周瑜が屋敷に籠もってから七日が過ぎた。相変わらず謹慎―――というより、孫策の怒りが解ける様子はない。
 そろそろ下の方からも仕事上での文句の声が上がってくる頃だろう。
 呂範は、上の空な態度で卓に向かう孫策を眺めた。常に痞えが取れぬという顔をしている。この七日間、いい加減見飽きた姿だった。基本的にちょっとしたことならすぐにケロリと忘れる孫策だが、一度怒りが根ざすと深い。尤も、頑固で融通の利かぬという点では、周瑜も似たり寄ったりだが。周瑜は要領がいいようでいて、肝心なことに不器用だ……というのが長年付き合い、彼の人となりを間近で見てきた呂範の見立てだ。
 これがただの友人同士の私的な仲違いというのであれば、ほとぼりが冷めるまで適当に放っておくなり、どちらかの肩を持つなりできるが、安易にそうできないのが政事というものだ。

(まさか殿が公瑾に厳罰を下すことはないだろうが……)

 そうなれば呂範をはじめ、周りの人間がこぞって止めるだろう。いくら周瑜本人の申し開きがないとはいえ、そもそもは他人の口から出た噂による嫌疑だ。確かな証拠もないのに、いきなり罪を断ずることはできない。しかも周瑜は功臣だ。下手な処断は孫策の信用問題にも関わる。
 しかし、だからといって全く咎めなしでは、孫策の気は収まるまい。降格か、遠方にやるくらいのことはしかねない。

「殿」
「……」
「殿」

 少し大きめに呼びかければ、ようやく双眸がこちらに気付く。

「何だ、子衡か」
「何だ、じゃありません。いくらお呼びしても全くお返事がないので、勝手に入室させていただきましたよ」
「え、そうだったのか? 悪い」
「謝罪は結構ですから、こちらの案件にお目を通して下さい」
「ああ、分かった」

 言いながら孫策は冊書を受け取るものの、気の乗らぬ様子で目を動かしていた。このところ真面目に卓に向かってはいるが、仕事を前にしてもこうして身が入っていないか、思考が彼方に飛んでいる時が多い。やはり、引っかかっているのだろう。

「冴えないお顔色ですな」
「……分かってんだろ」

 むっと孫策が眉根を寄せて呂範を見る。

「お前も、公瑾のことについて諫言する気か」
「何も申し上げるつもりはございませんよ」

 呂範はいたって落ち着いていた。

「一度殿がお決めになったことです。臣はただそれに従うのみ」
「……」
「ただ、そのことでご政務に支障をきたされるのだけは、少々ご勘弁願いたいものですが」

 言い返そうとして、孫策は口を噤んだ。支障などきたしていると言われてもしょうがない行いに、身に覚えがあるのだろう。

「……気が乗らない。少し散歩してくる」

 低い声音でそう告げると、孫策は席を立った。
 退室する主の背中を見ながら、この問題はあまり長引かせない方がいい、と呂範は嘆息混じりに思うのだった。




 供の者には下がるように告げた。ともかく今は一人になりたかった。
 表は雨が降っている。冬の息吹が身体を底から浚う。江水の地は冬場でもさほど寒くないはずなのに、やたらと風が冷たく感じられて、孫策は身震いした。
 雨音がしとしとと響く回廊を歩く。そういえば、公瑾は雨が苦手だったな、と唐突に思い出した。苦手なくせに、雨音は好きだ、とかつて語ったことがある。雨粒が屋根瓦や勾覧の手すりに当たる音が、楽の音に聞こえるのだと。そうやって、周瑜には隠遁の士じみたことをたまに言う。あいにく風流を解さない孫策は、自然の奏でる曲でも音を誤まることはあるか、とその時はからかったものだ。
 出逢いは最悪で、性格も全く正反対で、本当によく親友でやってこれたものだ、と互いに笑い合うことも多々あった。
 孫策は目を落とす。地面にできた水たまりに自分の顔が映っている。我ながら無様な面だった。
 長きを共に歩み成長してきたはずなのに、孫策には周瑜の考えることが全く分からない。分かる時もあるが、分からない時の方が多いのではないかと最近は思う。
 無二の親友を疑ってはいない。疑うはずもない。周瑜が自分を裏切るなど、本人が断言したとおり天地が引っ繰り返ったとしてもありえないと、それだけは胸を張って言える。なのに何だろう、このすっきりせぬ痞えは。
 人の気配がして、顔を上げた。上げてから、孫策は激しく後悔した。その後悔たるや、ここ最近一番のものだった。
 折角普段は使われぬ所を選んで来たのに、全く意味がない。
 何でこうもいつも間が悪いんだ、と孫策は裡で舌打ちをした。最悪である。今の自分には、自分を抑えておける自信がないというのに。

「これはまた……奇遇ですな」

 郭嘉もまた、この鉢合わせに皮肉を感じ苦笑している。
 どんな時も余裕を称えたその面を、孫策は冷たく睨み据えた。

「一つ言っておくが、俺はお前が嫌いだ」
「へいへい、存じていますよ」

 郭嘉は肩を竦めてみせた。ぞんざいな口調は、こちらを揶揄しているようにも聞こえる。孫策の眉がますます寄った。

「だが、俺にも良心くらいはある。いいか、十数えるうちにさっさと立ち去れ。じゃなけりゃこの刃がどこへ飛んでいくか分からないぜ」

 腰に佩いた剣の柄を握り、腹の底から低語する。郭嘉に怯んだ様子はなかった。ただ嘆息を零し、黙って足を動かす。それを見て、孫策は無意識のうちにホッと力を抜いた。
 そのまま孫策の脇を通り過ぎるかに見えた郭嘉は、しかしおもむろに立ち止まり、口を開いた。

「良心、ね……自尊心の間違いでは?」

 その言葉は、なけなしの自制心を打ち崩すのに十分だった。
 ダン―――と大きな音が、回廊に響き渡った。

「ッつ―――……」

 背を強かに打って、郭嘉が眉を顰める。

「……もう一度、ぬかしてみろ」

 低い呟き。壁に押しつけ、その襟をギリギリと締め上げる。
 怒りに燃える二つの瞳は、視線で射殺さんばかりに強く煌いている。
 郭嘉は淡々としながら真っ向からそれを受け止めた。
 孫策は努めて抑えた声音で、もう一度繰り返した言った。

「もう一度ぬかしてみろ。ただじゃおかねえぞ」
「如何ただじゃおかない気で?」

 郭嘉は冷笑した。

「それで脅しをかけているつもりですか? お望みなら何度でも言いましょう。貴方のそれは、ただの子供っぽい自尊心だってね」
「黙れ!」

 堅い壁に再び力任せに叩きつけられ、郭嘉は顔を歪めた。

「ったく乱暴な。あまり丈夫な身体ではないんだからもっと丁重に扱っていただきたい」
「煩い!」
「そんなに私が恐ろしいですか」

 孫策は目を見開いた。

「なん、だと」
「でなければ何です? こうして我を忘れて怒りを露呈し、突っかかってくるのは。私には将軍が怯えているようにしか見えない」
「誰が怯えてなど! てめえなんか恐ろしいわけないだろう!」
「そうですか? 無暗に強い言葉を吐くのは、自らを大きく見せようとするからでは? それは臆病な心を隠そうとする心理の裏返しではないのですか。貴方はそうやって自分の弱さに目を背けているだけ。虚勢を張って守っているのは、己のちっぽけな矜持だ」
「黙れ……黙れ黙れ!」

 ガツンと打音が鳴った。
 郭嘉の髪が微かに起きた風に煽られる。その顔の真横―――壁を打った孫策の拳に血が滲んでいた。
 それでも郭嘉は目を逸らさず、怯むこともなく、孫策をひたと見据えている。

「将軍。貴方は私があの時に言ったことをちっとも分かっていない」

 今度は郭嘉の手が孫策の襟元を掴み返した。

「私は言ったはずですよ、『自信を持て』とね。あんな親切二度とやる気はなかったのですが、気の毒な公瑾殿を見ていたら気が変わりました」

 グイッと引いた。間近で低い声で問う。

「怖いか。公瑾殿が。彼の心が離れることが」
「何を馬鹿な」
「あんたは、彼のことを心の底では信じきっていないだろう」
「んなことあるか。あいつが俺を裏切るなんて、そんなことは絶対ない!」
「本当に? ならば何故彼の意見に耳を貸さない。信じているなら、何故遠ざける!」
「それは……っ」

 剣幕に気圧されるかのように、孫策の勢いが怯む。その顔が苦しげに歪められた。
 郭嘉はなおも畳み掛けるような言葉をぶつける。

「あんたは恐れているんだ。口では信じていると言いながら心では怖がってる。公瑾殿が本当に自分を主と認めてくれているのか。いつか自分から離れていくのではないかと怯えている!」
「違う!!」

 孫策は首を何度も振って、再び拳を振り上げた。
 だが、それは目標に到達する前に、中空で留まる。握った指が、更に強く握り締められる。震えていた。

「俺があんたに言った『自信』とは、そんな張りぼての矜持じゃない。あんたを信じてついてきている人を、疑うなと言ったんだ」

 郭嘉は己の襟から力の緩んだ手を外し、壁際から出る。未だ壁に向かったまま、俯きがちに思いつめている孫策の横顔を見つめた。

「公瑾殿を呼び戻せ」

 その声にピクリと孫策の肩が揺れる。ゆるゆると首を向けた。

「何で、お前にそんなこと……」
「意地張っている場合か。これだけ言っても分からないってんならいい加減俺もキレるぞ」
「な……」
「いいか。この城内は今回の件で動揺し始めている。あんたの態度如何で、今後が大きく左右されるんだよ。手遅れになる前に、さっさと臣下の不安の芽を摘むことだ」
「どうしろって言うんだ。公瑾を呼び戻したって……どう収集つけろって? 皆疑ってる。俺が今更言ったところで―――
「手を貸してやろう」

 え、と孫策は顔を上げた。まさか予想もしていなかった台詞に呆けている。
 郭嘉はニヤリと口端を上げた。

「甚だ不本意だが仕方がない。今回のことは、俺にも一因があるからな」
「……」

 孫策はまだ迷っている風だった。というよりも、最後の最後で、郭嘉という人間を信用していいものか、判断がつかないでいる。それもそうだ。だって彼の立場を思えば、江東に利になるようなことをしても益はないのだから。
 郭嘉は嘆息一つ零した。それから力が抜けた孫策の腕を徐につかむと、相手に身構える隙を与えず組んで投げ倒した。ドシン、といい音がする。この細腕のどこにそんな力がと思うような強さだった。

「ってぇ……何すんだ!」
「お返しだよ。ついでに目も覚めただろう」

 仰向けに倒れた孫策の襟を片手で掴み、膝をつく。
 ポカンと見上げてくる孫策の間抜け面に、口角をあげた。

「一つ言っておこう。俺は公瑾殿も好きだけど、あんたのことも意外と気に入ってるよ、孫伯符殿」
「……気色悪いこと、言うなよ」

 心底嫌そうに顔を顰める孫策に、更に笑みを深くする。

「こんなことを言うと、恐ろしい同僚に怒られちゃうんだけどな」

 絆されるなよ―――鼓膜の奥で声が木霊する。全く、彼は本当によく見抜いている。見抜いていて、だからこそ釘を差してきた。

(さすがだよ、文若殿)

 囁くように、郭嘉は和らいだ声音で言った。

「俺の欠点は、一度心を交わした相手に情を抱きすぎてしまうことでな。あまり思い入れが深くなると冷酷になりきれなくなる。それは軍師としては致命的な欠陥なんだ。こんなものは甘さであり弱さでしかない。だから敵になりそうな奴とは本来深く関わることは避けるんだが……厄介なことに、俺はあんたや公瑾殿を後輩くらい可愛く感じ始めている」
「お前みたいな先輩、御免だ」
「捨て置け。俺が勝手に思っているだけだ」

 孫策の悪態も構わずからりと笑う。だから、と明るい口ぶりで続けた。

「だから、それが弟くらい愛しい存在になる前に、さっさとおさらばしようと思う」

 それはつまり……言い差した孫策は、端整な顔立ちに複雑そうな色を浮かべた。
 答えの代わりに、郭嘉はにっこりと目を細めた。

「『疑わば用うる勿れ、用いては疑う勿れ』。―――さて、あんたはどっちを選ぶ?」




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