周瑜は手綱を繰り、城を迂回するようにして街を出ると、馬の腹を強く蹴った。愛馬が鬣を逆立て嘶き、地を蹴る。
 律動と脈動を感じながら、どんどん調子を飛ばしていく。後ろから二つの蹄の音がくっついてくる。自分と、後続するうちの片方は屈強に鍛えられた軍人だからいいとして、残る一人は軍中で行動してはいてもあまり丈夫な性質ではない。彼の体調を配慮して、我武者羅な早駆けはせぬよう制限しながら、速度を上げていった。
 やがて辿りついたのは、郊外に向かって四半刻ほどの所。冬季でも緑が落ちずに生い茂るこの場所は、何の変哲もないためわざわざ訪れる人も少ないが、風の通りが心地よく、周瑜が好んで息抜きに来る穴場だった。

「おー、いい見晴らし」

 馬を降り、木に繋いだ郭嘉は、岬状になった先の方に立ち、額のあたりに手を翳した。瞳を細めて眺めている。
 近場を選んだため山というよりは小ぶりの丘陵だったが、城街内であれば充分に展望できるだけの高度はあった。
 風が戦ぎ、髪を浚って衣を揺らす。
 郭嘉はしばらくそのまま気持ちよさそうに風を感じていた。少し離れて斜め後ろに周瑜は佇む。呂蒙は二人より距離をおき、馬をつないだ木の側で二人の様子を見守っていた。
 大気に混じって冬の匂いがした。どこか侘しい、けれど郷愁を誘う香り。今更ながら周瑜は季節の移ろいを感じた。

「俺さぁ」

 つと郭嘉が口を開いた。周瑜が静かに瞬きをして視線を向ける。

「死んだら、この身体を燃やしてもらおうと思っているんだ」
「え?」

 唐突に始まった話は、取りとめもなく突拍子な内容だった。
 聞き手の戸惑いを気にする風もなく、郭嘉はひたと風景を見つめたまま続ける。口許はほのかに笑みを引いていた。

「西の天竺で流行っているっていう浮図では、死んだらみな遺体は火で葬送するんだそうだよ」

 中原江東問わず、この東の大陸では、死んだ者は棺に入れ土葬するのが習わしである。火葬は一般的ではなく、流行り病などにあった時に敢行されるくらいだった。死後の世界が重視される風習の中、身体を燃やしてしまうのは信じがたい発想である。もちろん、死後に第二の世界が本当にあるかないかなど知れないが、古来よりの仕来たりは固定観念となり、そう簡単に外来の異文化―――それも異質なる信仰である―――を受容させない。
 けれども郭嘉は、あえてそこを曲げるのだという。

「燃やされた後、その灰を風に撒いてもらいたい。冷たい石の中でただ朽ち果てるよりずっといい。炎に清められ、大気に乗って、或いは河や海に落ちて雨に、或いは土に溶けて草木の糧となる。そうして五行天地を巡るんだ。死後の世なんてどうでもいい。俺にとって今生きているこの世が一番意味があるから」

 ともすれば吹く風に溶けて消えてしまいそうな心地よい声が、歌うように周瑜の鼓膜を響かせる。
 どこまで本気か分からない、飄々とした口調。けれどその中にある僅かな芯が、心からの望みなのだと気づかせる。

「変わってますね」
「やっぱそうかな」
「理解はできますけど」

 周瑜は想像する。風に乗った魂が、色んな所を巡り、あらゆる場所に宿って、この世の中を見守る。悪くない。
 フフ、と郭嘉は含み笑った。その様子を一瞥して、周瑜の瞳が眇められる。

「それで、いつになったら話す気ですか」
「ん?」
「惚けるのはなしですよ」
「……あーあ、さすがに誤魔化されちゃくれないか」

 ちぇっと唇を尖らせている。煙に巻いてうやむやにしようという魂胆だったらしい。甘いというものだ。
 笑みを収め、茫洋とした相貌で郭嘉が言を紡ぐ。

「俺の事は調べただろ」
「……」
「なら知ってるよな。途中の経歴がスッポリ抜けていたはずだ」

 周瑜は沈黙を答えに替えた。
 郭嘉の指摘は、確かにその通りだったから。彼が江東に来る前、周瑜は手の者を使って、徹底的に彼のことを調べさせていた。すると、仰々しいまでに華やかな功績が連なる反面で、彼にはひどく謎も多かった。生まれ育った地などは判明しており、許昌に遊学していた記録もあったが、家族を失くした時期を境に、その足取りがぱったりと途絶えているのである。次に彼が姿を現したのは二五歳、その時にはすでに妻子と共に潁川陽翟の邸にいた。曹操に推挙されたのはその一年後だ。それ以後のことは誰もが知るところである。
 故郷に戻ってくるまで空白の期間、一体どこで何をしていたのか、誰も知らない。どれだけ探らせても手掛かりは全く出て来なかった。

―――まさか」

 郭嘉が脈絡もなくこんな謎かけめいた話題を出すわけがない。
 しかし、脳裏にふと閃いた可能性は、信じるにはあまりに現実味がなく、だからこそ周瑜は「まさか」と呟いたのだった。

「どっこい、そのまさかなんだな」

 果たして、郭嘉はあっさり肯いてみせた。冷たい冬の風が色の薄い前髪を掬い散らす。

「ひと時、侠客連中と付き合いがあったのは確かだよ」
「けれど、この呉の地で?」
「俺も相当色んな所フラフラしてたし」

 確答を避けて曖昧にはぐらかす。詳しく語らぬということは、言いづらいことなのだろうか。
 眩しさを堪える風に、双眸を細める。

「どうしても確かめたいことがあってな。今日でないと駄目だったんだ」

 半身を返し、陽光に半分照らされながら郭嘉は微笑む。謎めいた色味を浮かべる眼は、どのような用事かは聞いてくれるなよと暗に釘を刺していた。

「念のために言っておくが、あそこを強制捜査しても無駄だよ」
「……」

 ハッタリではないだろう。抜かりのない男のことだから、恐らく繋がりを辿られないように手を打った上で言っているのに違いなかった。
 郭嘉は不意に少し視線を斜め下の地面に落とし、数拍待って、すっと表情を改めた。
 両の瞳が再び周瑜を見据えた時、そこには笑みを湛えた友人の顔はなく、冴え冴えと研ぎ澄まされた面だった。鋭い輝きを放ちながらも静寂を湛えた双眸は、夜闇の湖を思わせた。
 その唇が、ゆっくりと謡うように音を紡ぐ。

「孫伯符は江東を併合してまだ間もない。おまけにその手にかけたのはみな英雄豪傑で、よく人に死力を尽くさせ得る者ばかりだった。けれども彼はそのことを深く考えずに常に無防備でいる。これではたとえ百万の軍勢を持っていようとも、野原の只中を一人行くのと同じだ。 もし刺客が突然襲ったとしても、一人のみで充分事は成せる。俺が見るに、孫伯符は必ずや匹夫の手にかかって命を落とすだろう」

 周瑜の面持ちが瞬時に強張った。
 先に死んだら燃やして欲しいのだと語ったのと同じものであるはずだというのに、響く声は冷厳として、言は空気を鋭く切り裂いた。飄然として掴みどころなく、どこかおどけた調子を持つ人物は、そこにはいない。ただひたすら、鮮烈に閃く眼光だけが真っ直ぐ射抜く。

―――許に戻ったら、俺は殿にそう進言するつもりだ」

 あまりに不吉な『予言』。
 それまで黙って傍観者に徹しながら聞いていた呂蒙は硬直していた。その胸中は様々な感情で綯交ぜになり、一体自分が怒っているのか困惑しているのかも分からなかった。拳を握るも、喉は凍りつき、二本足は金縛りにあったようにその場から動けずにいた。それは、己の前に立つ上司の表情を垣間見てしまったからかもしれなかった。それは呂蒙の予想を遥かに超えたものだったから。
 周瑜は、一度驚愕に慄いたかと思えば、ゆっくりと、まるで痛みを堪えるかのように歯噛みした。白皙の眼元に濃い苦悶の影が落ちる。逸らされた瞳は悲壮な色を帯び、切なげに揺れていた。「なぜ」と絞り出す声の音には非難も憤怒もなく、ただただ深い困惑だけがあった。
 郭嘉も同じように目線を斜め下に逸らし、ここへ来てようやくほろ苦い微笑を口許に刷いた。

「俺もまだまだ甘いってことだな」

 呂蒙には話が繋がらなかったが、周瑜には分かったらしい。
 郭嘉は言う。

「でもな公瑾殿。俺は、人には多少そんな甘さがあったっていいんじゃないかとも思うんだ。俺達のような策を弄し兵を用いる軍師でもな。でなければ味気ないとは思わないか?」

 これは単なる正当化かもな、と自嘲して伏せがちだった頤を上げる。
 風の中、昇りかけの陽の光に晒されるその面は、何かを諦観したように清々しかった。

「変わらぬものは変わらない。俺も変える気はない。でも……思いが強ければ、変えられるものもあるかもしれないな」

 ふわりと相好を崩す。
 静謐を湛え見つめ返す周瑜は無言だった。最後まで、何も言わなかった。けれど逸らさず注がれた眼差しには、形容できぬ悲しみと葛藤が籠っているようでもあった。
 彼らを包んだ静寂を、唯一の目撃者であり部外者の呂蒙にはどう言葉に表わして良いのか分からなかった。
 ただこの時脳裏に刻まれた郭嘉の言葉を、あるいは二人の天才の間になされた謎めいたやりとりの意味を呂蒙が知るのは、その日太陽の南天と共に郭嘉が許都へ経ち、程なくしてからのことだった。




 ガタガタと振動激しく座りの悪い中、開けた窓から過ぎてゆく景色を郭嘉は眺めた。すぐさま外の随従から「危うございますから」と問答無用で閉じられてしまう。
 郭嘉が無断で不在になったことを根に持っているのか、随身らの自分に対する態度は硬い。やれやれ、と郭嘉はバッタリ閉められた蔀戸を前に肩を竦めた。それでなくとも好き勝手しすぎていたのだから彼らの堪忍袋の緒が切れるのも無理はない。自覚はあるが反省はしていなかったりする。
 思い返せば、長いようで短いような日々だった。
 初めて訪れた時は草木が秋色に染まるよりも前だった。あの時の木々は、今では彩りを終え、あるものはすっかり葉を落としている。
 その時のことを、郭嘉は今でも鮮やかに思い出せる。

(ぎりぎり、逃げられたかな)

 ぽつりと心の中で零し、声もなく一人含み笑う。
 危なかった。もう少し長居していれば、心が揺らぎかねなかった。もう少し留まっていたいと。冷たくも熱くもなれる、心に美しい揺らぎを持つかの天才と、あの心地良い空間で心行くまで語らい合いたいと―――「絆されるな」と忠告されたのに。
 もちろんどれだけ絆されようと、郭嘉は東呉の人間にはならない。決して曹操を、荀彧達を裏切ることだけはない。それだけは絶対だ。
 ただ、踏みきれなくなる可能性はあった。
 何せ、つい余計な『警告』までしてしまったのだから。

 思えば、奇妙な縁だ。
 周瑜はきっと覚えてはいまい。年若い日の周瑜が孫策と共に曹操へ書簡を届けに行ったというあの時。二人と郭嘉は、実はほんの一瞬だけ、見えていた。
 道中、彼らは一度賊に遭い拘束されたはずだ。
 そこでまき上げた書簡を目にしたのは、他でもなく郭嘉自身だ。
 金目のものは殆どなかった彼らは、軍属であったとはいえ、まだほんの子供だった。若者は国の未来、子どもに関しては手をかけてはならぬというのが信条であったし、彼らの『お使い』は自分たちに直接関係しないものであったから、二人を解放したのである。

(そうか。結局公瑾殿たちは間に合わなかったんだな)

 皮肉なものである。
 勅使としてやってきた郭嘉と再び見えても、孫策や周瑜が気づかなかったのも無理はない。あの時の郭嘉は顔を隠していたし、何よりもう十年以上も昔のことである。郭嘉でさえ、周瑜の話に上った時点では欠片も思い出さなかった。記憶力はいい方だが、当時は本当に日々が目まぐるしく、あまりに多くの事がありすぎて、とりわけ記憶が混沌としているのである。
 しかしその高密度の日々で培った経験と人脈が、今こうして活かされている。そのことを郭嘉は感謝こそすれ後悔したことはない。

『貴殿は損な性分ですな』

 ふと、少し前にたった一度だけ邂逅した呂範の言が蘇った。
 彼は去り際に、郭嘉を評してそう言ったのだ。

『相手にばかり割いて、己に割く(いとま)がない』

 なるほど、言い得て妙かもしれぬと郭嘉は感心した。正確には、己に割くほどの時間は残されていない、のであるが。
 呂範は自分と似た気質の男だ。『自己』と『他人』をよく見ている。ただ郭嘉と違うのは、あえてそこに踏み込むか、踏み込まずに静観しているかというところだ。
 そういう人物に会えるのはなかなか稀で、従ってそのような相手から自分を評価されるということもなかったため、呂範の言は新鮮でもあった。
 お返しに『あんたは苦労人だな。若者のお守はさぞかし気苦労絶えぬことだろう』と心底同情を込めて言ってやったら、形容しがたい苦笑いを浮かべていた。

(損、か。……それでもいい)

 自分に割く時間などなくて構わない。
 それで望む夢が見られるなら。
 生きて生きて、共に駆けて、同じ夢が見られるなら。
 たとえその先に立ちはだかるのが浅からぬ縁を結んだ相手でも、退くつもりは毛頭ない。

(俺は譲らないよ、公瑾殿)

 いつかのように、見逃すことはない。
 “その時”を夢想するように、郭嘉はそっと目を閉じた。




 数日後、勅使の一行を見送った道の入り口に、騎乗する周瑜と呂蒙の姿があった。

「行っちゃいましたね」

 どこか気が抜けたように、呂蒙は嘆息した。
 出立時は、実にあっさりとした別れだった。互いに世間的には深入りしてはならぬ間柄だと分かっているからこそだろうが、あまりにも潔すぎて呂蒙としては拍子抜けするくらいだった。
 たったの三月だというのに、ひどく長く感じた。反面で、あっという間にも思えた。
 まるで嵐のようだ。留まっている間、本当に様々なことがあった。一つ一つ振り返れば、密度の濃い思い出ばかり。孫策をはじめほとんどの者は使者がいなくなって清々したとばかりの様子であったが、呂蒙としては一抹の淋しさが胸に去来しなくもない。

 そんな呂蒙の前で、周瑜はすでに姿のない道を、記憶の影をなぞるように望む。
 郭嘉が去った後、彼はすぐさまあの裏通りへ軍の者を派遣した。自らも出向き、端から虱潰しに当たったが、ついに郭嘉が赴いた場所を見つけ出すことはできなかった。あの時の無頼漢たちは姿を消しており、誰に尋ねても行き先は知らぬという。まさしくすべて言った通りだったというわけである。立つ鳥、後を濁さずとはよく言ったものである。
気持ち良いくらい颯爽とした去り際。
北風を受けながらポツリと零す。
 係風捕景―――周瑜は遠くを眺め据えたままで微笑を刻んだ。
 中原より吹いた一陣の風。いきなり吹き荒れ、凪いだ江の水面を急に来て掻き乱したかと思えば、やって来た時同様、波風だけを立ててあっという間に去っていった男。
 風を捕らえることのできた梟雄は、果たして天下をも手にできるだろうか。
 彼の残した『予言』が、風韻となって耳に残る。

(私は抗ってみせますよ、奉孝)

 周瑜は心の中で宣戦布告し、一度目を伏せると、呂蒙を促し馬首を府城に向けた。




―完―




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