天がゆっくりと白む。
 薄らと刷毛で引いたような雲が明けの太陽に輝くころ、周瑜は目を覚ました。
 瞼が重い。眼の下にずんと鈍い感覚があった。ついでに背中もギシギシと痛んでいる。ともすれば意識を浮遊させてしまいそうになる中、己を叱咤して起き上がる。胸元から被子が摺り落ちた。

 妙に酒の臭いが鼻腔を突く。側に空になった酒甕と柄杓が転がっていた。倒れた酒杯が朝日を反射して煌めいている。そうであった、確か郭嘉と二人夜通し飲み続けたのだった。最後にはほとんど飲み比べになり、双方意地になった結果、決着を待つ前にどちらともなく酔い潰れたのである。かつて城下街の酒楼で飲み比べた時には、足下覚束ない郭嘉に対し、周瑜は顔色一つ変えていなかったものの、今回はかなり強い酒を飲んだから、らしくもなく酔ってしまったらしい。

 室の中に郭嘉の姿はすでに見当たらなかった。周瑜より先に覚醒めて、他人に見咎められる前に早々に去ったのかもしれない。よく起きれたものだ。
 こめかみがズキリと脈打つ。しかし、度は強いものの上質の蒸留酒だったおかげか、それほどひどい二日酔いではなかった。薬湯を飲み、湯を浴びていくらもすればすっきりするだろう。幸い陽はまだ低く、使者の一団は昼頃の出立の予定であるから、まだ時間はあった。

 ともかくこの酒臭ささをどうにかせねば。いつになく寝乱れた己のありさまを見下ろす。酒を浴びるように飲んだ挙句に、潰れるままに寝呆けるなど初めてだ。毒されたとは思わないが、羽目の外し方は少し感化されてしまったのかもしれない。要らぬところばかり学んでしまったかと力ない苦笑いが零れおちた。
 姪琳を呼ぶ。二人がなかなか眠らぬから、側で控えを命じていた彼女にもさぞかし苦労を強いてしまっただろうと思っていれば、案の定寝不足気味の眼つきで現われた。
 けれども何故かその相貌は溌剌として、晴れやかに輝いていた。陽射しの角度ゆえだろうか。元より見目の悪くない造作だったが、拭いきれなかった初々しさが昇華されており、まるで一晩で一皮剥けたようにも見えた。

 その彼女に、申し訳なく思いつつ湯の用意を頼むと「もうできております」との応えがあった。大方郭嘉が先に使ったのだろう。
 まだ熱さを残す湯を浴び、軽い朝餉をもらっていつも通りきっちり装いを整えたころには、時は辰の刻に差し掛かっていた。
 そういえばあれだけ話していたのに、肝心の今日の出立について最終的な掏り合わせをしていないことにふと気づく。
 心持ち急いた気持ちで貴賓室まで人を遣ったら、予想外にも戻って来たのは困惑顔の勅使の随身と「不在です」という一言だった。

「不在? どういうことでしょうか」

 同じように眉根を寄せた周瑜に、頭部の髪が薄くなりかけた随身は空咳をした。

「それが……女官の話では今朝がた湯殿を借りてくると言ったきり、戻って来ていないようでして」

 周瑜は知らなかったが、郭嘉は随身衆に、出立ぎりぎりまで体調を整えておきたいからと、巳の刻になるまで室に来ないよう命じていたらしい。いま周瑜の前にいる彼だけは、いつもの習慣でうっかり薬湯を届けにいったところだったという。そして室内から反応がないことを訝り、叱責覚悟で中を覗きこんだら、蛻の空だったという話だ。
 最初は小用か何かだとしばらく待っていたが、一向に戻ってくる気配がなかったため、室付きの女官を捕まえて居場所を問い質したところ、大分前に湯殿に行ったという。念のため湯殿を覗いたがやはり姿はなく、湯殿付きの者もとうに出ていったと首を振るのみだった。

 彼はすぐさま随身衆の者に相談したが、自由に身動きのとれぬ彼らでは捜せる範囲などたかが知れている。本来は身内以外に口外すべきではない由々しき事態だが、万一のこともある。よりにもよって出立の日のとんだ出来事に慌て、すっかり弱り果てたところに勅使の接待役である中護軍の遣いがやってきたものだから、渡りに船と縋りついてしまったというわけであった。

 周瑜は顎に手をかけ思案した。
 府城内を散策している可能性は考えられにくい。随身衆とて一通り客人に許された範囲は探しただろう。そこにいないということは、残るは政務を行う区域しかない。だがもし何かを探るならば細尊を使うはずだし、第一よりにもよってこの日にわざわざすることでもない。
 人目を憚って彼が自ら赴くところ。となれば―――
 周瑜は指を外し、すっかり困り果てて少ない髷までもが傾きそうな随身を宥めるよう、柔らかに微笑む。

「分かりました。ここはひとまず私にお任せいただいて、貴殿方はこのことが他に漏れぬよう、取り計って下さいませんか」

 協力を申し出てくれただけでなく、表沙汰にはせぬという言葉に、随身は涙を流さんばかりに周瑜に感謝した。この時彼の心には、江東の名物ともいえる周中護軍の美麗さと誠実さが胸に刻まれたという。
 そそくさと立ち去って行く後ろ姿をみやりながら、さて、と周瑜は眉間を曇らせる。踵を返した。その爪先が向かったところはいくつかある裏門の一つだ。
 馬に騎乗した周瑜を見るなり、門番は背筋を正して拱手した。

「明け頃、街に遣いを申しつけた者を探しているのだが、見かけなかっただろうか」

 いかにも、一向に戻って来ぬ遣いを探している風に尋ねる。
 二人いる門兵は互いに目を見合わせ、いいえ、と揃って頭を振った。

(ここから出たのではないとすれば―――

 城門は城壁の各方面に開いているが、人通りも多く目につきやすい正門は選ぶとは思えない。周瑜は他の裏手の門に向い、同じように問いかけた。すると三つ目―――西南の門にて、ようやく「ああそういえば」と目撃情報を得られた。

「辰の上刻ごろでしたかね。確かにお一人、お役人が出て行かれましたよ」

 それだ、と周瑜は馬上で顔を覆いたくなった。やはり外に出ていたのか。

「いつまでも戻って来ぬからいささか心配になってな。道に迷っているのかもしれぬ」
「自分たちの者に探させましょうか」
「それには及ばぬ。私自身が行く方が早い」

 門兵たちは特に疑問を抱くこともなく、頷いて道を開けた。
 街のある程度まで来たところで馬を止め、適当な店先に繋ぐ。馬に乗っていては行動するのに目立つ。探すにしても連れ帰るにしても人目につくのは絶対に避けたい。
 周瑜は左右の軒並みを見回し、歩き出した。目に付いた路地裏を覗く。郭嘉のことだ、表通りにいるとは思えない。表通りに並ぶ店は通常、一般的ないし日常的な物売りがほとんどで、土産物にできそうな品がなくもないが、その程度を買い求める為にわざわざ危険を忍んでまで自ら足を運ぶ必要はないのである。第一にして荷の簿籍はすでに作成されたのだから、これ以上増やすとも思えない。
 消去法でいくと、用があるとすれば裏通りの方。

(まさか春本とか、そういう類じゃないでしょうね)

 思ってから、自らの発想に周瑜は苦々しい顔になった。春本など南北問わずどこにでもあろう。しかしあの男に限ってはありえそうだから困る。あれだけ頭が冴えているのに、同時に何故ともいえるほど万年戯けているのだから。

 日の高いうちとはいえ、さすがに裏通りはあまり雰囲気の良いものではない。周瑜自身普段踏み込むことも少ないためか、余計に居心地悪く感じられる。建物の壁が迫る小路は薄暗く、目に見えぬ澱が凝っているかのようである。ちらほらと屯するのは早起きなのか、あるいは朝まで遊んでいた者なのか。いるのは無頼漢だけかと思えば、よく見れば老若男女と幅広いのに驚く。こんな路地でも店はあるようであるが表向きでは何を売り物にしているか皆目わからない。単なる食堂でさえまっとうな店構えとは思えなかった。道端に腰を下ろす若い男たちからは酒と脂粉と体臭がまじりあった、不摂生のにおいがした。

 周瑜は突きささる視線を務めて無視した。ジトリと、底の読めぬ這うような瞳が幾対も注がれる。通り過ぎたあとも、後ろから纏わりついてくる。ひそひそとした声にも気づかぬふりをし続けた。
 このような界隈に、周瑜のような見るからに身なりもよく身分のある(ついでに見目麗しい)者は大層場違いなことだろう。胡乱気、あるいは嘲弄するような注目を浴びるのは当然だった。それは周瑜の探し人にも当てはまることである。
 郭嘉は本当にこのようなところへ来ているのだろうか。いつぞやの夜を思い出す。郭嘉のことだから、単身ではなく細尊を連れているだろうが、急に不安になった。第一にしてこういう場所にいるのでは、というのはすべて周瑜の推測でしかない。けれどもそれ以外に用の先も考えられないのが現状であった。

 道を急ぐあまりか、周囲の注意を怠っていたらしい。
 不意に行く手を遮る影が複数あった。陽射しが陰る。
 咄嗟に腰に刷いた剣に手を添える。いくら上流人とはいえ、周瑜とて腕に覚えはある。名門貴族の子息が手習う飯事剣術ではない。彼は孫策に従って数々の激戦を潜りぬけた武将の一人だ。荒くれ者の水賊や山賊を相手取り、陣頭で交戦したことはいくらもある。むしろ、破落戸の喧嘩とは比べるべくもない。
 しかし警戒態勢に入って表情を厳しくした周瑜は、己を取り囲む四つの顔ぶれを一目見て身を固くした。

「これはこれはお久しゅう、周大人」

 下品に歪んだ笑顔を浮かべ、慇懃無礼に恭しく拱手したのは、予想外にも、あの夜で彼に襲いかかったあの男たちだった。
 あの後、身辺調査によって素行不良の烙印を押された彼らは、周瑜の手で兵を罷免され、追放処分を受けた。その後どこで何をしているかも知らないし興味もなかったが、このような場所で破落戸の一員と成り下がっていようとは、お約束すぎていっそ芸がない。
 全くもって間の悪い。周瑜は己の運のなさを呪った。裏通りとはいえある程度広いはずであるのに、よりにもよって何故此処で。

「生憎奇遇を喜んでいる暇はない。そこを通してもらおう」

 周瑜は苛立ちを抑えて冷たく言い放った。男たちが一瞬顔を見合わせ、間髪入れず声を上げてゲタゲタと嗤い立てた。

「こんな所まで来て、相変わらず偉そうな野郎だ」
「おい知ってるか、俺たちぁあんたに追い出されたんだ。もうあんたの部下でもなんでもない。命令に従う義理はねえ」

 元より義理など感じていなかったくせに、よく回る口だと周瑜は頭が痛くなった。いっそ一刀両断してしまいたい。

「用はそれだけか」

 退け、と力づくで通ろうとしたところに、男たちの嗤い声が止み、一変して静かになった。

「調子に乗ンじゃねぇぞ」

 低い声音で獰猛に唸る。端々から憎悪が滲み出ていた。

「誰の所為で俺たちがこんなみじめな思いを味わっていると思っているんだ」
「すべて自業自得だろう。己の非を他者の所為にするほど情けないことはない」

 男たちの面がさっと怒気に塗れる。挑発するつもりはなかったのに、つい余計な口が出てしまい、周瑜は後悔した。『公瑾は物静かなふりをして実は殿に負けず劣らず短気直情型』と、かつて呂範に言われた科白を思い出したくもないのに思い出す。

(ああ全くその通りですよ、子衡殿)

 半ば反省を込めて、半ば八つ当たり気味に心中で同僚へ毒づく。

「望みは何だ」

 今はただ先を急ぎたい。周瑜はこの際目的を優先することにした。
 優位に立ったと勘違いしたか、男たちは再び厭らしい笑いを作った。へっ、と鼻を鳴らす。

「それじゃあ、俺たちの籍を戻してもらおうか」

 結局彼らの要望とは軍属に戻ることに尽きるのである。不思議なものだった。不満があったからこその暴挙だったのではなかったのか。
 どちらにせよ無理な相談だ。

「不可能だ。一度除籍した者を戻すことは叶わぬ」

 諸事情により自らの意志で兵を辞める退役ならまだしも、懲戒によって兵を追われる除籍は意味合いが全く違う。余程の事情があれば別だが、その条件を言う必要はない。周瑜へ働いた狼藉を差し引くとしても、身辺調査において彼らが普段から悪行の目立つ輩であったことは、多くの人の証言するところである。すでに動かぬ事実が白日の下に晒されている以上、今更どんな理由をもってしても籍を復活させることはできない。第一にしてこのような者たちが軍中にいるのはまさしく百害あって一利なしである。
 だがこの答えは当然ながら男たちを納得させ得るものではなかった。

「だからそこをあんたがどうにかするんだろ」
「無理なものは無理だ」

 百歩譲ったところで、監査は然るべき所管でなされており、その結果は周瑜の一存で覆せるものではなかった。
 そうすげなく却下すれば、いよいよ彼らの様子は剣呑さを増した。

「おいおい、んなことを言っていいのかよ」
「あんまりスカしてやがると、アノコトをバラまいてやるぜ」

 僅かに頬を硬くした周瑜の反応に溜飲を下げたか、一人がことさら押し殺した声音で囁きかけた。

「周中護軍は、部下によってたかって襲われかけ、腹癒せにそいつらを懲戒処分に伏したってな」

 喉の奥で嗤う声を、周瑜はかすかに蒼褪めた表情でじっと耐えていた。

「こんな噂広まっちゃあ、不名誉極まりないだろうなァ」
―――

 周瑜の顔から感情が消えた。双眸がすっと透き通るように冷たく凍る。
 にわかに変わった雰囲気に、男たちは最初こそ嗤っていたが、すぐさま顔色を変えた。
 それは静かな殺気だった。
 周瑜の手は何の躊躇いもなく諸刃を剣鞘から放った。
 不思議だった。もう閃く過去の残像はない。あの夜のような恐怖からの震えも、吐き気のするほどの嫌悪感もない。

(私はもう、屈辱に対し泣き寝入りする無力な子どもではない)

「折角拾った命も惜しくないと見える」

 己でも驚くほど無機質な声音であった。けれど頭に血は昇っておらず、心はどこまでも冷静に、客観的に己と男たちを観察している。
 人を悪戯に斬り捨てることを良しとは思わない。けれどもこれは己個人のためではなかった。この男たちを残しておけば、のちのち軍の遺恨とならぬとも限らぬ。軍の為になるならば、悪になることなど厭わない周瑜であった。

「お、おい」

 男たちが後ずさって、取り囲んでいた輪が崩れる。
 一人が口際を引き攣らせ隣の仲間を突く。どうするんだ、と。彼らは周瑜の剣の腕を知っている。

「こんなところでンなモン振りまわす気か」

 主に主導していた男が、虚勢を張って嚇しかけようとするが、明らかに失敗していた。一度露呈された怖気は、どれだけ取り繕おうとも、隠し通せるものではない。

「こんなところだからこそだろう」

 妙なことを言う、とばかりに一笑する。このような裏の界隈で人が斬り捨てられようとも、それは日常茶飯事のことではないか。
 当てずっぽうで言った言葉があながち外れでもなかったのは、男たちの反応を見ていれば知れた。
 周瑜が冷たく吐き捨てるのを、男たちは絶望に染まった表情で聞いた。よもやこうなることに予想がつかなかったのだろうか。目先の小さな利得や詰まらぬ私情ばかりに囚われ、己の行動が起こす結果には思いが至らない。その想像力のなさが己の首を絞めているのだということに気づかない。何とも愚かしい。二つの杯が静まり返った脳裏を掠める。或る人は足元を疎かにせずして遠い先のことも読むというのに、或る者はこうして目が見えているのにすべてにおいて盲目だ。何が一体違うのだろう。

「生憎私は二度も情けをかけるほど優しい人間ではない。侮辱と不心得には相応の報いがあると知れ」

 男らの顔はますます恐怖に歪み、蛇に睨まれた蛙のごとくその場で石化していた。周りではその様子をにやにやと面白そうに傍観しながら、止める者も眉を顰める者もいない。そういう場所なのだ。
 白刃が微かな日の光を反射して鋭く煌めく。ヒッと誰かの喉から呼気が漏れた。
 じり、と右足を出したところで、緊張の糸を切る声がした。

「待った」

 場違いに飄々としたそれに、周瑜の中で高まりつつあった情動がふと鎮まった。




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