっきらぼうな声が入室を促した。
 失礼します、と断ってから、戸を押し境を跨ぐ。見事な黄金の虎を描いた障風を迂回すれば、珍しく卓に向かい執務をしている親友の姿があった。
 周瑜が入ってきたというのに顔を上げないのは、仕事に没頭しているというよりは、どういう顔をしていいかわからぬといった雰囲気だった。

「お話があるということで参りましたが」
「ああ……」

 コロン、と筆を転がす。広げられた冊書をチラリと盗み見れば、簡は殆どまっさらなままだった。仕事をする振りして、結局他のことばかりに気をとられて捗らなかった、といったところか。
 自分で呼び出しておきながら、孫策はしばらくぶすっと頬杖をついて余所見していた。どう切り出そうか迷っているのかもしれない。

 だがやがて、ゆるゆると息を吸った。

「もしかしたらもう聞いたかも知んねぇが、お前があのクソヤローの室に何度も出入りしてるとこ見た奴がいるらしくって、曹操と通じてるんじゃあないかって噂が流れてるんだ」
「……」

 もしかしなくとも『クソヤロー』とは郭嘉のことだろう。場違いだとは思いながら、それが妙に笑えた。

「どうなんだ?」

 どこか探るような、縋るような目で、孫策は周瑜を見据えた。
 対する周瑜は一度双眸を伏せ、静かに訊き返した。

「伯符様はどう思われるのですか?」

 噂を信じるのか。否か。

「俺のことじゃない。お前に聞いてるんだ」

 問いに問いで返され、少し苛立った様子で孫策は眉を寄せた。

「私がどう申し上げ、どんなに言葉に尽くしたところでも、伯符様が私を信じておられなければ意味はないでしょう」

 穏やかながら、決して決断を相手まかせにさせない周瑜の返答に、孫策は二の句を詰まらせる。

「……俺がお前を信じていないわけがないだろ」

 憤るようにして彼は視線を背けた。
 でも、その耳は答えを欲している。周瑜の口から、否定が出ることを期待していた。

「とても有難く存じます」
「俺が欲しいのはそんな言葉じゃない。分かってるだろ? 俺が訊いているのは―――
「私はこの東呉を裏切ったりなどしません」

 孫策の詰問を遮るように、周瑜ははっきりと答えた。身を乗り出しかけた孫策の動きが止まる。

「伯符様に逆心を抱くことなど、天変地異が起きようともありえません」
「じゃあ―――
「ですが」

 ホッと頬を緩ませかけた孫策に、周瑜の冷静な声が更に重ねられた。
 凪いだ湖面のような冷たく澄んだ眸が、揺らぎ無く孫策を射抜く。

「貴賓室を幾度となく訪っていたことは事実です」
「!」

 息を呑む音が、はっきり聞こえた。孫策の顔からさっと色が失われる。
 それでも、周瑜は嘘をつく気はなかった。ここで嘘をつくのは、それこそ孫策に対する裏切りだから。
 確かに秘め事ではあったが、自分に疚しいところは一切無いならば、堂々としていればいい。敵方の人間と親しくすることが問答無用で罪だというのなら、それまでだが。
 開き直り、と人は言うかもしれない。だがこれが周瑜の正直な気持ちだった。

「どうしてだ」
「一つには、世話係として」

 これは当然であった。

「……噂では、訪いは夜であったと聞いたぞ。随分親しげであったとも」

 そこまで見ていたのか、と、顔も分からぬ密告者に舌打ちをしたくなる。同時に、自分の油断も腹立たしかった。あの日はたまたま姪琳に所用を申し付けており不在だった。それまで彼女はかなり周囲に目を光らせていたはずだ。『幾度となく』という密告は恐らく目撃したのではなく憶測と悪意で加えた情報だろう。腹立たしいことに、それは実際、真実ではあった。

「二つには、私自身がかの人物を見定めたかったからでもあります」

 これも間違いではない。最初はそのつもりだったし、実際見定めもできた。

「それが必要以上に親しくする理由になるのか」

 怒りのためか絶望のためなのか、青い面を晒す孫策に、周瑜は努めて冷静に、しかし確と告げた。

「三つには……私が彼の為人を好ましく感じ、伯符様の麾下に引き入れたく思ったからです」

 孫策は声なく立ち尽くしていた。信じられぬものを見るように周瑜を凝視している。
 道理だろうと我ながら思う。しかし、これがここ近時一番強く感じていた意思だった。

「かの勅使はさすが曹操の懐刀と呼ばれるだけあり、相当の才を持っております。あれこそまさに天賦。軍略だけをとれば私すら上回るかもしれない。彼は敵にあれば恐るべき存在ですが、味方にあればこの上もなく強い戦力となります」

 間違いなく。そう、周瑜は力説した。
 孫策は無言だった。俯き加減に顔を落とし、どこかをじっと睨んでいる。その拳が強く、固く握り締められ、細かく震えていることに、周瑜は気づいた。

「言うことは、それだけか」

 低く、絞るように出された声色。

「はい」
「それがお前の紛うことない真意か……お前はずっと、そんなことを考えていたんだな」
「伯符様」

 様子が一変した主君に心なし慌て、周瑜は呼びかける。心中で強く願いながら。僅かな望みに縋りながら。
 ガタンッ―――大きな音を立てて、孫策は突如立ち上がった。驚く周瑜を一瞥することなく、背を向ける。

「出て行け」
「伯……」
「呼ぶな。お前には、しばらく自宅謹慎を命じる」

 周瑜は戦慄した。瞠られた目も、何かを言いかけて半ば開かれた口も、そのままの形で固まっていた。

「許しが出るまで外出はおろか、城に出仕することも禁じる」

 驚愕と悲しみがない交ぜになった気配を背に感じながら、しかし孫策は歯噛みをして、気持ちを変えなかった。重々しい沈黙が室内に満ちる。
 やがて、ぽつりと小さな吐息がこぼれた。

「分かってはいただけないのですね」

 諦念の中に微かに漂う哀しげな響き。それでも孫策は振り向かなかった。
 周瑜にとって、確かに正直な心の内を告げるのは賭けに近いところではあった。でも彼は孫策には真実を話したかったし、孫策ならばなら分かってくれるのではないかと、どこかで期待していた。けれど結果は―――

―――ご命令、謹んで拝受いたします」

 穏やかに告げ、周瑜は深く拱手した。
 だが孫策にしてみれば、その穏やかさがなお腹立たしかった。
 ゆっくりと退出しようとするその背へ、気づけば胸中の思いを口に上らせていた。

「あいつは……こっちには絶対寝返らないぞ」

 周瑜にはどうして孫策が突然そんなことを言ってくるのか、分からなかった。
 だが数拍の沈黙と、少しの逡巡する気配を経て、答えを返す。

「そうかも……しれませんね」

 その一言を最後に、戸を閉める小さな音が一人佇む室に虚しく響いた。




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