司馬懿は鈍痛を訴える頭を煩わしい思いで抱えながら、眉間を険しくしていた。
 目が覚めれば、何故か自分の邸の自分の室の牀台の上にいた。ぼんやりと起き上がると、ズキズキと傷むこめかみに昨夜自分が酒楼で酔ってそのまま寝てしまったことを思い出す。
 あの青年がここまで運んできてくれたのだろうか。いや、自分の名も身分も明かしてはいなかったはずだ。なのに何故邸を知っていたのか―――
 扉より顔を出し「ああ、起きられましたか?」と穏やかに微笑んだ妻に、自分を邸まで連れて来てくれた者のことを訊く。

「二十歳そこそこの若者であったか」
「いいえ?」

 妻はおっとりと首を傾け、否定した。その答えに司馬懿も同じほうへ小首を傾げる。
 あの青年でないとすれば一体誰が。

「お若い方でしたけれど、三十路前後はいっていたと思いますわ。身なりは平衣でしたが、夫君(あなた)の同僚だと仰っておりました。たまたま酒楼で酔いつぶれているところを見つけて運んできてくださったのだと」

 同僚?―――ますます司馬懿は困惑する。
 自分をわざわざ家にまで運んできてくれるような親切な同僚などいないはずだ。全く誰なのかが思いつかない。
 そんな状況の中、はたと気づけばもう出仕の時刻が迫っており、慌てて身づくろいだけして出てきたのだった。
 だが悲しいかな、ガンガンと脈打つ二日酔いの頭痛のために、朝議の内容の殆どが入ってこない。もう二度と安酒で悪酔いなどするものか、と司馬懿は固く心に誓う。
 だがそれの他に、司馬懿には昨夜の出来事が気にかかっていた。まるで夢のように思えてならない。
 頂きに立つ者の気を纏った玲瓏たる青年―――結局名も告げなかった彼は一体何者だったのだろうか。もしやあれは、酔いが見せた都合の良い幻だったのか。それとも、彼こそがあの男の言っていた「良いこと」なのだろうか。
   決議など右から左で、つらつらとそんな事に意識を泳がす。

「それでは以上を持ちまして本日の決議は―――

 すべての議題が終わり、曹操の側に立つ荀彧が終了の合図を口上しようとしたその時、

「失礼いたします」

 唐突に、よく透る声が響いた。
 ふわ、と一瞬だけ頭の痛みが引く。
 振り返ってみれば、一人の官吏が広間の入口際で拱手を掲げている。
 頭を低く下げるその官吏の姿は、朝日に逆光となりよく見えない。
 ざわりと広間がさざめいた。
 一同の注目を浴びる中で、官吏は悠然とした態度で姿勢を正し、曹操の前へ歩いて来る。
 厚顔なのかよほど肝が据わっているのか。朝議と言う重要な場に大幅に遅刻した(というか最早終わりだ)のにもかかわらず悪びれた様子が無い。しかし司馬懿はむしろ頭痛の方が重大で、その官吏が目前に近付いたときもそっちのけで顔を顰めながら視線を足元に落としていた。

「二日酔いか?」

 間近から、聞き覚えのある柔らかい囁きが降ってきた。
 ガバッと顔を上げる。

「あの程度でそれでは、まだまだ未熟だな」

 にやり、と浮かぶ不敵な微笑。
 司馬懿はあんぐりと口を開けた。

「……!?」

 こぼれんばかりに目を剥く。
 あの男()だった。
 凛然と官服を着こなし髪を結い上げていたため一瞬迷ったが、紛れもなくあの時の―――梅庭の男だった。
 男は司馬懿の前を過ぎる瞬間、ぽかんと間抜け面を浮かべる司馬懿に目を細めると、何事もなかったかのようにまた正面に向き直った。

(な……な!?!)

 驚く司馬懿を余所に、壇上の曹操が半身を起こし、喜色露わに言った。

「おお、奉孝か! ようやく出てきたな。身体の方はもう良いのか?」
「ええ。そうゆるゆると休んでもおられませぬ故」
「ほう、お主の口からついにそのような殊勝な言葉が聞けるとはな」
「さすがに退屈のあまり黴が生えるかと思いましたよ」

 歌うように述べる声は笑みを含んでさえおりいささか不遜に聞こえる。だが曹操はそんな憎まれ口すら好ましいかのごとく、声を上げて笑う。

「ははは、確かに大切な我が軍師祭酒殿の脳袋が使い物にならなくなっては困る」

 側に控える荀彧や程昱などは苦笑を浮かべるばかりだ。だが司馬懿はそれどころではなかった。曹操の発した男の名に気を取られる。
 『奉孝』?
 どこかで聞いた字だ。
 そこで、そうだ、と思い出す。
 郭奉孝―――司空軍祭酒、郭嘉だ。
 何故気づかなかったのか。
 遠目ながら何度か見たはずだ。確かに、あの時の郭嘉は髪を降ろし、今よりももっと血色が悪かった。そのせいか感じが違って見えたが―――
 唖然と混乱する司馬懿とは対照的に、泰然とした様子で郭嘉は恭しく拱手を掲げる。

「閉議の前に、恐れながらひとつ殿へ是非とも奏上仕りたき儀がございます。お許し願えますか」
「何だ、申してみよ」
「僭越ではありますが、司馬仲達殿の人事についてでございます」

 突然思いも寄らぬ場所で飛び出た自分の名前に、司馬懿は度肝を抜かれる。
 一体何を言おうという気なのか。
 郭嘉は瞼を上げ、真っ直ぐ曹操を見上げた。

「折角辟召されたかの者に、今の官位はいささか役不足かと存じます」

 ふむ、と鼻を鳴らす曹操。その目は怪訝そうに、寵臣の意図を探るように細められる。
 郭嘉は言った。

「つきましては、司馬仲達殿に相応たるお役目をお与えになるべきかと」

 告げられた言の葉に、曹操が瞠目する。それは驚くだろう。そもそも郭嘉は軍師祭酒。曹操の軍事諮問が職務であって、人事について公の場で献言するのは本人の言う通り僭越の何者でもない。
 ところが曹操は咎めることなく、苦々しい表情で「まさかお前」と唇の動きだけで呟いた。笑み続ける臣下の顔を見据え、やられたとばかりに目元を片手で覆う。

「……相分かった」

 困り果て―――目を伏せ降参の色を宿しながら、曹操は片手を挙げた。

「司馬懿よ」
「は―――

 僅かに慌てて、司馬懿は低頭する。

「実はな、昨日お主を是非にも欲しいと言ってきた輩がいる」
「……は?」

 曹操の言わんとしていることが分からず、礼も節も忘れて司馬懿は思い切り眉を潜め間抜けな声を出す。
 だが曹操は非礼を咎める風もなく、厳かに告げた。

「どうしてもお前でなければと言って聞かぬのだ。故に、これよりお主にはそやつの教育係を命じる」

 話はそれだけだと言って、ひらひらと手首を振り追い払う仕草をされる。
 だが司馬懿には何が何だかさっぱりだ。一体どこのどいつの教育をするのか。

「朝議は以上だ。皆解散せよ」

 当惑している司馬懿を差し置いて、曹操はさっさと席を立ち奥へ姿を消す。一同も倣って次々と広間から退出していきながら、呆然と立ち往生している司馬懿へチラチラと視線を投げかけ囁きを交わす。その中から、ぐいっと司馬懿の腕を掴み引く者があった。

「仲達」

 府内で司馬懿の字を呼び捨てる者はいない。驚きと共に見やれば、郭嘉だった。

「貴……っ」
「こっちだ」

 文句の一つでも言おうとした司馬懿の口を封じ、郭嘉は司馬懿の腕を引っ張って行く。

「待て、私を何処へ連れて行く気なのだ!」

 有無を言わさず自分の職場とは逆方向へ進む背に、とうとう堪えきれなくなって怒りが口をつく。つい冷静な仮面が取れて素に戻ってしまっていたが、そんなこと気にとめていられない。
 こちら側は政を行う公的執務室とは離れた後宮側だ。
 それでも郭嘉は一向に足を止めることなく、

「着けば分かるよ」
「またそれか! そもそも貴殿には色々と言いたいことが―――
「はいはい、それはあとで聞いてやるからな」
「なっ……おいコラッッ」
「着いたぞ」

 一方的にギャーギャー言っているうちに回廊を右へ曲がり左へ曲がり、いつの間にか一つの大きな室の前までたどり着いていた。
 郭嘉は司馬懿の腕を放すと、畏まった素振りで拱手した。

「子桓さま、奉孝です」
「ああ」

 中で応じる声があった。どこかで耳にした、涼しい声色。

「司馬仲達をお連れしました」
―――入れ」

 郭嘉が所在無く立ち尽くしている司馬懿へ目配せする。

「行けよ」

 背中を押される。振り向けば、ニッコリと人を食ったような笑顔と目が合った。

「大丈夫さ―――お前自身の目で確かめて、自分の生き方を決めて来い」

 柔らかく推されるまま、室の中に踏み込む。目遮の衝立を横切り内へと足を進めれば、そこには整然と積まれた書物の山。あたりには補充用の料紙や墨も多く置かれている。
 その中央にある卓の前に、今誰かがこちらに背を向け座っている。
 彼は、司馬懿が入ってくると動かしていた筆をゆっくりと置き、立ち上がった。衣擦れの音が静かに響く。
 振り向いて現れた顔に、司馬懿はハッと息を呑んだ。

(昨晩の―――!)

「私が曹子桓だ」

 青年は司馬懿を見据え、冷然と告げた。その名に司馬懿はようやく合点がいった。
 曹丕。曹子桓。曹操の次男。

(ああ、そうか。だから……)

 見たことがある、と思ったのは当たり前だった。似ているのだ彼は―――父親(そうそう)に。
 何より強い意志を秘めた、その切れ長の鋭い瞳が。
 すべてが繋がった。郭嘉の言葉の意味が、ようやく分かった。
 まるで曇雲の隙間より陽光が差すように、活路を見出だす。この青年に、自らの生きる道を。

「仲達よ」
―――は」

 若いながら威厳溢れる呼び声に、反射的に首を垂れる。
 その司馬懿の姿をひたと見据え、曹丕は言った。

「私はまだ父に遠く及ばぬ。知ってゆかねばならぬ事も多い。―――私に、手を貸してくれるか」

 新しき世を創る。国を、人を、栄え和に導く、その道を、造る。
 ああ、そうだと思った。
 気づけば、司馬懿は跪いていた。
 それが答え。
 曹丕の笑みが深まる。
 司馬懿は目を伏せ、厳粛に応えた。

「仰せのままに―――我が君」

 ああ、見つけた。
 ようやく見つけることができた。
 彼こそが、私の―――




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