指折り数えて待ち望む日ほど遠く、叶うならば来てくれるなと願う日ほど早く至る。世の中とはまこと儘ならず、残酷である。
 心に鬱屈を抱えながら刻一刻日一日と過ごすうちに、冬至の日は間近に迫っていた。
 唐突とも言える帰還宣言から一ヶ月足らず、勅使の周辺は、一行側、呉城側を問わず慌ただしく帰還の準備に奔走していた。片や長の滞在における身辺整理と荷づくり、土産物の身繕い、積荷の名簿作成、更には将軍以下重鎮は元より、やんごとない名士の許への挨拶回りに駆け回り、片や贈呈品の調達や、帰路の確認と街道状態の情報、それに応じた各種の手配などなど、やることは山積みである。おかげで郭嘉は郭嘉で、周瑜は周瑜でそれぞれ役目から手が放せず、茶飲みはおろか、顔を合わせても事務連絡以外で会話する時間は、ほとんど皆無であった。
 そうして忙しさが拍車をかけた結果、気がつけば勅使が都へ経つ日取りはすでに明日に迫っていたのである。
 そのことに今更ながら気づいた周瑜は愕然となった。明日か。日を追う度、その日が近づく毎に、臓腑の底に閊える澱が重みを増す。あえて目を背けていたが、改めて向き合うと、余計に気持ちはうち沈んだ。まだ十日ある―――あと七日―――もう三日―――二日―――一日。
 周瑜の気がそれほどまでに思い患うのは、何も単純かつ平和的な友情だけゆえではない。
 どれだけ為人を認め合っていようとも、それ以前に、二人はそれぞれに職責と強い信念を持つ人間だった。
 彼を煩悶させるものは外でもない、ある懸念だ。

 ―――このまま、郭奉孝という人物をみすみす解き放して良いものか。

 耳元で囁く内なる声は、しきりに警告を放っている。
 私的な感情を抜きに見立てるならば、郭嘉は非常に手強い男であった。必ず孫策率いる江東の行く先を脅かす壁となるだろう。比較的友好な関係であるはずの今でさえその片鱗は見え隠れしている。今後周瑜達が華北に勢力を伸ばそうとする上で、充分に脅威となる。自分が孫策を補佐するように、彼が曹操を補佐する限り。
 しかし今、その男は自分たちの手中にある。現在の状態はまさしく千載一遇の好機だった。恐らく後にも先にもこの一度きりのみ、今を逃せば郭嘉を―――確実に“どうにか”できる機会は、ほぼ永久に失われる。そして今手を下さねば、やがて後悔につながる。「どうしてあの時“決断”しておかなかったのか」と。幸いと言うべきか、郭嘉は病弱な体質で、ここへ来てからも何度か臥せっていた。遣り方さえ上手くすればいくらでも尤もらしい理由を捏造することはできるのだ。証拠さえ隠滅できれば、大変な事態―――具体的には曹操の怒りを買い、曹軍と事を構えること―――も避けることはできる。

 そんなことを考えている自分に、周瑜はぞっとした。しかしながら一方で彼は、私情を一切排した打算こそを優先すべき立場にあり、今までもそうしてきた。それを達成するだけの冷酷さを兼ね添えていると自負もしていた。
 黙考する周瑜の手の中にはあの小瓶がある。ほんの小さな陶器の瓶。これの入手を姪琳に命じた時、彼女は何か言いたそうに、不安に揺れる眼差しで周瑜を見返しながらも、何も言わずに従った。

 風に乗って時折喧騒のような、賑やかな人声と、背後に緩やかな楽曲が聞こえてくる。勅使一行の訪呉最後の夜である今宵は、彼らを送るための宴が開かれていた。明日、勅使は約定どおり張紘を連れて許昌に向けて発つ。
 その宴会の主役である男は、やがて託を受け、この部屋へ周瑜を訪いにやってくる。
 そのために周瑜は早々に宴席を辞していた。彼と自室にて二人きりで対談することは予め呂範に告げてあり、誰に見咎められたとしても不都合がないよう裏から手回ししておいてほしいと頼んでいた。以前のような、良からぬ誤解を招くことになっては宜しくない。呂範は周瑜の意図を察したかどうか、あるいは思うところがあったか、深くは追及することなく承諾してくれた。いつもながら彼の程よい心遣いが周瑜には有り難かった。

 席と膳は二つ分用意され、周瑜は空の座を前にじっと端坐している。膳の上には銅の杯と、彼が以前絶賛していた江東名産の肴が盛られていた。いつもの通りだ。不自然にならぬように。室に灯された明りの火がジジッと煙を吐き出し、杯を青く反射した。そこに映る己の顔を、まるで他人のもののようにじっと見つめる。
 遠くからから、走廊の石床を擦るように近付いてくる音がある。周瑜は瞳を伏せた。
 さっと袖の内に瓶を仕舞った。
 足音はやがて戸の前で止まると、一拍置いてトントンと軽く戸板を叩いた。

「どうぞ」

 相手に知られぬよう小さく息を吸って飲んでから、周瑜は面に朗らかな微笑を浮かべて声をかけた。

「おじゃましまーす、っと」

 相変わらず茶化した断りとともに扉を開けて顔を覗かせた郭嘉は、勝手知ったる他人の部屋と、遠慮ない仕草でずかずかと踏み込んで来た。

「あれ、もしかして用意して待っててくれたのか?」

 設えられた二席を見止めて、目を丸くして言う。

「準備したのは今しがたですよ。そろそろ来る頃かと思って」

 周瑜は笑って軽く受け流し、やんわりと席を勧めた。

「でも、大丈夫なのか」

 座に腰を下ろしながら、郭嘉が釈然とせぬ面持ちで周瑜に尋ねる。何がと言わずとも、他でもなくこの状況のことを指しているのだと周瑜も分かった。ただでさえ一度は疑いの目がかかったのだ、夜更けに再び二人きりで室で談義などしている所を見咎められでもしたら、また要らぬ憶測を呼ぶのではないかと心配しているのだ。

「ええ。共犯者に頼んでありますから、そこは上手く工作しておいてくれるでしょう」
「ふーん」

 郭嘉は共犯者という部分が一瞬気になったようだが、すぐさま別の方に気を取られた。

「それにしても久しぶりだな、こういうの」

 感慨深く言いながら、楽しげに首を巡らす。確かに一時期の事件からというもの、やはり人の目を気にして以前のようなお遊びの往来は控え気味になっていた。そのうちに何だかんだと慌ただしくなったから、余計にご無沙汰に感じられるのも無理はない。
 郭嘉は一旦座ったはずの席を立って、庭院側の窓へ側寄ると、蔀戸を開けてチッチと舌を鳴らした。
 乗り出した上身を擡げる。

「いいこだな、阿毳」

 手に丸々と肥えた毛並み豊かな白猫を抱えて戻ってくる。腕の中で阿毳は撫でくり回されて迷惑そうにしながらも、大人しく収まっていた。可愛げのなさは健在だ。阿毳には専ら周瑜の室から餌を与えていたため、一定の時間になると現われるのは大抵周瑜の自室だった。
 郭嘉が脇に下ろすと、阿毳はのそのそと歩いて適当なところで丸くなった。

「毳も連れ帰るつもりですか?」

 周瑜は手元の酒壺から、柄杓で酒精を掬い、郭嘉の杯に注いだ。―――心持ち、ゆっくりとした仕草で。
 受け取った郭嘉は鼻先を近づけて「いい酒だなこれは」と満足げに笑う。香りを嗅ぐために一瞬その口許に引き寄せられた酒杯を見て、周瑜はほんの少し―――本当に僅かに手を揺らした。手元が狂い、柄杓が注ぎ口から外れ、杯の淵から酒が零れる。
 幸い、郭嘉は気づかなかったようだった。彼は上機嫌で酒杯を膳に戻しつつ、

「いいや、置いて行くさ。長旅で連れ帰るのは無理があろうし、阿毳にはこの地の方が住みやすいだろう」

 郭嘉の戻る中原の都と周瑜たちが現在居住する呉地では南北に遠く離れており、従って気候環境もかなり異なる。その地の生き物には、その地の水土が最も相応しいようにできているのだ。人の都合で下手に移動などさせれば、新天地に馴染めず命を縮めかねない。

―――いよいよ、明日ですね」
「ああ」

 思わず言葉尻が沈んでしまった周瑜に、郭嘉は依然飄々とした調子で返した。

「荷の方は」
「すべて完了だよ。積み漏れはなし」
「そうですか……」

 周瑜の表情がそこはとなく曇る。

「やはり嬉しいですか」
「帰れることがか?」
「ええ」
「そりゃあ」

 郭嘉はどこぞかを見上げて、頭を掻く。

「一応、故郷だしな」

 問いへの是否は曖昧だったが、嬉しくないはずがない。当然だろう。周瑜はますます昏い心地になった。しかし一度小さく溜息をつくと、そんな暗い靄を拭い去るように、務めて明るく微笑んだ。

「引き留めても無駄なのでしょうね」
「公瑾殿」
「分かってます」

 困ったように言い差した郭嘉を遮り、周瑜はゆるりと頭を振る。

「私が伯符様を裏切らぬように、貴方も曹公を裏切ることはない」

 かつて郭嘉が、周瑜の問いかけに対してはっきり口にした答え。

―――貴方は二言を弄する人でも、一度誓った決意を覆すような人でもないですからね」

 視線を逸らし、開けたままの窓から外を見やる。白い月が浮かんでいる。楽音が遠くで幽玄と響く。主賓がいなくなった後でも宴会はまだ続いているらしい。
 郭嘉は周瑜の冴えた横顔を見つめ、答えあぐねる風に曖昧な微笑を淡く刷いた。

「それでも、公瑾殿がかけがえのない朋友であるということは変わらないよ」

 ―――そう、朋友だ。永遠に、大切な。
 真摯な声音がそう告げる。

「たとえ敵でも」
「ああ、たとえ敵でも」

 まだ明確な対立はしてないけれど、と郭嘉は付け足した。

「私も、奉孝のことは得難い友人だと思っていますよ」

 ぽつりと返す。

「だから最後に、こうして私個人で見送りたくて呼んだんです」
「かたじけない」

 郭嘉は嬉しげな笑顔を惜しみなく見せた。どちらに対する礼だったのか、きっとどちらもだろう。
 そこはかとなく硬くなった空気を解すように、郭嘉は肴を摘まんで口に放る。海で取れた魚を干し、醤の中に香草と付け込んだ、沿海地域の伝統料理だ。

「江東を離れることで残念なことの一つといえば、この美味い料理が食べられなくなることだな」

 いかにも幸せそうに頬を動かし、やにわにそんなことをのたまう。

「それほど違いますか。確かに河水の方は江水側に比べて食材に乏しいと聞きますが」
「俺にとっては故郷だし、あれはあれで慣れると味わいがあるもんだけど、やっぱり南の食の豊かさや美食嗜好には遠く及ばないね」

 言いながら、杯を手にして顔の高さに掲げる。

「さて飲み直そう、公瑾殿」

 ニッと笑って、そう言った。
 周瑜も、小さく微笑んで促されるまま己の杯を持ち上げた。
 ―――決して、顔色に出ないように。
 かつて郭嘉に指摘されたように、瞳にさえ映し出さぬよう、心を無にした。
 二人の間に捧げられた二つの杯が、交すように一度近付き、離れる。
 己の杯を口許へ運びながら、周瑜はもう一つの杯の行く先を密かに見つめ続けた。

 ―――今ここで排除しなければ、いつかきっと禍根となる。
 ―――孫策の、周瑜の、この江東の夢を阻む存在。
 ―――天与の鬼才。恐るべき、頭脳を持つこの男が。

 鬼になれ、と言い聞かせた。たとえ友でも、主君の道と、宿願には変えられないと。
 唇に近付く酒杯。
 袖に隠した小瓶の重み、冷たさ。
 青銅が煌めき、傾く。 

 ―――朋友だ。永遠に、大切な。

――――――っ!」



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