周瑜謹慎の報は瞬く間に府城全体に広まった。
 誰しもが、公に言わないまでも件の噂と結びつけている。この処分に対し、それ見ろと嗤う者もいれば、まさかと驚く者、当然だとばかりに息巻く者、ただ嘆息する者と、各人の反応は様々であった。張昭は黙然と憤る様子を見せ、張紘は心配そうに、そして呂範はただ黙って仏頂面の主君を眺めやるだけだった。
 毳はちゃんと届けてくれただろうかと、帰宅する馬車の中で周瑜はのんびり思い巡らす。自宅謹慎といっても、周瑜の地位は長期の不在を許せるほど低くはない。そう時置かずに呼び戻されるだろうことは予想がついた。幸い、勅使の世話のためしばらく侍郎以下に代理として仕事を任せていたから、不在にしていてもしばらくは何とか回るだろう。
 遠くに小さくなっていく城を窓から見やり、周瑜は幾度目かの太息をゆるがせたのであった。




 舞い戻ってきた白猫の首に、出て行った時にはなかった荷を発見し、郭嘉は笑いながらそれを取り外した。中から出てきたのは予想通り茶葉と茶菓子。律儀だな、と呟きながら、毳の頭を撫でて使いを労う。
 情報が舞い込んできたのはその時だった。

「たった今、周中護軍が城を出られました」

 庭院から囁かれる無感動な声に、それだけで郭嘉には何が起こったか大方予測がついた。朗報というには忍びなく、だからといって凶報ともいえない、複雑な心地だった。
 たまたま通りがかった女官に茶葉を託し、「お願い」と愛想を振りまく。女官はここのところずっと郭嘉に口説かれ続けたせいか、苦笑交じりに快く引き受けてくれる。隣室に去ったところを見計らって、窓辺に戻り、外を眺めるふりをして郭嘉は尋ねた。

「期間は?」
「未定です」
「そうか……まあそう長く空けておくわけにもいかないだろうから、すぐに戻ってくるだろうな」

 ふむ、と一つ顎を撫で、

「この機に、今まで妨害されていた軍事部分の機密、できるだけ探れるか?」
「やってみましょう」
「頼む。……ところで細尊」
「は」
「デコ、どうした?」

 窓の外に身を乗り出し、郭嘉は壁際に控える細作を見つめて、己の額を指差す仕草をした。
 細尊の額、左側に赤味がある。見事なタンコブだった。
 声色もいつもと同じようでいて、そこはかとなく憮然とした色が揺れている。これは長年知っている郭嘉だから気づける程度の微妙さだ。

「……中護軍の使役する細作に」

 一瞬言い淀んだものの、主の命令となれば言わずにもおけず、細尊は正直に答えた。珍しく忌々しげな舌打ちつきで。

「姪琳ちゃん?」
「中護軍の処分が許せなかったのでしょう。八つ当たりされました」
「はっはー……」

 何となくその状況が想像できて、郭嘉は薄ら笑いを浮かべた。彼女相手なら避けられないこともなかっただろうに、あえて受けた細尊の心情とはいかなるものだったのだろう。少々悪戯心が沸いた。
 しかし揶揄する前に隣室から茶器を盆に載せた女官が現われたので、目語で行けと命じる。細尊も目礼を返し、その場を去った。

「あら、郭様。そのようなところで何なさっておいでなのですか?」
「いや、大きい猫がいたものでね」
「まあ。お情け深いことはよろしいですが、その猫といい、あまり見境無く拾わないで下さいな。この城が猫だらけになってしまいます」

 軽やかに笑う女官から茶を受け取り、「猫屋敷にしてその飼育費で東呉中枢の財政を食い潰すって手もあるな」などと郭嘉は軽口を叩く。さらにころころと笑声が上がった。ピリピリした官吏あたりが聞いたら過敏に反応しそうな内容だが、女官らはこのくらいの冗談なら軽く聞き流せる。
 暖かで芳醇な香りをかぎつつ、口内に広がる味わいを楽しむ。それから紙包みをいくつか取り出して中の粉末を口に注ぎ込み、苦味を感じる前に茶で流し込んだ。
 まだ仕事がありますからと、戯れてくる手を軽くいなして室から去る女官の色衣を惜しみつつ、郭嘉は困惑とも苦いともつかぬ笑みを唇に刷いた。

 ―――全く困った「ご主君」様だ。

 このような処分をすれば、噂が本物であったと吹聴するようなものだ。これでは臣下の疑念、不安をいたずらに膨れ上がらせるだけだとは、考え及ばなかったのだろうか。果ては自分の権威に傷がつきかねないというのに、何とも若いというべきか、青いというべきか。
 癇の強そうな、太陽のごとき覇気を放つ顔を思い出し、微笑する。折角こちらが『忠告』してやったというのに、彼は全く分かっていないようだ。
 さて、どう出たものか。郭嘉の瞳が、宙の一点を見つめて光る。
 その時、不意に表に足音がした。石廊を叩く硬質な履の音と重みからすれば女官ではない。
 周瑜であるはずはないので、何か報告しに来た随従の一人かと思った。
 だが、障風の向こうに立った人物は、郭嘉の予測を大いに裏切った。

「突然のご無礼お許しを、勅使殿。少々よろしいか?」
「え? ああ、どーぞ?」

 よく透る張りのある声に、郭嘉は半ばポカンとしながら応えた。随従ではない。しかし周瑜以外の東呉の人間が此処を訪れることなどこれまでなかった。だから驚いた。

「失礼する」

 すらりとした長身の影が室に入ってくる。
 秀でた精悍な容貌は涼しげな微笑を湛えている。その面を郭嘉は記憶の中から手繰った。
 確か初めて江東に到着した日、会見をした広間にいた。宴席でも幾度か見かけたことがある。数多立ち並ぶ文官武官や、一度見たきりのその他大勢の顔など、いちいちしかと覚えてはいないが、彼のことはわりと鮮明だった。といっても直接言を交わしたことはないし、幕僚一人一人を紹介されたわけでもないので、名は知らない。
 茜色や錦糸をちりばめた瀟洒な衣を着こなした男は、物腰も優雅に拱手した。
 郭嘉は窓辺に座ったまま、ようやく「ははーん」と得心がいった様子でにやりと笑んだ。膝立ちになって軽く手を合わせる。
 それからどうぞ、と円座を勧めた。男が腰を落ち着けるのを見計らって、郭嘉から口を開く。

「驚いたな。孫家の重鎮として名高い呂子衡殿がわざわざ俺に何の用かな?」

 名乗る前に名を当てられ、呂範は一瞬虚をつかれたように目を瞬いた。それから微苦笑をする。

「よくお分かりに」
「征虜中郎将殿は派手好みと言うからな」

 笑いながら男の豪華な官服を指す。不思議とこれが嫌味でなく、むしろよく似合って見えるのは、この男だからこその持ち味だろう。
 これは一本とられましたな、とおどけた風に呂範は肩を竦めた。重鎮連中のなかでは、中間層くらいの年齢だろうか。確か郭嘉よりも2つ3つ上だったと記憶しているが、過酷な経験を経ているためか、物腰の落ち着きが違う。立場としては参謀というよりもむしろ相談役という雰囲気だった。若年層を戒める年長といったところか。

「あんたのことは聞き及んでいるよ。なかなかの傑物だそうじゃないか」
「光栄ですな。私も、貴殿のお噂はかねがね耳にしております。一度ゆっくりお話をしてみたいと思っておりましたが、なかなかまみえる機会がありませんで」
「そうかな。俺はあんまり会いたくはなかったけど」
「おや、何故です?」
「色々とやりにくそうだから」

 貍相手は。ボソリと呟かれた一言に呂範は、は?と怪訝そうに訊き返した。しかし郭嘉は「いやなんでもないこっちの話」と手を払って話題を切り替えた。

「いいのか、こんな時にのこのこ来ちゃって」

 卓に頬杖をつき、人の悪い笑みで、揶揄気味に相手の様子を窺う。嫌味というよりは、純粋に楽しんでいる風があった。

「なるほど、すでにご存知というわけか」

 周瑜の件は幕僚ですら今朝方知ったばかりだ。しかも外聞を畏れた張昭によって、事の仔細が兵卒らに伝わったり表沙汰にならぬよう緘口令も敷かれている。

「壁に耳ありってな。下手すればあんたも巻き添えを食うぞ」
「まぁ、何とか大丈夫でしょう」

 根拠があるのかただ単に適当なだけなのか、呂範の反応は判然としない。食えない奴だな、と郭嘉は胸中で呟いた。

「で? 大方、あんたの用件は中護軍殿のことだろう」
「そこまでお見通しならば話は早い」
「先に言っとくけど、俺はこれに関して釈明も弁護も一切する気はないよ」

 郭嘉はサラリと念を押した。
 周瑜には申し訳ないが、これで東呉中枢に疑惑と不安が広がり、孫策の権威が揺らげば、こちらの思うつぼというもの。内から崩壊してくれるならば、労せずとも憂いは取り除かれるわけで、逆にありがたい。
 だからわざわざ疑いを晴らす手助けしてやる気はなかった。周瑜に友誼は感じているが、それ以前に郭嘉は曹操の配下だ。公私を混同するわけにはいかなかった。
 その代わり、周瑜の不利になるようなことも言わない。このあたりが彼なりのけじめだった。
 だから郭嘉はあえて沈黙を保ち続ける。まぁどっちにしろ郭嘉が直接何か言ったところで現状解決にさしたる効果は無いだろう。
 そもそも、これで揺らぐようなものなら、最初からその程度だったということだ。

「当然でしょうな」

 呂範の吐息交じりな答えは、どこか諦観を醸していた。怒りも懇願もせず、ただ冷静に事実のみを分析する。といって人への配慮も忘れない。これがこの男の大きな才能なのかもしれぬと、郭嘉は思った。

「貴殿の言うこともご尤も。この問題は当方で解決することです。元よりお力をお借りしようとは思っていない」
「…………」

 郭嘉は呂範の次の言葉を待った。彼は協力を求めにきたのでなければ、世間話をしにきたわけでもない、そのことは分かる。真意を見定めようと試みた。

「実は先ほど、そこで面白い話を聞きましてね」

 ふと調子を変えるかのように呂範は軽く切り出した。

「何でも勅使殿は、『一度でも床に臥せるようなことがあればすぐに帰都せよ』と、曹公にそう命じられているとか」

 ぎく、と郭嘉は肩を揺らした。反射的に視線を逸らす。
 まさかよもやこの話題が呂範の口から出てくるとは、夢にも思っていなかった。随従連中の誰かから聞き出したに違いない。隠し切れぬ動揺が汗となって背を伝う。
 にっこりと―――まるで獲物の首根っこを捕まえたかのごとく、呂範は見るものが見れば不気味で嫌味なくらい完璧な笑顔を浮かべた。

「勅使殿の御身を思い、早速華北へ使いを送りましたゆえ、程なくあちらから沙汰があるでしょうな」

 やはり食えない男だ、と郭嘉は横目で一瞥しながら、はぁと息を吐く。

「私としては別段貴殿に何か思うところなどない。ただ、早くこの東呉から去って欲しい―――これ以上掻き乱されても困りますのでな。よろしければ出立のご準備はこちらで整えさせましょう」
「その必要はない。冬至だ」
「は?」
「すでにもう書簡を許に送ったんだよ。冬至には発つと添えてね。恐らくあんたの使いより先に着く」

 やれやれとばかりに肩を解し、行儀悪く窓際に凭れる。相手が誰であろうが、この際体裁などもうどうでもよかった。
 呂範はしばらく返す言葉を迷っていたようだが、やがて何ともいえぬ曖昧な表情を浮かべた。

「なるほど。もしかしなくとも一歩遅かったというか、あまり意味はなかったということですかね」
「目のつけ所は良かったと思うよ」

 郭嘉は楽しげに目を細め、それから少し伏せがちに瞼を落とした。

「まあ俺も、少し長居しすぎたかなとは思っていたんだ。ここは存外居心地良くてさ。でも潮時だな。―――ただし書状にあった通り、張子鋼殿にはともに来てもらう。あんた達も、いま上意に背いたとして北勢と事を構えるのは得策ではないだろう?」

 郭嘉はすでに長江以南の情勢や、孫家が抱えている課題、さらに兵力等の情報をそこそこ得ている。東呉勢が取るべき最善の道は大体見越していた。

「……その通りですな」
「なぁに、別に取って食おうってわけじゃないし、殿は優秀な人材には寛容な方だ。張子鋼殿の命の保障はする。そのうちこちらへも戻れるだろう」

 元々張紘の話は孫策の反応を見るためだけの口実だったのだ、それ自体は実際重要な問題ではない。ただし勅旨としている以上、蔑ろにだけはさせられない。
 薄く柔らかい笑みを浮かべ、郭嘉は呂範へ言った。

「安心しろよ。帰る前に自分のケツの始末くらいはしていってやるさ」

 その不思議な台詞の真意を呂範が知るのは、もう少し後の事になる。




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