驚きと共に顔を上げる。
 男達の作る垣の向こうに、探し人の姿があった。
 おまけにその傍らには自分の部下までおり、更には柄の悪い風体の男たちが複数背後に控えている。
 名を呼ぼう唇を動かし、寸でのところで留まった。ここで名を明かすべきではないのではとの咄嗟の判断だった。
 腰に刀を佩き、平服姿で佇む郭嘉はといえばやれやれという風に腕を組み、軽く首を傾けた。

「そこまでにしとけ。そんな奴らのためにわざわざあんたの剣を汚すことはない」

 少し後ろに下がった隣で、呂蒙が目を白黒させながら祈る風に両手の指を組んでいる。何故か悄然として、縋りつくような眼差しを周瑜に送っていた。

「……」

 周瑜は動揺を堪えてひとまず構えた剣の切っ先を下げた。
 四人の男は突然乱入してきた人物たちに疑問と狼狽を隠せずにいる。
 郭嘉はそれを醒めた目で眺めながら、

「お宅らもいい加減、懲りないな」

 あからさまに馬鹿にされたことが癇に障ったか、一人が首をカッと紅潮させた。

「何だとォッ」
「俺はあんたたちが何をしたか知っている」
「!?」

 謎めいた言い回しに、色をなしていた者達に動揺が走った。

「このツラに見覚えはないか? 俺は“あの晩”のあんたらの行いを、その面構えとともに確と記憶しているけどな」
「てめ、まさかあン時邪魔しやがった」

 ようやく思い至った風に、主導的な男が唇を戦慄かせた。ぎり、と歯を噛む。

「だから何だってんだ、ええ? 事実は事実、あの時のことを俺たちが言いふらしゃ、この野郎の名声も堕ちるってもんだ」

 優位に立とうとしているのか、それともやけくそになったか、彼は開き直るや道端に唾を吐き捨てた。

「叶わぬ夢を見るのは自由だが」

 周瑜は郭嘉が何を言うつもりであるのか分からない。よもや身分を明かす気ではあるまいなと気が気ではなかった。

「愚かさもここまでくるといっそ憐れだな。お前たちが“無礼を働いた相手”が誰なのか、よくよく考えることだ」
「はぁ?」
「仮にも軍に籍を置いていたんだろう。今この地に誰が来ていて、中護軍殿が誰の接待をしているのか、知らぬわけがないよな」

 ここまで来て周瑜はつい耳を覆いたくなった。なんということを言い出すのだ彼は。

「何をいって―――

 気色ばんだ男の腕を、仲間が掴んで引いた。顔が蒼褪めている。小声で囁くように、耳打ちをした。
 聞いた男の顔色も、ほどなく同じ紙の色に変わった。しかしすぐさま否定するように痙攣した笑いを放つ。

「まさか! まさかお前が、勅使だっていう気か」
「馬鹿にするのもいい加減にしろよ。んな、勅使サマがこんなところにいるワケねぇだろ」
「騙るならもっと上手くやれってんだ」

 口々の嘲笑罵倒にも郭嘉は平然としたものだ。

「信じる信じないはご自由に。だが現に、そこにいるのは誰だ」

 すいっと周瑜の方に投げられた郭嘉の視線は、男たちを怯ませるのに十分な効果を持っていた。ごくりと誰ともなく唾を飲む音が立つ。

「真実だとしたら、お前たちは主上の聖旨を預かる遣いに対し不敬千万な振る舞いをしたことになるな。さてこの件、都におわす主上に上奏すればどうなるか。お前たちの獄行きはめでたく確定。否、それより先にこの江東の官民に地獄行きにされるかな」

 クスリと軽く口端を上げる。郭嘉の威圧にすっかり飲まれ、棒立ちの男たちの身体は微かに慄きはじめていた。顔面蒼白に汗をびっしりと浮かべる様は憐れなほどだ。
 勝敗はあっけなくついた。じりじりと後退し、やがて一人が奇声を発して反対側へと踵を翻せば、他の者もそれにつられるように後に続いた。最早周瑜のことさえ目に入らぬのか、彼の身体を押し避け駆け出す。が、その先に複数の―――それまで道端で屯をしていた男たちが立ちあがり、細い通りを塞いだ。どの者もだらしのない風体で、ある者は何かを咀嚼しているが、眼光だけは鋭く強い。

「よう、新参者。そういやてめえら、ここんとこ調子づいて俺たちのシマで好き勝手してたよな」
「尻尾巻いて逃げるなら、そこんとこ落とし前つけてからにしてもらおういかい」

 前後を無頼の者に挟まれた男たちはすっかり委縮し、へなへなとその場にへたりこんだ。

「ひ……」
「うわああ、助けてくれ!!」
「ならば愚かしい妄言は二度と口にしないと誓え」

 各々救いを求めて叫ぶ男たちへ郭嘉の声音が静かに、強く響いた。

「い、言わねえよ!」
「俺たちゃあ何も知らねぇ! だから助けてくれェ!」

 ある者は頭を抱え、ある者は土に頭を擦りつけて懇願する。

「ここにいる奴らは朝も昼も夜も、常にお前たちを見ている。少しでも妙な気を起こしでもすればどうなるか分かっているな」
「絶対に誓う、誓うから勘弁してくれ!」
「命だけはッ」
「俺や中護軍殿の前に二度とその面も見せるな。破れば―――
「分かった! 分かったよ!」

 首が千切れんばかりにブンブンと縦に振り、四人四様に必死に拝み尽くす様子をしばらく眺めてから、郭嘉はようやく道を塞ぐ無頼者たちに小さく頷きやった。合図を受けて彼らが退くと、開けた退路に、四人の男は眼の色を変え、まろび合いつつ我先にと駆け去った。
 その逃げる情けない後ろ姿を見送る郭嘉の口から嘆息が一つ零れる。それから助太刀した無頼者へと笑いかけた。

「助かった。礼を言うよ」
「いえいえ。この程度、お安いご用で」

 彼らは依然殺伐とした色の空気を纏いながらも、少しばかり雰囲気を親しげに解いた。

「あの野郎共の乱行が目についてたのは事実でしてね」
「懲らしめついでに大仔(あにき)のお役に立てたなら重畳でさ」
「なので、いつぞやの夜の一件は、そのう……」
「安心しろ。俺も言うのが遅れたし、言いつけやしないさ」

 妙に低姿勢な強面達と郭嘉のやりとりを、周瑜は半開きにした口を閉ざすことも抜き身のままの剣も忘れ、ひたすら呆然と見つめていた。
 すると郭嘉が傍らで固まっている呂蒙に何言か囁いた。ハッとした呂蒙が慌てて周瑜の方へ駆け寄る。ポカンとしている周瑜の腕に気遣わしげに触れた。

「公瑾殿、大丈夫ですか?」
「え? ああ……」

 小声でそっと尋ねられ、はたと我に返った周瑜は剣を鞘に仕舞いながら瞬きを繰り返した。その視界には、気まずそうに微笑いながら、頬を掻いている郭嘉が映っている。
 一体何が起こったのだろう。というか、彼は一体ここで何をしているのだ。何故無頼の者達と親しげに言葉を交している。
 色んな疑問がぐるぐると頭を巡るが、動転が先立ち、何から訊いて良いのかも分からない。
 郭嘉はいささか焦る風に「それじゃ俺はこれで」と裏通りの住人たちへ挨拶し、周瑜と呂蒙の肩を押し遣り、足早にその場を後にした。
 二人は促されるまま始終無言で後に従い、やがて辿りついたのは人気のない町外れ。
 立ち止まって大きく息をついた背中に、周瑜は堪りかねず声を投げかけた。

「説明してもらいましょうか」
「ん?」

 半身を返し、郭嘉はきょとんとした。何が?とばかりの目だ。

「とぼけないで下さい。あれは何なんです。大体、子明もだ」

 やにわに半眼と共に矛先を向けられ、呂蒙がびくりと飛び上がった。ビシッと背筋を正し「ハイッ」と声を裏返らせる。

「何故お前が彼と共にいる」
「いや、えっと、それはぁ」

 動揺のあまり視線を宙に彷徨わせ、歯切れ悪く唇をもごもごさせる呂蒙へ、郭嘉が助け舟を出した。

「子明殿は俺の後を尾行けて来たんだよ」
「何ですって?」

 是否を促すように周瑜が再び目を向ければ、呂蒙は観念したように面を伏せ、拱手しながら弱々しく是と答えた。

「たまたまだったんです。朝駈けに行く途中で、城門から出て来た奉孝殿を見かけて」

 明らかに下級官に装った姿を怪しみ、距離をあけてこっそりついて行った呂蒙は、裏路地へ入る郭嘉を見て後を尾行しようとした。が、途中で無頼者たちに見つかり、難癖をつけられ拘束されそうになったので抵抗し、乱闘騒ぎになったところに郭嘉が現われ何とか事無きを得た次第だという。
 あの細い通りに屯していた破落戸連中は、実は郭嘉に頼まれ、見張り役を担っていたのだという。更に後に郭嘉の不在を知った周瑜がそこまで探しに来る可能性も考慮し、彼の容姿の特徴を予め伝えておいて、彼が来たら手は出さずに郭嘉へ教えるよう言い含めていたらしい。
 道理で身なりの良い周瑜を見ても、手を出してこなかったわけである。今更ながら周瑜は郭嘉の周到さに舌を巻いた。
 呂蒙はひたすら申し訳なさそうに悄然と項垂れている。「もう良い」と周瑜は嘆息した。彼が悪いわけではない。自分ともども詰めが甘かっただけで。
 呂蒙があの場に居合わせたことはこれで解明したからいいとして、問題はそれだけではなかった。周瑜は視線を険しくする。

「あんなこと言って、どうするつもりです」

 あの手の裏通りは貧民窟にも直結していて、街中にありながら非常に複雑な区域を形成している。社会的に問題のある者達の吹き溜り、犯罪の温床と言っても過言ではない。あそこで行われることはすべて裏のこととして、法の目を潜り、秘密裏に罷り通る。周瑜たちはできるかぎりそういった無法地帯を減らそうと腐心しているが、光ある所に影ができるのが自然の節理であるように、どれだけ豊かに発展した城街であっても、かならずああいった下層の巣窟はできる。まさしく表裏一体、完全に切り離すことなどできぬのであった。特に長江下流域は少し前まで各地に豪族が割拠しており、急激な情勢変化の反動で、地位を追われ社会から弾かれてしまった者達も少なくなかった。

「私はまだしも、勅使があのような場所に出入りして、無頼の輩と付き合いがあるなどと知れたら大事でしょう」

 まさか分かっていないわけではあるまい、と語気を強めれば「何だそんなこと」とあっけらかんとした答えが返って来た。

「俺は何も明確にはしてないよ。自分が勅使だとは一言も名乗っていないし、“あの晩”と言っただけであって、あとは彼らが勝手に早とちりしただけだ。ならず者の“妄言”に一々耳を貸す必要なんてないだろ」

 いけしゃあしゃあとのたまわれた理屈に、周瑜は呆れ返った。話の見えぬ呂蒙でさえ汗を浮かべ力なく笑っている。

「だからといって勘違いなどではなく、貴方が勅使であることは事実です。もしもあの者達が広言でもしたら」
「誰が信じる? 呉城の下層街に都の使者が破落戸とつるんでいたなんて突拍子もない話」
「……」

 あっさりと躱された問いに周瑜は沈黙する。郭嘉はニヤリと一つ笑い、後ろ手を組んで二人へ背を向けた。

「大丈夫さ。あいつらには命をかけてまで復讐を企むだけの胆なんかない。あそこの住人達に睨まれているのは本当だからな」

 そうだ、と周瑜は唸った。郭嘉の言う『住人』、すなわち無頼の者たちは、本来遊侠として裏の社会で働く存在であり、周瑜達表の人間とは一線を画する。それが、何の故あって上級官吏―――それも中原は許都から来た勅使に大人しく従っているのか。

「貴方は一体―――
「なあ公瑾殿」

 後ろを向いたまま、郭嘉が天を仰ぎ唐突に声を発した。周瑜は思わず続きの言葉を飲む。それから数拍おいて「何です」と問い返した。
 郭嘉は頭を上向きにしたまま、肩越しに周瑜を振り返った。そこにあったのは躍るような瞳だ。

「遠乗りに行かない?」
「は?」

 周瑜の眉間が剣呑と皺寄せられる。刻まれた影には静かな怒りが潜んでいた。言うに事欠いてこの男は。室から無断で消えたと思えば、こっそり城下に出ておいて、今度は遠乗りなどとふざけたことを口にする。
 二人の様子を見守っている呂蒙はいつにない周瑜の憤怒にビクビクしながら、同時にハラハラと交互に視線を向けていた。

「うん、そうだな。できれば人が来なくて、街が一望できるようなところがいいな」

 しかし怒りを向けられた当人はといえば、どこ吹く風で顎を撫でている。

「勝手に話を勧めないで下さい。どれだけ他人に迷惑をかけたと思ってるんですか。大体、今日貴方は都に帰るんでしょう? こんなところで油を売っている場合じゃないでしょう」
「まだ出立まで時間はある」
「そういう問題では―――
「最後だからだよ」

 思いのほか強い声音に、周瑜は口籠った。怒気の炎が緩やかに弱まる。
 郭嘉は笑ってはいなかった。視線を逸らし、遠くを見据えるように言う。

「最後だから、この目に焼き付けておきたいんだ」

 二度と見る機会はないかもしれないから。
 その横顔は穏やかながら強い意思を宿し、口調には有無を封じる真摯な響きが籠っていた。

「な、頼むよ」

 そう言って眦を緩める。
 本当に狡い。
 周瑜は瞳を閉じ、ハアとことさら大きく溜息をついてみせた。苦々しい色を宿した額を軽く抑える。
 それを可と取った郭嘉が、嬉しげに相好を崩し、手持無沙汰で突っ立っている呂蒙へも言を投げる。

「何なら子明殿も来ればいい」
「え? お、俺も?」

 相伴してしまっていいんですか、と狼狽して周瑜を気にする。

「ここまで来たら構わないさ。その方が子明殿も安心だろう? 万一誰かに見咎められても、公瑾殿と二人きりよりは弁明ができるし」

 不安を看破られ、呂蒙は恥じ入った風に目を逸らす。郭嘉の人となりを知れば周瑜に何かをするとは思えないが、それでも万一ということがあるし、何より先程の件を目の当たりにたばかりである。二人きりにして心配でないと言えば嘘だった。

「子明」
「は、はい!」

 疲れ顔な周瑜に呼ばれ、呂蒙は条件反射で再び姿勢を伸ばす。

「馬はあるな?」

 問いの意図を量りかね、彼は一呼吸ほど虚を突かれていたが、やがて「はあ」と曖昧に肯定した。朝駈けに行く途中であったから、彼が乗っていた馬は適当な所へ繋いでおいてある。

「悪いが、馬借で一頭借りて来てくれ。私の馬は門から街へ入って最初にある茶店の脇に繋いであるから、それもついでに拾ってきて欲しい」
「! 承知」

 意を得てビシッと拱手を掲げるなり、呂蒙はの大柄な身体を反転させ猛然と駆けていった。
 ほどなく彼が三頭の馬を引き連れて戻ってくるまで、郭嘉と周瑜は言葉を交さず、各々物思いに耽っていた。




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