「奉孝」

 回廊の中途、静かに歩んでいた深藍の衣の前に周瑜が柱影から進み出た。
 その姿を認めて、一瞬緊張した郭嘉の頬から力が抜ける。

「公瑾殿か」

 顎を引いて、参ったな、と自分の首の後ろに手をやる。

「誰かに見られたら、また事だぞ」
「大丈夫です。今ここには誰もいない。姪琳も見張っていてくれています」

 周瑜は淡く微笑ってから、袂口を合わせ、拱手した。

「ありがとうございました」
「礼を言われるほどのことをした覚えはないよ」

 郭嘉は瞼を伏せた。達観にも似た、つかみ所の無い笑みを刷く。

「感謝するなら討逆殿の運の強さにだな。彼とは事前に示し合わせていたわけじゃないから、あそこで討逆殿がちゃんと察するかどうかは正直賭けだった」

 郭嘉には立場上表立って波を鎮めることはできない。しかしだからといって自分にも一因がある以上、看過するのもいささか忍びない。だから郭嘉は孫策に手を貸そうと言った。一度だけ機会を作ってやると。ただしそこで運を掴み取れるか否かは孫策次第。賭けは、どう転んでも結果的に郭嘉ら許昌の人間の害にならない内容だ。どちらにも義を立てるにはあれしかなかった。
 だが孫策は見事運を勝ち取ってみせた。周瑜なら必ず気づいて何かしらの妨害行動に出ると信じていたし、孫策も決して察しが悪いわけではないと踏んだからこその手段だったが、あの返答を聞いて実は郭嘉も少しだけホッとした。

「弁護も釈明もしない。その代わり自分の後始末はつける。これが俺なりのけじめのつけ方だ」
「充分です。機会をもらえただけでも。おかげで私への疑いも晴れました」
「完全じゃないけどな」

 嘆息交じりに郭嘉は言った。東呉を窮地に追い込もうとした郭嘉と、それを何とか回避させようとした周瑜の、舌戦とも言うべきやり取りは、周瑜に疑惑を抱いていた官吏たちに向けた一種の演出だった。ひとまずあそこで二人の仲が噂どおりの親密さではないこと、そして周瑜の忠心は印象づけられたはずだ。疑いを完全に拭い去るには今一歩物足りないが、単に噂に惑わされ、漠然と不安を感じていた官吏などには、ある程度効を奏しただろう。

「しかし結果的に貴方も迷惑を受けることになったのでは」
「いいよ。侯位だって別に口からでまかせじゃないし」
「え?」

 言外にどういうことかと問われ、北の策士は肩を竦めてみせた。

「元々は最初に持ってきた討逆将軍位の詔勅と同時に、呉侯に封爵される予定だったんだ。今からでも俺が言えば許都から別途詔書が届くよ。ただ今回の江東行きに際して、何かあった時のための切り札にとっておきたかったから、殿に頼んで詔勅を分けて封爵を留めてもらっていたのさ。その切り札をまさかこんな形で使うことになるなんてな」

 呆然とした周瑜の顔を目にして、郭嘉はちょっと気まずそうに目を眇めた。

「がっかりしたか?」
「いえ……」

 むしろ天下の侯爵位さえも己の駆引きの道具とみなす郭嘉の豪胆さに呆れていた。だが考えてみれば、十二等爵の制度は今や殆どその権威を失った代物でもある。さしたる抵抗はないのだろう。
 周瑜は冗談交じりに探りを入れた。

「随分周到なので吃驚しました。初めからこのことを見越していたのではないのですか? 世間では貴方のことを預言者か何かのように言う人もいらっしゃるようですし」
「おいおい、俺をそこらの怪しげな道士と一緒にするなよ」

 そう苦笑し、肩を竦めてみせた。

「俺のはただの用心さ。考えうる先の事に対策を立てるのが得意だというだけに過ぎない。でも世の中の預言者やら巫師って類の奴らだって、案外そういうものなんじゃないか? 人よりも少しだけ、起こり得る未来を読むのに長けているだけで」

 そう言われてみると妙に納得してしまう。そうかもしれませんけど、と周瑜は曖昧に返す。

「それはそうと」

 唐突に郭嘉が思いついたように、表情を切り替えて明るくした。

「丁度良かった。公瑾殿に渡すものがあったんだ」

 言うなり、おもむろにその鬢に刺していた笄を抜き取る。
 長い柄が日にキラリと煌いた。それを懐から取り出した上質の手巾に丁寧に包む。

「いつ会えるか分からないからな、挿してきておいて正解だった。こんな渡し方ですまないが」
(こうがい)?」

 郭嘉の手から受け取った周瑜は、それを見て顔を上げた。目前の男の顔を驚きとともに見返す。

「これを私に、ですか?」
「そ」

 郭嘉は頷く。

「俺の気に入りのやつでな。本当は新品をと思ったんだけど、いいのが見つからなかったから。良くしてくれた礼と、今回の侘びだ」
「侘びだなどと」

 周瑜は戸惑いながら絹の手巾の中の笄に目を落した。銀作りのそれは、素材の質自体は並で装飾も控えめだが、繊細で技巧を凝らした彫刻が緻密に施されている。それは江東では見たことのない珍しい銀細工で、それなりに金銀宝玉を見てきた周瑜にも目新しい。趣味の良さが表れている美しい品だった。

「名門周家の御曹司には不釣合いな安物で悪いな」
「そのようなことはありません」

 周瑜は造形を指先で撫でる。透かし彫りで空洞にした葉の中に丸い珊瑚を磨いた実が入っており、蔓の部分が柄に文様を描いて絡まっている。

「私もそれほど目利きではないですが、この細工が相当素晴らしいものだということは分かります」
「さすが公瑾殿。そう、素材は安価だが、細工はちょっとした代物なんだ。太原のある所でしか伝わってない特殊な技法でな、昔郭の家で旅の細工師を泊めた時、礼にってくれたらしい。俺の―――伯父がくれたものだから、古物なんだけど」
「伯父上が? それでは大切なものじゃないですか」
「いいんだよ」

 顔を上げ返そうとした周瑜の手を、郭嘉はやんわりと押し留めた。
 それでも躊躇する周瑜に、「ほら」と笄のある箇所を指す。よく目を凝らすと、飾りに隠れるように小さく文字が刻まれていた。こちらは素人手でやったのだろう、荒削りだったが、はっきり読める。

 『嘉致瑜』
 ―――嘉より瑜へ。

「もう彫ってしまったから、返されると少々気まずい」

 含み笑う郭嘉の様子からすると、最初から周瑜の固辞を想定していたのだろう。

「貰っといてくれる? 礼と侘びと、友情の証として」

 周瑜は一拍ほどで逡巡を捨て、ゆっくりと微笑を結んだ。「それでは頂戴します」と柔らかに応える。

「ありがとうございます」
「どういたしまして」 

 郭嘉もにっこりと喜色を浮かべ、重ねて告げた。

「もう一つ、言っておかなきゃならないことがあるんだ」
「何ですか?」
「冬至に、ここを去ろうと思う」

 一瞬、周瑜は何を言われたのか分からなかった。それほどまでに郭嘉の口調は軽く、あまりに穏やかだったのだ。
 見張った双眸が、依然微笑を湛えたままの男の面に釘付けとなった。半ば茫然と聞き返す。

「それは……許昌に戻られるということですね」
「ああ」

 郭嘉は一度瞳を伏せる。
 掌に握り絞めた金属が、冷たく、重い。どう答えていいか周瑜には分からなかった。喉まで上った思いが、舌の上で形を成す前に溶け消える。何を言いたかったのか、何を言うべきなのか、不思議なくらい言葉が出てこない。ずっと覚悟していていながら、いざここに来て動揺している自分に気づいた。
 いつかはその時が来るとは最初から分かっていたのに。
 郭嘉はそんな彼を、返答を待つのでもなくただ静かに見つめていた。公瑾殿は本当に目が饒舌だな、と心のうちで可笑しさを噛み殺す。同時に、そこまで心を動じてくれることがひどく嬉しかった。

「随分性急ですね」

 ようやく出てきたのは、周瑜自身呆れるほど間の抜けた台詞だった。言いたいのはこれではないのに。意思とは裏腹に、勝手に唇が動く。

「せめて年明けまで待たれては? この時期では、さすがに長江支流も凍って遡上できないでしょう。陸路だって北に行けば行くほど雪に閉ざされているでしょうし」
「いいや、もう許都にその旨を送ってしまったんでな。延期はするつもりないよ」

 僅かな希望を載せた提案にも、郭嘉は首を振る。
 周瑜は微かに覚えた違和感を、そのまま言葉にする。

「貴方にしては珍しいくらい無理な計画ですね。まるで……」
「慌てて逃げ帰るみたい、か?」

 ちょっと郭嘉が笑った。悪戯好きそうな光が黒眸に宿る。先をとられ、周瑜は口を噤んだ。

「それも当たってる。ていうかズバリ大当たり。このままいると怖いからさ」

 心地良い場所と人間に、どんどん情が根ざして、断ち切れなくなりそうで。
 しかしその囁きは空気に溶け、周瑜には聞こえなかった。

―――
「公瑾様、人が」

 なお問いかけた周瑜を遮るように、どこからともなく姪琳の注意が降ってきた。
 ハッとして周囲を窺う。まだ姿は見えないが、誰かが近づいているのは間違いなかった。

「……それじゃ、俺はこれで」

 郭嘉が軽く手を合わせ、周瑜の横を通り過ぎる。視界の隅に深い藍色の袍が翻った。

「待って下さい」

 衝動的に角に消えた背を追って、周瑜も回廊を曲がる。
 郭嘉が不思議そうに振り返った。

「もし―――本当に」
「中護軍殿。人が来る」

 郭嘉はゆるりと首を横に振って、唇に指を当てる素振りをした。それから小さく笑い、再び背を向ける。もう振り返ることはなかった。
 やがて背後から追いついたらしい官吏の一人が「周瑜殿?」と話しかけてきたが、周瑜は回廊の先を見据えたまま、じっと動かなかった。
 問いかけは、言葉半ばで空中に消えた。
 手の中に残ったのは、体温によって暖められた銀の感触だけであった。




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