あれ以来の数日間、周瑜が郭嘉と顔を合わせることはなかった。一時的に世話役を別の者に代理させ、周瑜自身は郭嘉を訪わない。それはようやく沈静化した噂の火種を警戒してのこともあったし、謹慎中に滞っていた仕事の処理に忙殺されていたこともあるが、それらを口実にして意識的に使者の室に訪なうのを避けている部分もあった。

 ―――冬至には帰る。

 あの言葉が、思いの他臓腑に重く圧し掛かってくる。
 己の性格ならば割り切れると信じていたのだが、案外分からぬものだと自嘲する。
 だがこの日は執務の調子も大分元に戻り、ゆとりができたので、思い切って足の遠のいていた回廊につま先を向けることにした。
 このままズルズルと最後の日まで会わぬままでいれば、後できっと後悔すると思い直したからだった。冬至を避けることはできない。ならば、できるだけ多くの時間を共有する方がずっと建設的だ。
 室の前に立ち、一つ呼吸をしてから、声を掛ける。

「どうぞー」

 相変わらずののんびりとした声音が応じて、周瑜は少しだけホッとした。

「失礼します」
「よう」

 障風の向こうで、郭嘉は卓に向かって何かを書き記していた手を止め、顔を上げた。泰然と笑みを浮かべ、片手を軽く上げる。よほど集中していたのか、その鼻頭に墨の汚れがついている。見とめて、周瑜は思わず噴き出した。
 指摘された郭嘉が、参ったとばかりに眉を下げる。

「あちゃー、こいつはいかんな」

 寸分の躊躇もなく袖でごしごしと拭う。折角の上等な絹の袍が台無しだというのに、それは構わないらしい。

「お忙しいようなら時を改めましょうか」
「いや、いいんだ。そろそろ一息つこうと思っていたところだし」

 郭嘉はそう言いながら背を伸ばした。それから肩や首を回す。関節がパキパキ鳴った。
 筆を置いて、卓の前から立ち上がった。

「久しぶりだな。といっても6日くらいか?」
「そうなります。なかなか溜まっていた仕事が片付かなかったのですが、こちらもようやくひと段落ついたので」
「七日分だもんなぁ。それは大変だっただろう。にしても良かった。てっきり、公瑾殿に避けられてるんじゃないかって心配していたから」

 周瑜はドキリとする。この男、実は分かってて言ってるんじゃないだろうか、と思わず勘繰った。

「冗談はともかくとして、本当に大丈夫か」

 室内に誘われる中で問われて、周瑜は微笑み返す。声音にいつになく真摯な響きが混じっていたからだ。
 円座にゆったりと腰を落ち着けてから

「私は元々貴方の世話を仰せつかっている身ですよ。世話係が使者殿のご機嫌伺いに訪れて、何の不自然なことがありましょうか」

 堂々と言ってのけたのだから、郭嘉も呆れ果てた。

「また一皮剥けたというか……むしろ分厚い一枚から脱皮したって勢いの開き直りっぷり」
「失礼な、まるで人を蛇か蛾のように」
「お、それ言い得ているんじゃないか? ホラ蛾なんて、綺麗なやつは本当蝶と見分けがつかないもんな。しかし見た目は美しくとも、実際は蝶と似て非なる毒粉を放ったりもするし」

 周瑜はにこりと背筋を冷たくする微笑を刻んだ。

「毒を吐いて欲しいですか?」
「いや、遠慮しときます」

 むしろすでに吐いてるし……と郭嘉は心の中だけでそっと呟く。

「それで、本日のご用向きは?」
「特にありません」
「え」

 言ってしまってから、あ、と声を上げる。気まずそうな半眼になった。

「お返しかよ」
「然り」

 してやったりと笑いながら、おもむろに「お手を拝借」と郭嘉の右手を取ると掌を仰向けにした。
 そこに懐から出した平たいものを乗せる。

「はい、お返し(・・・)です」

 郭嘉はきょとんと掌の上に乗せられているものを見下ろした。
 柔らかな陽光の中で、透きとおった翠を揺らめかせる。美しい玉の環だった。

「ええっと、これって」

 予想はついていたが、一応訊いてみる。

「だから、お返しです」

 あくまで繰り返される同じ言葉。郭嘉の表情に困惑めいた色が広がる。

「そんな気を遣わなくても良かったのに」
「そういうつもりじゃないですよ。貴方が仰ったのでしょう。侘びと礼と証だと」

 周瑜は玉環に目線を向け、静かに続けた。

「これは私が生まれる時に、両親が守りとしてくれたものです。私の名字も、この玉に因って名づけられました」

 名の「瑜」と字に使われている「瑾」の来源。「瑾瑜、美玉なり」―――それは、美しい玉を意味する漢字だった。古来玉には魔除けの力があると信じられている。だから埋葬の時にも、屍魂が鬼に食われぬよう、死者に玉環を身につけさせるのが習わしだ。周瑜の両親はその逆に、嬰児が無事に生まれてくるお守りとして拵えた。わが子の魂が持っていかれぬようにと、願いを込めて。母は出産の時にそれをずっと握っており、周瑜が生まれてからは、赤子だった彼の手に握らせていたのだと、周瑜は長じてのちに話して聞かされた。

「げっ、そんな大事なもん気軽に人にくれてやるなよ!」

 両親の愛情に深く感じ入っていた郭嘉は、はたとして硬直した。この玉に込められた意味を思えば、到底軽々しく貰えるものではない。

「これは親御殿の思いの証で、公瑾殿が一生肌身離さず持っているべきものだろう」
「いいんです。私はもう十分己の身を自分で守れますし、親の願いも胸の裡にちゃんと宿していますから。これは私が持っていても最早ただの"(ぬけがら)"以外の何ものでもない。けれど私以外の誰かが持つならば、そこには再び"思い"が宿るのではないかと思うんです」
「簡単に言うよなぁ。それならせめて討逆殿にあげたらいいのに」
「もう無理です」

 はっきりとした即答に、郭嘉は含意を悟って思わず額を覆った。ため息とともに、

「もしやとは思ったけど。思い切ったことするよな」
「貴方から教わったやり方ですよ。先手必勝というね」

 周瑜は環の内側面を撫でる。そこに彫られた凹部は、傍目には影になって見えない。

「伯符様に対しては今更改めて物で証を立てる必要ない。私の全てを捧げていますから」

 言い切った周瑜の端整な面を、郭嘉は半ば呆けたように見つめた。素面で惚気てら、とぼやく。

「近くにいるかぎり、物はそれほど重要ではありません。けれど遠くへ離れるのならば、それが意味をなすこともある。ただ眠らせておくよりは、その方がこれにとってもいいと思ったんです。貴方もそうなのではないですか?」

 郭嘉は虚を突かれたように瞼を瞬く。言われてみれば、周瑜に笄を渡したのもそれに近い感覚だったかもしれない。大切なものだからこそ、自分ではない誰かに持っていてほしいと。
 無意識に卓の片隅に置く刀に目が行く。
 遠く離れれば"形"が生きる。確かに道理だ、と胸中で苦笑げな呟きを零す。

「何と言っても銀と違って玉は刻むのが大変なんです。その労力をふいにすることなど、勿論しませんよね」

 嫣然と唇を上げての追い討ちに、

「…その気持ちごと、謹んで頂戴しましょう」

 しょうがない、とばかりに郭嘉も朗笑し、恭しく捧げ持つ。
 ひんやりとして上質の玉の滑らかな手触りを楽しみながら懐に締まった。
 その瞬間だった、扉が音を立てて開いたのは。




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