それからの会話は本当に他愛のない世間話や清談だった。
 一区切り話が終わったところで、郭嘉が立ち上がり「厠借りていいか?」と言ったので、丁度茶葉と湯の交換に来た晶に案内を頼む。
 背が室の外に消えると、呂蒙がポツリと口を開いた。

「改めて思いましたけど、本当に変わった方ですよね奉孝殿って」

 実感を込めて息をつく。

「なかなかいませんよ。対立関係にある相手と駆け引き抜きで仲良くするばかりか、自宅謹慎になった人のところまでわざわざ危険を冒して出向く人なんて」
「全くだな」

 周瑜も嘆息しながら微苦笑する。困ったような笑みは、しかし迷惑そうではなかった。

「酔狂としか言えない。でもそんなところが彼の彼たる所以なのだろう。ある程度思考は分かってきたと思っていたんだが、未だに突拍子もない行動に出るところだけは私にも読めない」

 読めないのは、当の本人が何も考えていないからという可能性も充分にあるが。

「……いつかそう遠くない日には、戻っちゃうんですよね」

 呂蒙は、少し躊躇いがちに目線をずらしながら、しかし唇の端に笑みを浮かべ、

「俺、正直ちょっと残念です。奉孝殿は面白いし、それに公瑾殿と対等に渡り合えるくらい頭いいし、何より公瑾殿のことが分かる人だから」
―――……」
「前に、雑談ついでに去年討ち取った江賊の話をしたんです。あの時に公瑾殿が献言した耐えて動かずの作戦は当時多くの幕臣が反対してて、結果を見るまで公瑾殿の意図が分からなかったのに、あの人ちょっと敵味方の情況を聞いただけで、すぐに種が分かっちゃったんです」

 「どうして分かるんですか?」と訊けば、郭嘉は「天才だから」などと冗談か本気か分からぬことを言って笑っていたが、すぐ後に「そんなこと、状況から鑑みたらすぐに分かるよ」と付け加えた。

「その時思ったんですよね。ああ、こういう人が側にいれば公瑾殿のご負担も少しは軽くなるんだろうなって。誤解されることも、矢面に立つこともない」
「子明」
「こんなこと思っちゃ駄目だと分かってはいるんですけど」
「そんなことはない」

 俯く呂蒙へ、周瑜は首を振った。それから頬を綻ばせた。

「ありがとう」
「い、いえ」

 呂蒙は照れを隠すかのように慌てて首を振る。
 周瑜は、瞼を伏せて少し寂しげに呟いた。

「でも……引き止めても駄目なんだ、彼は」
「え?」

 あまりにも小さな声だったせいで、呂蒙は聞き取れずにパチクリと目を瞬いてる。
 しかし周瑜はあえてもう一度言う気はなかった。つまらない独り言だ。
 無駄なのだ。あの男には心を定めた場所がある。どれだけ留まって欲しいと縋ろうと、笑いながらするりと手を抜けて行ってしまうだろう。だから、望んではならぬのだ。

―――…」

 周瑜の沈黙に、呂蒙も何となく気まずくなって口篭った。
 その中に、用を足してすっきりした面持ちの郭嘉が意気揚々と戻ってくる。
 だが室に足を踏み入れて、そこに漂うしんみりした空気に一瞬戸惑う。

「何だよ、二人して辛気臭い顔して。誰かの葬式か?」

 クスリと周瑜が苦笑する。そこにはすでに暗い色は消えていた。

「いいえ、何でもありませんよ」
「そうか?」

 郭嘉は訝りながら、呂蒙へ言を投げた。

「公瑾殿の奥さんも拝めたことだし、日も暮れてきたからそろそろお暇しようか」
「そうですね。早くしないと城門も閉まってしまいますし」

 外を見て、初めて時間に気づき、慌てたように呂蒙が立ち上がる。周瑜も静かに腰を上げた。

「それじゃあな、公瑾殿。こんな時に押しかけて悪かったよ」

 周瑜は「いえ」と首を振った。郭嘉は笠を被りながら、再びは席につくことなく室の入り口に向かう。

「何の礼もできなくて悪い。ご内儀にもよろしくな」
「はい」

 揃って館の回廊を戸口へと向かいながら、ふと郭嘉は足を止めた。雨粒が屋根を叩く音が、やけに大きく響く。
 怪訝そうに振り返る呂蒙へ「悪いけど先に行っててくれ」と言い置いて、斜め後ろについてきていた周瑜を振り返った。

「そうそう。一つ公瑾殿に伝えることがあった」

 唐突な前振りに、周瑜は目を瞬く。

「伝えること?」
「ああ」

 頷き、対面の秀麗な面を見据えて告げる。

「いずれ城から通達が来るだろう。出仕の準備をしておくといい」

 周瑜は短く息を呑んだ。返事することができず、郭嘉を凝視する。
 彼はただ意味深に笑っているだけだった。

「……何か、したんですね」
「さて」

 さらりとはぐらかされる。周瑜が問い詰めようとした時、玄関の方から呂蒙の呼ぶ声が飛んできて、それ以上追求することを封じられる。

「そのうち分かるよ」

 そう言う郭嘉の瞳は、凪いだ湖面のような不思議な輝きを湛えていた。




 雨にけぶる道に、二つの背影が人目を忍ぶように去っていく。
 傘を差しながらずっと見送りながら、周瑜は隣に立つ晶に穏やかに言った。

「そなたにも迷惑をかけて悪かったな」
「いいえ。むしろ私は嬉しかったわ」

 不思議そうに眼差しを注ぐ夫へ、晶は艶やかに笑顔を作った。

「あんなに楽しそうにしている夫君を見られたのは久しぶりでしたもの」

 ここのところ、暗いお顔ばかりだったから。
 想像だにしなかった台詞を聞いて、周瑜は苦笑する。

「そんなに楽しそうだったか?」
「それはもう」

 晶は口元に袖を当ててはっきりと頷いた。

「良いご朋友でいらっしゃるのね」
「……ああ」

 周瑜もふわりと溶けるような微笑みを浮かべて、もう一度だけ道の先を見やった。もう、影は見えない。

「さて、中に入ろうか。今宵の雨は本当に冷えるな」

 気遣うように晶の肩を抱き、門の内へと踵を返した。
 府城から登城の命が届いたのは、その晩のことだった。




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