気づいた時には周瑜は肩で大きく息をしていた。驚いた阿毳がビクリと毛を逆立て、丸い身体に似合わぬ素早さで室の奥に逃げる。周瑜の膝元で、ひっくり返った膳から、皿が転がり肴が床に散乱する。ぶちまけられた酒杯が少し掛かったらしく、膝が濡れて冷たかった。
ただただ動悸のみが激しく、戻って来た現実を実感させた。
郭嘉は豆鉄砲でも食らったように眼を瞠って周瑜を見つめている。
周瑜は身を郭嘉の方に乗り出すようにして、左腕を大きく振り切った形で伸ばしていた。
その手に弾かれた青銅の酒杯は、中身を床に零し煌めく軌跡を描きながら、コロコロと転がっていく。やがて戸の足元に当たって止まり、カツンと立った物音が静寂の中に虚しく響き渡った。
「
―――何故」
浅い呼吸の下から、絞り出すように呻く。
苦悶するように、周瑜は柳眉を寄せて言った。
「何故、何の躊躇いもなく口にしようとしたんです」
「公瑾殿」
「本当に分からなかったのですか? いや、貴方ほどの人がその可能性に思い至らないはずがない」
「……」
郭嘉は口を僅かに動かしかけ、しかし言葉を紡がずに閉じる。そこには微かな驚きがあるだけで、特別怒りも、困惑も、訝りもなかった。
軽蔑しただろうか。厭わしく思い、遠ざけるだろうか。彼は二度と自分を「かけがえのない友」とは呼ばないに違いなかった。自分を殺そうとした相手を、そんな風には思えないだろう。自分は失ったのだ。信頼。絆。何を失ったか、具体的には表現できない。しかし失った。
沈黙の占める時間が、周瑜に重くのしかかる。後悔ばかりが心を締め付け、苦しめた。何に対する後悔だろうか。止めたこと? そもそもこのような形で裏切ろうとしたこと?
郭嘉は何の感情の色も読めぬ、凪いだ面持ちで周瑜を見据えていた。やがて小さく吐息を漏らし、唇を一旦結んでから、静かに口端を微笑の形に引いた。
「何故躊躇わなければならない?」
周瑜は瞠目して、ゆっくり頭を上げた。ぶつかった双眸は常のような掴みどころのないものではなく、強く真剣な光を湛えていた。
「何故って」
咄嗟に反駁が口をついた。勢い込む。
「当たり前でしょう。だって私は貴方に」
「毒を盛ろうとしたから?」
先を取られ、声を詰まらせる。先に視線を外したのは周瑜だ。唇を強く噛む。
郭嘉は戸口にまで飛んで行った杯を見やった。瞳を細める。
「恥じることはない。逆の立場なら、俺もきっと同じことを考えた」
「……それは、やはり疑っていたということなのですね」
「いいや」
周瑜の科白を、郭嘉はあっさり否定した。
顔の向きを正面に戻し、颯爽と笑う。
「信じていたよ」
「誤魔化さずとも……」
「誤魔化しじゃないさ」
ならば何故毒を盛られることを予期していたのだと、周瑜の瞳に陰りが落ちる。周瑜の行動に対し、郭嘉の反応に大きな驚きがなかったことが何よりの証だった。今更、取り繕わないで欲しい。命を奪おうとしておきながら、理不尽な苛立ちだった。
―――端から疑われたことを知って、周瑜の胸に形容しがたい虚しさが満ちる。
「別に気にしなかった。毒が入っていてもいなくても」
郭嘉はゆっくり、一言ずつ切るように言った。その慎重さは、取り繕おうとするものではなく、どちらかといえば出来る限り誠実に伝えんと言葉を選んでいる様子であった。
どういうことか分からずに周瑜はゆっくり瞬きをする。
「あんたなら最初から入れないか、あるいは毒を入れたとしてもきっとこうするだろうって思っていたから」
疑う必要なんてないだろう、と告げる口ぶりはあっけらかんとしていた。
「なんたってソーシソーアイの友達だからな」
茶化すように、おどけるように、莞爾と笑みを形作る。そこにはどんな邪気も他意もなかった。
疑ではない。信じていたからこそ躊躇などなかったのだと。
周瑜はしばらくポカンと唇を開いていたが、やがてゆるやかに苦味のある微笑を頬に刻むと、面を伏せた。肩から力が抜ける。
「貴方には……負けました」
「そうか? ならこれで十一勝九敗だな」
今までの碁の対戦結果に上乗せして、人悪く言う。揶揄交じりの口調には曇りがない。
「どさくさまぎれに勝手に改竄しないでください。それを言うなら十勝九敗でしょう」
「うん? そうだったかね」
「呆けはじめですか」
「酷いな」
わざとらしく傷ついた仕草をする郭嘉に、周瑜はようやく心から安堵した。失わなかったことへの安堵。
瞼を伏せる。
「結局、私はまだ甘いようです」
公ではなく私を取った。冷酷になりきれなかった己の弱さを自嘲する。
「その甘さ、俺は好きだけどね」
屈託なく郭嘉は言い、それからやにわに開いた窓へ向かって「細尊」と声をかけた。
するといつからいたのか表情の乏しい男が屋根から伝い降り、窓桟に杯を二つ置いて、再び上へと消えた。最初から最後まで音もない。ただ去り際、一瞬だけチラリと周瑜に目をくれていった。
周瑜とて彼の使う細作がどこかに控えていることは予想していたが、よもや予備の杯を携帯しているなどと思いもよらない。呆気に取られている周瑜へ杯を受け取りに行った郭嘉は悪戯っぽく笑んでみせる。まるで最初からこうなることをすべて見越していたように。
郭嘉は時折予知めいた先見を発揮するとの噂であったが、周瑜はなるほどと得心した。誰よりも先の先を正確に見通す彼の言動は、常人からすればともすれば神懸って見えてもしょうがない。
「いいことを教えてやるよ」
周瑜の視線をどうとったか、不意に郭嘉が、他には誰もいないというのに小声で内緒話をするみたいに囁く。
「細尊の奴、いま不機嫌でな」
「……私のせいですか」
いつも機嫌は良くなさそうというか無表情であるから違いがよく分からないながらも、周瑜は妥当な推察を口にする。
「違う違う」と郭嘉は笑いながら手を振った。
「最後の夜だから、姪琳ちゃんと過ごしたいのさ」
はあと周瑜の口が開いた。
どういう意味だ、それは。それではまるで。
「やっぱり気づいてなかったんだな」
いささか呆れ顔で郭嘉が言ったところで、ようやく己を取り戻す。
「もしかして、あの二人が?」
「そうだよ。意外だろ?」
そう実に楽しげに喉を鳴らしている。
「さすがの俺にもこうなるとは予想もつかなかったよ。何せあの細尊だろう。でも、どうやら姪琳ちゃんに泣きつかれたみたいでさ」
仔細を聞いた周瑜はといえば返す言葉も思いつかない。
「俺たちの知らぬところで結構顔を合わせていたようだしな。さすがに絆されちゃったのかな」
細作同士、各々仕える主君の命を受けて、裏で見えぬ攻防を繰り返していたことだろう。
それが敵意ではなく、いつしか好意に転じるとは。
全く人生何があるか分からない。
「はあ……」
最早感想もなく、周瑜は気が抜けた相槌を打った。
細尊の不機嫌さはきっとそれだけではないはずだ。よく耐えて静観していたものだと思う。はじめから命じられていたのだとしても、主人が殺されるかもしれぬという場面に、あえて動かず成り行きを見守るのは気が気でなかったであろう。もし直前で決意を翻さず事が成っていれば、周瑜は激怒した彼と戦闘になっていただろう。もちろんその時のことも踏まえて備えはしていたが、幸いというべきかそれらは不要になった。その誤算を嬉しく思っている自分自身に周瑜は苦笑を禁じ得ない。
「仕切り直しだよ」
周瑜が引っ繰り返した膳を戻し、床の汚れを片づけると、それぞれの杯に自ら酒を注いだ郭嘉はそう告げて、再び先程のように杯を持ち上げる。
「
対朋当飲」
唐突にぽろりと放たれた句に、周瑜はハッとし、すぐに目元を和らげ笑った。
「
―――人生幾許」
一面之交
相知心交
雖身相離
然心相通
謡うように詠い交し、密かに笑い合う。
その夜、月が傾き黎明が飾るまで、二人は時を忘れて様々に語らった。
多くのことを、あらゆることを。二度とはない時を惜しむように。