五奇が入山して間もなく、新しい六番目の師弟が書院に入った。年明けたばかりで、まだ山が綿帽子を被っていた頃だった。
 真っ白な雪がすべてを覆い隠す中、彼は佇んでいた。共に来た親らしい男の横で、この上もなく不機嫌な仏頂面を浮かべ、唇を食いしばっていた。
 二奇の後ろから顔を覗かせた五奇へ、彼はギッと鬼気迫ったひと睨みをくれた。その右眼は布のようなもので覆われていた。
 六奇としては、私塾に入れられたことがよほど不服だったらしい。これは今や伝説となっているが、初日の初対面にして、彼は水鏡先生に向かって「うるさいハゲ!!」と罵ったツワモノでもある。慌てた親に強かに殴られ、大きなタンコブを作りながら涙を堪えていたが、ふてぶてしい態度は変わらなかった。

 鑑定の厳しい水鏡が何故彼の弟子入りを許したかは分からないが、そんな六奇の中にも何か常ならぬものを見出したのかもしれない。ともかく六奇はといえば、案内の時も夜食の時もひたすら憮然とした面持ちを崩さなかった。
 五奇とは僅か三ヶ月違いだが、それでも一応年齢的にも兄弟子になるということで、六奇の世話は基本的に五奇が担当することとなった。とは言っても、せいぜい私塾における仕来りや役割を教える程度で、大まかな面倒は二奇が見ていたが。

 というのも、本来なら六奇の世話は四奇と手分けするはずだったのが、彼は恒例のように寒さに寝込んでいたため、それが適わなかったのだ。かと言って三奇に任せれば大戦争が勃発することが初日に分かったので(主に噴火を起こしていたのは六奇で、三奇はそれに笑いながら油を注ぐのである)、高価な文化財の行く末を憂慮した水鏡によって二奇にお鉢が回ってきたのである。
 兄弟子だと紹介された五奇に、案の定六奇は抵抗を示した。まぁ年齢も変わらないので無理はない。

「こんな二又眉の奴の言うことを聞くなんて真っ平だ!」

 これにはさしもの五奇も少々ムッとした。眉毛は人柄と全く関係はない。
 それでもその時は、傍らの二奇が笑顔で醸し出す雪より寒い威圧感に、六奇は渋々口をつぐみ恭順の姿勢を見せた。ちなみに五奇の中ではこの時初めて「師兄のうちで二奇は一番怒らせてはいけない人」という位置づけができたというのは秘密だ。

 だが二奇の見えないところでの六奇の五奇に対する態度に変化はなかった。とにかく攻撃的。話しかけても無視することしばしば。
 しかし五奇は生来感情に鈍い性質なので、あまり堪えてはいなかった。むしろ六奇の感情の豊かさに、驚かされた。どうしてそうも難なく表に出せるのだろうと思った。
 四奇に指摘されて以来、五奇は心にもなく笑うことはしなくなったが、やはり感情の表現の仕方は分からないままだった。嬉しい時、悲しい時、嫌な時、その気持ちが自然に顔に表れない。意識して表現しようとすると、何だか作り物めいていてぎこちなく、それが嫌で結局無表情になってしまう。だから、包み隠さず顔に出せる六奇が不思議でもあり、羨ましくもあった。

 そして、五奇としては二つ目になる衝撃的出来事が、その日に起こった。

 いつまで経っても教室に現れない六奇を、五奇は探しに行った。六奇は入山してまだ一週間というのに、すでに三回授業をすっぽかしていた。このままではいけないと、一応世話を任された使命感から、五奇は六奇の捜索を買って出た。
 望みは薄いだろうと思いながら、試しに六奇に宛がわれた室を覗いてみると、意外にも彼はそこにいた。何やら身支度をしている。

「老六、今日も授業サボったでしょ。いい加減にしないと先生に怒られるよ」
「うっさいな、あんなハゲの言うことなんか誰が聞くもんか」

 六奇は毛皮の上衣を羽織り、五奇を押しのけて室を出る。五奇は慌てて後を追った。

「何処に行くの」
「お前には関係ないだろ」
「先生の許しなく外に出ちゃだめだよ」

 その腕を掴んで止めれば、乱暴に振り払われた。

「口出ししすんなよ、俺が何処に行こうと勝手だろ。言っとくけど、俺お前のこと師兄だなんて認めてねーかんな。お前みたいな女みたいな奴、長江の田舎にすっ込んでろ!」

 真正面から言われ、がぁん、と五奇は頭に衝撃を受けた。悪態は幼馴染にも幾度となく吐かれたが、こんなに手酷いことを言われたのは初めてだった。悲しいのか腹が立つのか分からず、ただ真っ白になっていると、ゴンッ!という大きな音が響いた。

―――ッッ!!!」

 六奇が頭を抱えて悶絶している。痛いと言えぬほど痛いらしい。確かに凄い音はしていた。
 しゃがみこむ六奇の後ろに、四奇が立っていた。綿の入った上衣を重ね着して着膨れながら、ゼイハァと苦しげな呼吸をしている。青い顔はひたすら具合が悪そうだったが、それ以上に目が果てしなく据わっていた。痛みから浮上した六奇が振り向き、涙目で抗議する。

「っにすんだよ!」
「黙れクソガキ」

 ドスの利いた低い声音に六奇がビクッと押し黙った。

「何かここんところうるさいと思ってたら、お前か。何にそんなムカついてるのか知らんし興味もないけど、他人にあたり散らすのはクソ迷惑だ。不満ぶちまけりゃ思い通りになると思ってんのか。そんなにお家が恋しいならお前が帰れ。甘ったれてんじゃねーよ」

 押し殺した静かな口調だったが、内容は容赦がなかった。六奇が何か言い返そうと口を開く。と、右目を覆うように巻いていた布が解け落ちた。あ、と五奇は声を上げる。
 現れたのは、色の違う(まなこ)

「お前、その目」

 四奇がぼんやり呟くと、六奇は慌てて布を掻き揚げ、それからグッと悔しそうに口を食いしばったかと思うと、次の瞬間には大声で泣き出し始めた。あまりにも豪勢な泣き声に、五奇はびっくりして目を見開いた。

「うわぁぁああんっ、眉なしのバカー!!」

 負け犬の遠吠えのような捨て台詞を残して、六奇は庭院に駆け下り裏手に走り去っていってしまった。「失礼な、眉はちゃんとあるわ。ったく騒々しい野郎め」と四奇はブツブツ文句を行って部屋に引っ込んでしまった。どうやら二人が押し問答をしていたのは彼の室の前だったようだ。機嫌が悪いはずである。
 宙ぶらりんになった五奇は、とりあえず六奇を追うことにした。彼はまだここの地理には詳しくない。下手をすれば迷ってしまうかもしれない。それは五奇も同じことなのだが―――

 幸い、降り積もった雪に足跡が残っていたので、どこへ行ったか簡単に辿る事ができた。小さな足跡は、途中派手に転んだ形跡を見せた後、裏手の方へと続いていた。
 更に追うと、山道に続いている。進むうちに、六奇が山道を逸れて、あの抜け道に入ったことが分かった。其処には別の大きな足跡が行き来している。ここ数日華陀が四奇の病を診に来ていたから、彼のものかもしれない。
 恐らく自暴自棄になっている六奇のこと、どうにでもなれとばかりに、この道とも言えぬ細道を選んだに違いない。

 以前四奇とともに朝ぼらけの中を突き進んだ道を、再び通る。やがて林を抜け、あの薄野草原が現れた。
 広い草原から探し出せるか不安になったが、六奇は存外すぐに見つかった。丘のすぐ下で、薄に埋もれるようにして蹲っていたのだ。
 そっと近寄ると、ぶすりとした顔が覗いた。どこかへ落としてきたのか、布はなくなっている。左右色違いの瞳は真直ぐ夕陽に注がれていた。泣き腫らした跡が頬に残っている。
 どう声をかけたものか悩んで黙っていると、六奇の方から言葉を発した。意外なことに、彼の口から漏れたのは、覚悟していたような罵倒ではなく、力の抜けたぼやきだった。

「どうせお前も気持ち悪いって思ってるんだろ」
「何が?」
「目」

 別に、と五奇は応えた。

「無理すんなよ」

 六奇はむすっとして言った。そうではない、と五奇は首を振る。確かに最初に見た時は驚いたが、本当にそれだけだった。今はどちらということもできない。強いていうならどうでもいいということだったが、それは言ってはいけない気がしたので言わなかった。
 そして、にわかにおかしな気分になる。少し前にも同じ台詞を言われたことがあった。その時は別の相手からで、もっと違う響きを含んでいた。今の「無理すんなよ」は、どちらかといえば六奇が自分へ向けた言の葉のように聞こえた。まるでわざと自身を貶めるみたいに。

「俺は本当はこんなところに来たくなんかなかったんだ。なのに親父達が無理やり連れて来て、置いていきやがった。俺、きっと捨てられたんだ」
「何でそう思うの」
「だって俺、自分で言うのも何だけど超悪ガキだったんだもん。大人連中って結構単純でさ、すぐ騙されてやんの。いつだったか、里長の邸に柿がたくさん成ってたことがあって、おっさん二人唆して取り合いさせたりしてな。根こそぎ持っていかれて、里長涙目で、残り少ない毛が更に抜けちゃって。あれはちょっと可哀想だったかな」

 五奇は何だか段々微妙な気持ちになってきた。確かに六奇の所業は手に負えないものではある。
 しかし彼は捨てられたと言っているが、それよりむしろ―――

「そんなふうに調子に乗ってたから見捨てられたんだ。でも俺、帰りたいよ。もし帰れるなら、今度は絶対いい子でいるから」
「帰れるよ」

 五奇の言葉に、六奇がムッと頬を膨らませた。

「テキトーなこと言うなよ」
「適当じゃないよ」
「なんでそんなこと言えんのさ」
「だって老六は捨てられたわけじゃないんから」
「お前にそんなこと分かるのかよ」
「分かるよ。だって、老六のお父さんは、老六にきたい(、、、)してここに連れてきたんだから」

 きたい?と六奇は瞠目して瞬いた。

「そうだよ。水鏡先生の所には、将来軍師になるための勉強をする人が集まってるんだ。頭のいい子を集めて、特別にえいさい(、、、、)教育をするんだって」

 だから五奇は遥々江を遡って、ここまで来た。一族と故郷の期待を背負って。しかし六奇は信じられないという風に、パチパチと瞼を閉じたり開いたりしている。

「水鏡先生は、門下で一番優秀な二人に、『臥龍』と『鳳雛』って名前をあげるんだって」
「『がりょー』と『ほーすー』?」
「寝ている龍と、鳳凰のヒヨコって意味。どっちかの名前がもらえるといいんだって。私は父上に頑張りなさいって言われた。だから一生懸命勉強する。そうするとみんな喜ぶから」
「喜ぶ? 本当に?」

 確信を込めて五奇が頷くのを、きらきらした目で六奇は見ていた。

「じゃあ俺、ほーすーがいいや。龍ってあの蛇みたいな奴でしょ。俺、蛇より鳥の方がいい。鳥は空の王者だもん」

 にわかに立ち上がって、空を受け止めようとするかのように両手を広げる。「鳥肉の方が好きだし」
 うきうきと言う六奇は、先程と打ってかわって輝いた面をしていた。本当にころころと表情がよく転じる。それがくるりとこちらを向く。二つの眸がきょとんと丸くなった。

「……お前、何で泣いてんの?」
「よく分かんない」 

 自分でも不思議だが、五奇は泣いていた。不意に眼球の奥が熱くなって、気づけば泪が出ていた。

「多分、老六のせい」

 六奇があまりにも憚りなく盛大に泣くものだから。その音があまりにも大きくて悲しくてびっくりしたものだから、こちらまで泣きたくなってきた。俗に言うもらい泣きというやつを、五奇は初めて経験した。

「俺のせいかよ」

 六奇は困った様子だったが、段々先程の名残が甦ってきたのか、ジワッと目尻に滴が湧き上がって、慌ててゴシゴシと擦っていた。「もう何でもいいや。帰ろうよ」そう六奇は言った。

 そうして二人して山道を泣きながら歩いた。館に辿りついた時、待っていた師兄や下人たちがそれを見て大いに驚いていたのが眼裏に焼きついている。そして例の如く二奇のお説教もその後に待ちかまえていたわけだが。
 その時以来、「老二は絶対に怒らせない」が六奇の中でも鉄則になったとかなんとか。




 歳神の去りゆく晦日に、室の掃除をしていた五奇は、古い日記帳を手にして懐かしい日々に思いを馳せ、微笑んでいた。今の今まで、その存在自体を忘れさられていた日記帳は、五奇が此処に着いた時からつけ始めたものだ。当時の自分が何を考えていたかが拙い言葉で綴られているのが、何とも照れくさい。
 ふと、庭を挟んだ向かいの室から、七奇と目が合った。フイと外される。今や五奇の弟弟子は三人になっていたが、中でも七奇だけは未だに懐くことはなく余所余所しい。どうも嫌われているらしいのだが、五奇としては何故そこまで嫌われるのか心当たりがなく謎である。とりあえず気にしないことにしていた。
 兎も角、と五奇は日記帳を函に仕舞おうとする。恥ずかしながらこれも成長記録ということで、自らの戒めにしようという心積もりだった。が、

「何それ? 老五の(ポエム)手帳?」

 いきなり後ろから六奇が覗き込んで、手元のそれをヒョイッととりあげる。彼は今では劣等感の象徴だった右目を隠すことなく、むしろ妙な化粧を施して個性を主張している。この辺は三奇と全くいい勝負だが、六奇の場合性格に成長がないのが難点である。

「老六、冗談が過ぎるぞ。返せ」

 押し殺した声で脅しながら、取り返すべく手を伸ばす。しかし六奇はますます面白がって、日記帳を読み上げながら逃げ出した。

「えー何々、『今日僕は水鏡先生のお屋敷につきました』。何だこれ日記?」
「いい加減にしろ、老六。私的侵害だぞ!」

 慌てて止めようと追いすがるも、六奇は巧みに逃げる。本当にこういうことだけには無駄に目敏い上にすばしこいから厄介な男だ。

「おもしれー! 『僕は弱む―――』」
「老六!!」

 背筋に冷や汗をかく思いで、逃げる裾を掴みかけたその時、前方から現れた人影に急停止を余儀なくされる。

「遊んでないで仕事しろ!」
「ぐおっ」
「うっ」
「!!」

 しかし猛速度で走っていたため、止まりきれずに激突する。六奇が二奇にぶつかって悲鳴をあげ、更に玉突き的に五奇が衝突し、三人はもんどりうって倒れこんだ。
 その拍子に六奇の手の中の日記帳が吹っ飛び、高覧の下の庭院に熾された炎の中へ落下する。焚き火をしつつ、ちゃっかり大掃除をサボって暖まっていた三奇と四奇が「何だ?」とばかりに瞼を瞬いた。
 しかし取り上げる間もなく、乾燥した古布の日記帳は見る間に火につつまれ、勢いよく燃えて黒炭となってゆく。
 呆然と高覧からそれを見ていた六奇が、ハッと気づき、引き攣った愛想笑いを浮かべる。

「老六……」
「わ、悪い。悪かったって。ほらこれはさ、あの、不慮の事故というもので」
「確か鳥肉が好きだと言っていたな。よし分かった。挽きか厚切りか切り落としか、好きなものを選ばせてやろう」
「老五、どうしたんだいつもより口数が多いじゃないか。あウソウソ冗談です! ってか目が、目がマジなんだけど」
「覚悟はいいか?」
「ギョェエー!!」

 鳥と言うより蛙が潰れたような盛大な叫び声が、晦日の空に響き渡った。
 三奇が暢気な口調で感慨深気に頷く。

「老五もなかなかいい性格に成長したじゃないか」

 そうだな、と、逃げ惑う六奇と追い掛け回す五奇を眺めながら、四奇も微笑う。それから視線を動かし、

「なあ、それよりもそこで気絶してる老二どうにかした方がいいんじゃない?」
「うーむ、確かに」

 パチン、と炎が爆ぜ、黒い灰が舞った。




  傷つくことを恐れて 自分を偽ってた 何も分からない振りで
  もがけばもがくほど 遠ざかるEXIT 彷徨って 歩く 光探し求め

  夢は必ず叶うと 瞳を輝かせた 幼い頃の自分に
  会えると信じてる 見えない仮面取り去って 光出会う




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