泣けば、大人たちは困った顔をした。
 怒れば、大人たちは厭わしげな顔をした。
 無表情であれば、大人たちは不安そうな顔をした。
 笑えば、大人たちは笑顔になった。

 表情を作ることを始めたのはいつの頃からだっただろうか。
 それすら思い出せないほど、あの時はそのことに慣れてしまっていた。
 しかし時々ふと自分でも分からなくなるのだ。
 一体、どこまでが偽りで、どこまでが真の心からの表情なのか。
 自分の本当の表情(かお)は、一体どんなものであったか……と。








 夏の終わり、まだ衣替えの気配がない深緑の山道を抜けて、大きな館に到った。
 長い江を船に揺られ続け、陸に上がってからもなお様々な交通手段を接ぎ、延々と旅してきた。その長い道のりの最終地点が此処かと思うと、館を見上げた口から、さすがにほうっと息が漏れる。
 それを聞きつけたのか、手を引く男が見下ろしてくる。高い位置にある頭が、天上にある太陽を隠し、翳った。

「疲れたか?」

 首を振り、口の端を押し上げて微笑った。それに、男も安堵したように笑い返した。
 彼は父から頼まれて、自分を此処まで連れて来てくれた門中(しんせき)の男だった。彼は道行きの途中で何度か同じ質問をし、その度に自分は先程と同じように返した。そうすることが、彼にとって最も煩わしくなく、最も安心することだと知っていたから。どんなに疲れても不平一つ漏らさない自分を、彼はその都度「本当に周家の坊ちゃんはよく出来た御子だ。奇彩叔父が実に羨ましい」と褒めた。

 家族から離れ、一人知らぬ世界に放り出されるのが不安でないと言えば嘘になる。でもさほど深刻には考えていなかった。それよりも、たった一人の親友と会えなくなる方が寂しかった。
 幼馴染でもある彼は、自分が華北に行くと聞くと、泣いて怒って駄々をこね、大人を散々困らせた挙句、出立の前の日になっても決して顔を出そうとしなかった。だが発つ直前に仏頂面で現れたかと思うと、「お前が偉い軍師になって帰ってくるまでに、俺はすっげえ鍛錬して天下無双の武将になってやる。だから絶対戻ってこいよ」とまるで今生の別れみたいなノリで激励を送ってくれたのだ。大袈裟だよ、成人する前に多分何回か戻ってくるんだけど、という言葉はあえて飲み込んだ。彼の決意を無碍にしてはいけない。

「此処で。この世に名高い水鏡先生の元で、しっかり勉学に励まれよ。周の子として、いずれ一族を背負うべき立派な男子に成長されることを、お父上もきっと楽しみにしておられるぞ」

 頭に手を置き、そう言う親族の男に、やはり自分は笑って頷いた。はるか南、江の流れの先にある実家から出る前にも、家庭教師であった張老師からそのことは言われていた。自分がこの私塾で学ぶことによって、いずれ江東一勢が中原に駆け出す際の布石となるのだと。彼は満足気に笑みを浮かべ、帰って行った。
 これが後に水鏡八奇のうち五奇と呼ばれる自分の、時の始まりであった。




 前を行く兄弟子について、館の走廊を歩く。少し前に二番目の師兄だと名乗った彼は、親しげに声をかけて誘導してくれる。
 最初に水鏡老師から引き合わされた時、彼は膝を屈めて自分に目線を合わせ、優しく歓迎してくれた。第一声は印象的だ。

「おやまぁ、先生もついに女子(おなご)を弟子に迎えられることにしたのですねぇ」

 一応男です、と言った時の二奇の狼狽えぶりは今でも忘れられない。
 ただ、そこに滲む理知的な光と人を安心させる包容力に、こういう人こそが将来万人を安んじるのだろうと、子供心に漠然と思ったものだ。
 ところがいつものように笑顔で礼儀正しく挨拶をした時、何故か二奇は一拍ほどおいてから、少し困惑気味に微笑んだ。
 館の居住区を一巡りして自室に到った時、二奇は色々と親身に気遣いをしてくれた。その彼へ、五奇はやはり笑んで返す。二奇はまたあの、何とも言えぬ曖昧な表情をしたかと思うと、すぐに何事もなかったように頬を緩めた。

「老五」

 未だ耳に馴染まぬ呼称で呼ばれ、五奇は顎を上げた。

「我々師兄弟は血の繋がりはないけれど、皆兄弟みたいなものだから、遠慮しなくていい」

 今思えば、二奇のこの台詞には含意があったのだろう。しかしその時の五奇はあまり深く考えずに、ただ言葉のみを捉えて「はい、師兄」と素直に頷いた。
 二奇が立ち去った後のことはよく覚えていない。考えうるに、眠ってしまったのだろう。さすがに子どもの自分に長旅は堪え、ひどく疲れていた。
 寝付いた自分を二奇が起こしにきたらしいが、声をかけど揺さぶれどピクリとも動かず、一瞬死んでいるのかと思って肝が冷えたというのは、後に聞いた話だ。ついでに「初日にして顔合わせをすっぽかしただけでなく、あそこまでぐっすり爆睡してみせたのは老五だけだ」と、名誉なのか不名誉なのか分からない言葉も頂いた。




 翌日ぱっちりと目を覚ますと、見慣れない天井と被子(ふとん)が視界に入った。ゆっくり血の巡り始めた脳が、此処が江東の自邸ではなく私塾の館であることを訴える。
 ぼうとする頭のまま、牀台からモソリと這い出す。寝癖もそのままに、フラフラと室の表に出た。眩しい太陽の光が目に沁みて、思わず細める。顔を洗おうと、昨日教わった井戸の場所を思い出しながら辿りつくと、見知った顔一つと知らない顔一つが井戸端にいた。
 五奇に気づいた二奇がにこにこと笑った。

「おはよう」

 寝起きで未だ頭が回っておらず、五奇は笑顔を作ることを忘れてコクリと頷くように辞儀をする。そして、もう一つの長身を見上げた。どこかとっつきにくそうな、居丈高な顔立ちの少年だった。少年といっても、五奇からしてみればとても大きい。二奇よりも年上だろう。気の強そうな瞳と天庭(ひたい)にある黒子が印象的だった。

「彼は大師兄だ。我ら師兄弟の筆頭だよ」

 二奇がそう説明し、己の兄弟子に告げた。

「大師兄、この子が昨日から入山してきた五人目の仲間ですよ」

 大師兄と呼ばれた少年は、しばらく五奇を眺めた後、フンと鼻を鳴らした。

「成る程。お前の言う通り、確かに女児と見紛うのも無理はない容姿だな」
「大師兄……」
「おい五番目。お前は運がいい。今日は授業は休みの日だ。今のうちにこの老二に色々と身の回りで分からないことは訊いておくんだな」

 そう言い終わるや、もはや興味はないとばかりに一人先にどこかへ去って行った。「大師兄も相変わらずな人だな」と二奇がやんわり嘆息するのが、微かに聞こえた。
 一番上の兄弟子は二奇と違ってあまり優しくはなさそうだったが、五奇にはそこまで嫌な感じはしなかった。立ち振る舞いに育ちの良さが現れていたところからすると、大方名門の子息か何かなのだろう。ただしそのことは二奇にも言えることだった。
 自分の一族も省みると、この門下にはそれなりの家柄の子どもが集められていると考えられた。恐らく五奇自身が課せられたのと同じ期待で。
 突然のことに衝撃を受けたのだろうと、二奇が気遣わしげに言葉を投げかける。

「老五。昨日はよく眠っていたようだけど、旅の疲れは取れたか?」

 その時になって、ようやく五奇は本来の調子が戻ってきた。微笑み頷く。そうか、と二奇も相好を崩した。

「大師兄が言っていたように、今日は生憎……というか折りよく休学日なんだ。折角だから、もう一日ゆっくりするといい。君はとりわけ遠くから来ているしね。それと、後で他の師兄弟達にも合わせよう。とりあえず、お腹は空いてない?」

 言われた途端、ぐぅとお腹が鳴った。二奇が笑う。

「じゃあ食堂に行こうか。他の皆は先に朝餉を食べ終わってしまったけど、老五の分はちゃんと厨房に残してある。料理人に言って、温め直させよう」




 とりあえず一旦部屋に戻り、到着時のまま解いていなかった荷から新しい衣を取り出して着替えると、食堂に向かった。しかしここで五奇は思わぬ苦戦をする。
 最初に汁気の多い穀飯が出てきたときは驚いたものだ。サラサラの飯など初めて見た。
 箸を片手に、どう食べたものかと考えあぐねる五奇へ、二奇はあっさり「匙で食べるんだよ」と言った。粘り気のある黍を使ったふっくらご飯が主な南では、匙は「渋る」ため汁物以外ではあまり使わない。
 それに食材や味付けも南とでは違う。醤をふんだんに使った濃い目の味付けは、薄味に慣れた五奇には少々鹹かった。その割りに深みがなく素っ気無い。
 この南北の食感覚の違いに五奇はしばらく不慣れを強いられることになる。




 ようやく食事を終え、二奇とともに回廊をある方角へと向かう。

「あの二人は休みの日には大抵あそこで遊んでいるからな」

 手を引かれながら、五奇は傍らを見上げる。二奇の口調は軽快で、今から会う「二人」と仲が良いことが見て取れた。
 回廊を進むうちに、やがて幾人かの話し声が聞こえてきた。近づくにつれ、それが二人だと分かる。ついでに会話の内容が明瞭に耳に届く。

「何てことしてくれたわけ?」「そう怒るなよ」「これが怒らないでいられるか」「ダイジョーブ、似合ってる似合ってる」「お前人の頭何だと思ってんの」「だって仕方ないだろう。自分じゃ見えないんだし、実験台が必要……あいや、何でもない」「……もう絶対、二度と老三の頼みなんか聞いてやらない」「まぁまぁそう言うなって。師弟なんだからちょっとくらい協力してくれてもいいだろ」「お前これで何度目だと思ってるんだ」云々。

 両方とも、声の高さからすると、そう年も行っていない少年のようだ。片方は口調こそ穏やかだったが明らかに怒気をはらんでおり、もう片方は笑いを堪えるようにしてそれを宥めている。二種類の声音が、直角に折れた廊下の向こうで賑々しく交わされていた。「何をやってるんだあの二人は」と二奇が呆れた声音で独りごちた。
 角を曲がると、開け放たれた扉が現れる。言い争いの主たちは其処にいるらしかった。二奇が広い間口より中に踏み込み、よく透る声で仲裁を入れた。

「老三に老四。何なんだ、騒がし……」

 しかし二奇は、言い切る前に言葉尻を切った。唖然と口を開き、中の人を見ている。後ろからついてきていた五奇は、チラリと二奇の陰から室の裡を見やった。
 そこには二奇とさほど年の変わらない少年と、彼に掴みかかるもう少し年下の男児が居た。編みこまれた髪を両側に結い上げ、可愛らしい色合いの布をふんだんに結んでいるという長江以南でも見たことのない頭をしていた(いや、させられていたか)。しかも長さが足りなかったか、あちこち毛先が跳ねている。珍妙といえば珍妙だが、強いて言うなら女児がするような髪型かもしれない。

「おー老二、どうだこの新作! なかなかいい出来じゃないか?」

 胸倉を掴まれている方―――三奇が、嬉々として手を振る。それを幼い方―――四奇がひと睨みして黙らせ、次に二奇を見て唇を尖らせた。

「老二、頼むから笑うなよ」

 見やれば、二奇は今にも噴き出しそうな様子で、必死に口を押さえている。しかし口を塞ごうとも涙目が心境を雄弁に語っていて、あまり意味はなさそうだった。

「お、もしやそこのチビが五奇か?」

 三奇が目敏く後ろに控える五奇の姿を捉えた。途端に四奇が掴んでいた服をパッと放し「え、何処?」と探す。二奇が「ああ」と息を吐いた。笑いの波は完全には過ぎ去っていないらしく、微かに震えている。

「そうだ。老五おいで。珍妙な奴だがこれでも一応三番目の師兄だ。そしてそこで憐れなことになっているのが四師兄」
「おいおい、何か俺に対してだけ酷い言い草じゃないか?」

 おどけたように不平を言う三奇に対し、四奇が半眼で「さすが老二は公明正大だ」と厭味をぶつける。それから五奇の真正面にとてとてと歩み寄ってきた。

「老四、今日からこの子がお前の師弟だ。これからは師兄として、よく面倒を見てやるんだぞ」

 老二の言葉に返事もせず、四奇はまじまじと五奇を見下ろしてきた。五奇は五奇で四奇の考えが読めず、とりあえず茫漠と見返していた。すると、突然四奇が抱きついてきた。

「激カワ!!」

 ぎゅーっと抱きしめられ、ぐりぐりと顔を擦りつけてくる。いきなりのことに五奇は呆然とした。何が何だか分からず、されるがままになる。
 呆気にとられたのは二奇と三奇も同じで、まさか四奇がこんな行動に出るとは思いもよらずポカンと目口を開いている。

「老四の意外な一面見たり」
「ああ、そうだな……」

 という空虚な呟きが交わされた。




 その日からというもの、「弟弟子は直上の兄弟子が面倒を見る」という水鏡式しきたりもあって、五奇は四奇と共にいることが多くなった。
 四奇はその実口数は少なく、一緒にいても無言の時が多いが、頭を撫でたり抱きついて暖をとったりと、とりあえずスキンシップが多い(しかも予告がない)。だからといって鬱陶しいほど始終べったりというわけでもなく、放っておいている時もあれば適度に距離を置いて接する時もある。
 そのせいもあってか、不思議と五奇はこの師兄を疎ましく感じたことはなかった。
 ただこうした手放しの『親愛表現』をぶつけられたことがなかったので、慣れぬことにしばしば戸惑いを覚えたけれど。
 こうしておおむね好意的だった四奇だが、あることに対してだけ、表情を歪めることがあった。五奇がよく覚えているのは、会話の最中に、ふいに不機嫌そうになる四奇の顔だ。ある時彼は五奇に対して、真面目な声音で言った。

「無理はすんなよ」

 五奇はといえばどうしてそんなことを言われるのか分からず、ただ当惑するばかりだった。




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