雨に濡れた三人を見て、玄関口で驚いたように―――しかしその手にはすでに木綿の布を用意しながら―――佇んでいる晶に、周瑜は当たり障りのない言葉を選んで説明した。機転のきく彼女は、納得げに笑み、「すぐにお茶席をご用意いたしますわね」と裳を翻す。

「ひや~それにしても濡れた濡れた。こりゃ乾くまで時間かかるな」

 郭嘉と呂蒙は笠を外し、手渡された布でがしがしと髪を拭っている。
 周瑜も、軽く濡れた衣から露を払った。しかし当惑までは未だ拭えない。

「全く、本当に何をしているんですか。子明、そなたまで……」

 困ったように言う。

「も、申し訳ありません。一応お止めはしたんですが……」

 呂蒙も情けなそうにしゅんと項垂れる。郭嘉があっけらかんと笑った。

「子明殿を責めてやるな。彼は悪くないよ。俺が無理に頼んだんだ」
「そうだろうと思いましたけど」

 ため息混じりに周瑜は言う。眉間に寄った皺を指先で揉む。本当に、この男は予想もしないことを平気でしてくれる。

「一体、何をしに来たんです」
「それは……あ」

 ふと声を上げて郭嘉が目を向けた先を追うと、丁度晶が家人とともに来ているところだった。
 周瑜と客人に向けて、嫣然と微笑む。

「夫君、お部屋のご用意ができましたわ」
「ああ。ありがとう」

 家人に拭き布を任せ、周瑜は二人を誘う。
 晶は気をきかせて、茶器や菓子などを揃えると自分を含めて家人を下がらせる。室を出る時に視線が合った彼女は、どこか安堵したような、喜ぶような目をしていた。それだけで、自分がどれほど彼女に心配をかけていたか分かり、己の不甲斐なさに周瑜は少しだけ情けないような気持ちになる。

「ふーん、なるほどね。あれが公瑾殿のご内儀で、世に名高い二喬の妹君か」

 肩越しに耳元で呟かれ、周瑜はギョッと振り返った。
 郭嘉は顎を撫でながら、

「初めてお目にかかったけど、まさしく華の(かんばせ)だな」

 ニヤニヤと笑って夫たる周瑜の反応を窺っている。嫌な笑みだ。周瑜は軽く睨み返した。

「ですよね。俺も初めてお目にかかった時は、本当目を奪われちゃって……」

 横で呂蒙が勢い込んで賛同を示し、何かを思い出して恍惚と嘆息する。

「婚礼の儀の時に並び立つ公瑾殿と奥方君のお姿は、本当に対の芸術品みたいで、それはもう見ているだけで天に上るような心地でしたよ」
「そんな大袈裟な」

 戸惑い、困ったように周瑜は眉尻を下げた。珍しく頬に若干赤みが差しているのは、照れているのか。
 郭嘉も軽く腕を組みうんうんと頷いている。

「あーそれ分かるよ。ただでさえ絶世の美男美女。横に並んで遜色ないのはお互いくらいだろ」
「貴方までやめて下さい」

 周瑜の双眸が郭嘉を見ていよいよ困色を深める。

「あーあ、でも既婚なんてもったいないなぁ。あんな別嬪そういないのに。もしこれが城の女官とかだったら」
「……手を出したらただじゃおきませんよ?」

 急にドスの利いた声音でそう釘を差す。郭嘉はおどけた笑みで「安心しろよ」と両手を挙げた。

「人妻には手を出さない主義なんでね」
「……」
「何だよお前らその目。信用してないな?」

 二対の胡乱気な眼差しに貫かれ、郭嘉は居心地悪そうに半眼となる。

「一応『それを聞いて安心しました』と言っておきましょう」
「引っかかる物言いだなぁ。まあでも、あれだけの美女なら人妻でもちょっとくらい―――ってウソウソ、冗談だから落ち着け」

 壁の飾り剣を掴んだ周瑜に、郭嘉は頬を引きつらせ大仰に両手を振った。
 周瑜は苦々しく息をついて、目を瞑る。晶には、郭嘉にあんまり近づかないよう後で言い含めておこう。
 随分な扱いをされていることを知ってか知らずか、郭嘉はすでに興味の対象を変え、菓子と香り高い茶をそれぞれ口に含んで幸せそうに頬を染めている。案外花より饅頭な性格なのかもしれない。

「間違ってるぞ、俺は花も愛でるし同じくらい饅頭も美味しく味わうんだ」

 はっとした。咄嗟に唇に手をやる。今声に出ていただろうか。
 そうでないことは、ぱちくりと郭嘉を見ている呂蒙の様子から知れた。
 唖然としている周瑜に、郭嘉は頬杖をついてフフンと笑った。

「なになに、何の話ですか?」

 一人置いてけぼりの呂蒙が双方を見比べて焦っている。周瑜は一度呂蒙に苦笑してみせ、それから視線を戻した。

「よく分かりましたね」
「顔に書いてあった」
「まさか」

 周瑜は己の頬に触る。普段人からは何を考えているのか分からないと言われるし、感情が面に出にくい性質だという自覚もある。むしろ最近では出にくいというより出せないのかもしれない、と思う。

「うーん、俺はよく分かんなかったや。というか公瑾殿の表情を読むなんて至難の技ですよ」

 小首を傾げる呂蒙。郭嘉はまた一つ菓子を口に放り込みながら言った。

「そうか? 確かに公瑾殿は読みづらいほうだけど、慣れればそれなりに分かるよ」
「そ……そんな簡単なものですか?」
「顔には出ないけどさ、公瑾殿って口よりも目が雄弁って性質だから」
「目かぁ。でも俺はそれでもきっと分からないなぁ」

 郭嘉の話に呂蒙は興味津々の様相だ。

「コツがあるんだよ」
「コツ……ちょっと知りたい気も」
「子明」

 本人の前で延々と繰り広げられそうな取り扱い説明に、周瑜は静かに制止の手を入れた。しまった、と慌てて呂蒙が口を噤む。

「何だいいじゃないか」

 郭嘉が飄然と抗議する。良くない、と周瑜は思った。

「話が逸れてます。それよりも、何でまた二人してこんな所へ?」
「あ、そういやそうだったな。あまりに茶が美味くて忘れてた」

 男は今更のようにぽんと掌を打つ。随分と暢気なものだ。
 呂蒙が後を引き継いで仔細を説明し始めた。

「それが、いきなり俺のこと呼び出したかと思ったら、いきなり『公瑾殿の(やしき)に行きたいからこっそり案内しろ』って言われたんですよ。今城内がピリピリしてるし、万一バレたらヤバすぎるんで駄目ですって言ったんですけど、全然聞いてくれなくて」

 果ては「案内してくれないなら子明殿もグルだって言いふらしてやる」と脅しをかけられ、泣く泣く付き合わされた次第であった。俺今日非番だったのに!と呂蒙がどこかズレた訴えを付け加える。

「まぁまぁ。どのみち俺一人じゃ宮外には出られないし、衛兵に疑われず門を通れて、なおかつ頼みを引き受けてくれそうな信用できる奴って子明殿しか思い浮かばなかったんだよ」

 郭嘉の取った作戦は何の捻りもない、ただの変装である。人目もあるし、呂蒙とて郭嘉を連れて堂々と宮門を通ることはできないだろう。
 宮城を出る時は郭嘉を「薬師の使い」ということにした。多少怪しくとも、呂蒙がいれば門兵が疑うことはないというのが、郭嘉の読みだった。案の定すんなり出られた所で、周瑜の政敵の監視を警戒して呂蒙も変装し、ここまでやってきたのである。
 周瑜は聞いているだけで呆れてきた。

「帰りはどうする気です」
「へーきへーき、『勅使付きの薬師』ってことにしてもらってるから。薬草のお使いです~って言ってもらったから帰りも同じ方法でいける。何と言っても呂子明殿の『顔』効果は偉大だ。さすがこの俺が見込んだ男。この目に狂いはなかった」
「えっ、えへへそれ程でも」

 照れて後ろ頭を掻く呂蒙に周瑜はすかさず言った。

「気をつけろ子明。あんなこと言っておだてて次も利用する気だ」

 呂蒙がはっと我に変える。郭嘉は「あーあ」と周瑜に半目を向けた。

「言うなよ」
「言うに決まってるでしょう」
「危なかった……」

 呂蒙が胸に手を当てている。ちぇ、と郭嘉は唇を尖らせた。

「それで?」
「んー?」
「ここに来た肝心の理由ですよ。何か用があったんですか?」
「ああ」

 郭嘉は軽く中空を見上げた。

「特にない」
「え」
「え!?」

 周瑜ばかりか呂蒙まで驚いて頬を引きつらせている。当然だろう。まさか何の用もないのにわざわざこんなことまでさせられたのかと思うとやってられない。しかも非番を潰してまで。
 郭嘉は宥めるように微笑んだ。

「自宅謹慎くらってくさくさしてるだろう公瑾殿の顔を見に来ただけ」
「……誰もくさくさなんてしてませんよ」
「どーだかね」

 郭嘉は肩を竦めて見せる。本当に嫌な男だ、と周瑜は少々面白くない気持ちになった。

「まあ実際のところ、ちょっと外で買い物もあったし」
「買い物?」
「ええ、ここに来る前に市に寄りたいと言われて」

 眉を顰める周瑜に、呂蒙が説明を補足した。どうやら背に背負っていた笥籠(かご)に、変装前の衣服と市で買い求めた品が入っているらしい。

「おかげで雨の中あっち行ったりこっち行ったりで大変でした」

 呂蒙がため息混じりに目を伏せる。疲弊した様子を見る限り、相当振り回されたのだろう。

「当然だろ。こちらとらせっかく遠路はるばる江東まで来たんだぞ。土産の一つでも買って帰らないと針の筵だよ」

 それで話は終わりとばかりに、郭嘉は茶杯を掲げた。周瑜は釈然としない表情で、窺うようにその顔を見ている。

「いいじゃないか、用がなくったってさ。ここなら野暮な出歯亀(のぞき)もいない。気楽に世間話としけこもう」

 独特の調子でそう言われると、周瑜も何となく流されて「ええ」と答えてしまうのだった。




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