そうして五奇の中では忘れられない、衝撃的な出来事の一つが起こる。


 その日は、授業のない日で、皆一日中暇を持て余していた。五奇が来た頃から山景色も大分様変わりをして、橙や紅の葉が地につもり木々は寒々しい色合いを見せていた。空気もひどく冷たかったように思う。風に乗って、寒い冬の訪いの音が聞こえていた。
 四奇が房間に現れて、『方言』の書き取りをしていた五奇に、「明日の夜明けにこっそり“下”へ遊びに行かないか」と珍しく誘いをかけてきた。
 下方に城街があるのは知っている。だが無断で館を出て山を下りるのは許されない。特に子どもだけで出掛けるのは危険を伴うためきつく戒められていた。
 そう四奇に言うと、彼は大丈夫だと声を潜めた。

「抜け道があるんだ。今先生はお出かけ中でいないし、ちょっとくらいならバレやしない」
「でも、朝早くじゃ城門は開いてないと思うよ」
「いいんだよ。だって目的は城街(まち)じゃないから」

 街じゃない? 五奇は訝しんだ。城街以外に、どこへ行こうというのだろう。

「老三も行くって。もしお前が嫌なら二人だけで行くつもりだけどどうする? あんまり時間ないから待てないぞ。明日を逃すと、もう機会がないかもしれないからな」

 四奇はいつもより饒舌だった。彼の舌がよく回る時は、大抵何か楽しいことがある時か、怒っている時である。今回はどう考えても前者だった。五奇は筆を置いて尋ねた。

「機会って、何の?」
「すっげーいいもん」

 それは何だと訊いても、四奇はただ意味深に笑い、行ってからのお楽しみと答えるだけだった。「俺は夏も好きだけど、この時期のが一番格別なんだ。」
 そう言われると五奇としても何なのか気になる。表立っては見えないが、生来好奇心は強い方だ。それを知っていて、わざと核心には触れない言い方をする。こういうところが四奇は巧みだった。
 返事は決まっていた。
 翌朝、未だ明けやらぬ暗いうちから五奇は身支度をしていた。ぽっかりと浮かんだ月明かりに、吐く息が白く象られる。いつもにも増して、館の中がしんと静寂に包まれているようだった。
 防寒をしっかりして、厨房の裏手へ行く。表門は閉まっているので、裏手の小口から出るのだ。約束の所にはすでに仄闇に沈む人影があった。しかし、予定より一つ少ない。

「四師兄」

 小声で呼ぶと、小さく座り込んでいた影の頭が上がった。眠たそうにトロンとしている。四奇だった。

「三師兄は?」

 近づいて、見当たらない顔を捜す。四奇はムスッと眉を寄せて、ああ、と息を吐いた。白い空気が煙のように零れて溶ける。

「老三の野郎、人の部屋で爆睡してやがってさ。どれだけ起こしても起きなかったんだ。仕方ないから置いてく」

 言うなり、フワァと大きく欠伸をした。瞼が半分落ちていて、相当眠たそうである。四奇の朝の寝汚さは五奇も承知済みだったが、その彼が睡魔を推してでも行こうとするということは、これから待ち構えているものがそれだけの価値があるものということなのだろう。
 二つの小さな影を、子午を越して傾いた太陰が長く伸ばす。静まり返った山道に朝霧が柔らかく這っていて、まるで夢の中を歩いているようだった。
 道行は殆ど無言だったが、四奇相手だといつものことなので気にしない。だから四奇がいつも使う山道を外れて、林に入っていく時も、五奇はただ黙ってついていった。
 よもや獣道かと不安が過ぎったが、よく見ると人が踏みしめてできたらしい道だった。白い靄の向こうに、仕事に出てきた猟師や炭作らしき姿がちらほらしていて、不安はすぐ安堵にとってかわられた。
 このような時間から山に住む者たちはもう活動を始めているのだ―――感嘆する傍らで、不思議に思う。四奇はあまり外に出ている様子もないのに、どうしてこのような抜け道を知っているのだろう。

「華陀先生がさ、教えてくれたんだよ」

 五奇の疑問を読んだかのように、先を行く四奇が足元に目線を落としたまま答える。整備された官路とは違って、気をつけて進まないと時折木の根や枝に足を取られそうになる。視界が暗いから余計にだ。
 五奇はまだ会った事はないが、華陀が水鏡の館に出入りしている大夫(いしゃ)だということは知っている。四奇の話によれば、彼は薬草を求めてよく散策しいるため山道に詳しいらしい。この道は、華陀が旅すがら水鏡の屋敷に立ち寄る時によく使うのだとか。西に行く際には、街を経由するより半分の時間で行き来できるという。
 つまり今二人が進んでいるのは西に繋がる近道というわけで、四奇の目的地もそこにあるのだということが分かったが、それでも四奇の言う「いいもの」というものには、全く検討もつかなかった。
 だが、乱立する木々の向こう―――やがて見えてきた道の果てに広がる世界に、五奇は大きく目を瞠った。世界だと思った。風景というには、あまりにもそれは大きく、広く、五奇を押し包んでいたから。

 一面の黄金色(こがねいろ)だった。

 まばゆいばかりの光が視界に溢れる。薄野が広がり、やわらかに波打っていた。遠くに見える稲田は更に金色(こんじき)に輝いている。今出てきた山の斜面も、背後で豊かに彩られていた。そして地平の彼方で、世界すべてを染める曙。藍から燃えるような赤に移り変わる空の色が、照雲と相俟って、ひどく幻想的だった。
 音楽が聞こえる、と咄嗟に思った。もちろんどこにも演奏する者の影などないし、さやけく草の音以外、無音である。けれど、どこからか音が奏でられている気がする。時折五奇にはそういうことがあった。何かを見て心を動かされる時、音楽を感じるのだ。

「どう? 最高だろ」

 明かりに照らし出される誇らしげな笑顔を仰ぎ見て、五奇はようやく四奇が言っていた『いいもの』の正体が分かった。彼はこれを見たかったのだ。
「うん。」幼心にも、この眼に映るものがどれだけすごいのか、感じ取れる気がした。頬の表面がひどく冷たくてピリピリと張っている。五奇は興奮しながら、鮮やかに明け行く空に魅入った。空気が冷たく澄んでいるため、余計に美しく目に映える。二つの白い吐息が静謐な風にさらわれていく。
 音楽が聞こえる。そう言うと、四奇は哂うことなく、「へぇ」と興味深そうに頬を緩めた。

「老五は楽人だな」
「何で?」
「一流の楽人は、世界が楽で溢れているように感じるんだって」

 楽しげに言う四奇の顔を見ながら、五奇はそうかな?と小首を傾げた。

「人によっては楽によって世相が分かるらしいぜ。楽は世の(さきがけ)なりってさ。まだ誰も気づかない時から、音楽だけは世の中が変わることを知っていて、一番最初にそれを表現するんだって。老五ってぼんやりして見えるけど、意外に繊細なのな」

 変化の予兆を敏感に察知し、形にする。世の変化はそのあとにやってくる。それとも音楽の変化が世の変化をもたらすのだろうか?
 難しいことは分からない。五奇はすぐに考えることをやめた。ただ、この言葉は五奇の心に深い印象となって残った。

「じゃあ、これとかどうかな」

 四奇が思い立ったように手近な葉を摘み取る。朝露が弾けて陽光にきらめいた。何をするのかと五奇が見つめていると、「見てな」と四奇は笑い、自分の口に押し当てる。唇と葉の隙間から、プーと可愛らしい音が漏れた。そのまま良く分からない旋律を奏でる。

「あー駄目だ。まだ上手くいかないや」

 それを見て五奇も真似をする。最初はフッと息しか漏れなかったが、何度か調節するうちに呼気の加減が何となく分かってきて、やがてピィとか細く澄んだ音が流れた。

「老五、音出んの早! お前今度華陀先生が来た時に伝授してもらえよ。あの藪医者、口笛は下手くそなくせして草笛は最高に上手いんだ」

 楽しそうに笑い声を上げる四奇に、五奇はただ頷く。それからハッとして、慌てて振り仰ぎ笑んだ。
 だが四奇は、むうっと眉宇を寄せた。そして五奇の冷たくなった頬っぺたを掴むと、いきなり両手でむにーっと引き伸ばした。

「……ラオフー、いひゃい」

 本当は物凄く痛いことを表現したかったのだが、驚きが先立つあまり、口から漏れたのは実に間の抜けた感想だった。四奇がパッと手を放す。五奇はヒリヒリと痛む頬を手の平で覆いひたすら疑問符を浮かべていた。

「無理すんなって言っただろ。笑いたくないなら、別に笑わなくたっていいんだよ」

 四奇がしかとこちらを見据えそう言った。五奇は茫洋と瞬きをする。別に無理なんて、と咄嗟に言おうとして飲み込んだ。本当に、無理ではなかったのだろうか。本当の表情と作った表情の区別がつかなくなったのはいつからだった?
 四奇が憮然と続ける。

「だってお前、大抵笑ってても、違うもん」

 目? 五奇はますます分からなくなる。

「今まで言わたことなかった」

 四奇も、眉間のあたりに躊躇いの色を漂わせた。彼自身どう説明していいのか分からない様子で、俯きがちに視線を彷徨わせる。ゆっくり単語を捜しながら、言葉を綴り合わせる。

「老五が楽で何かを感じるみたいに、俺は他人の感情が何となく分かるんだよ。顔を見ると自然と伝わってくるんだ。でもお前の場合は、顔は笑ってても嬉しいって気配がしない」

 五奇は頬を包んだまま俯いた。そんなこと言われても困る。何と答えていいか困惑するばかりだ。だって、そんなこと一度も言われたことはなかったから。大人たちは皆、笑うと喜んだから。泣くと困った顔をしたから。怒ると迷惑そうにしたから。何もしないと、怪訝な目で見たから。―――だから、笑う以外の表情を知らない。
 不意に、頭上に暖かな感覚が触れた。

「別に表情を作ることが駄目だって言ってんじゃない。時々は必要なことなんだと思う。きっと大人になったら、もっとそうしなきゃいけなくなる。でも、少なくとも今くらい、俺達の前では普通にしてろよ。笑わなくたって誰も嫌いになったりしないから。じゃないとなんか気持ちが落ち着かないだろ」

 撫でつつ穏やかに呟く四奇の声を聞きながら、うん、と小さく肯いた。ふと、あることに思い至ったのだ。自分も曲の調べを聴いていると、一音の僅かな間違いでも耳が拾ってしまう。一度気づいてしまうと、気になって仕方がない。四奇の言うことはきっとそれに似ている。
 仮面を被っていたのは怖かったからかもしれないと、五奇は思った。誰もが望むいい子でいなければ、暖かいものが離れていく気がして不安だった。必死でぬくもりを留めようとしているうちに、いつしか唯一人の幼馴染の前で以外、仮面を外せなくなった。いや、自分がつけているの外しているのかさえ、分からなくなった。そういえば、と耳の奥に蘇える台詞がある。

『俺は嘘が大嫌いだ。嘘は弱虫のすることだからだ。だから俺はお前に嘘はつかない。お前も俺に嘘はつくなよ』

 かの幼馴染は、初めて会ったときにそう言った。負けん気の強いキラキラした目で、そう宣言したのである。自分はただただ驚いて、気づいた時には気圧されるように頷いていた。しかしその時から、同い年の彼の前では自分を偽ることはなかった。偽らなくても大丈夫という安心感があったからだ。彼といる時が一番心が安らいだのは、自然体でいられたから。

(ごめん、私は弱虫だった……)

 心の内で、誰へともなく詫びた。

 その後、五奇と四奇は二人並んで座って、移りゆく空を眺めた。しかし途中で二人して眠くなり、日が高くなって気づいた三奇がすっ飛んでくるまで、ずっと薄野の上に寝ていた。


 危うく水鏡先生に抜け出したのがばれるところだったが、二奇や三奇が上手いこと誤魔化してくれたおかげで難を逃れた。代わりに二奇の説教(される側には勿論三奇も含まれていた)が待っていたが、寒い中ずっと外で寝ていた四奇がお約束のように熱を出して寝込んだので、うやむやのうちに流れてしまった。




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