日が落ち、城の泥土作りの表面一体が茜に染まる頃。
 勅使にと用意された貴賓室内にて二人の男がのんびりと茶を飲んでいた。

「恋煩いの相談?」
「ええ、そうなんです」

 ふーんと相槌を打ちながら、郭嘉は手にしていた菓子を齧って目を細める。さすがは名菓子と評判なだけはあり美味い。しかし今日はまた妙な符号が重なるなと、昼間開いた恋愛講座を思い浮かべつつ、甘味が残る舌の上に香り豊かな茶を含ませた。

「なんでまたいきなり」

 それがですね―――と、茶を碗に注ぎいれていた周瑜は困ったように溜息を吐いた。

「今日……さる方が来られて、是非ともどうにかして欲しいと相談を持ちかけられまして」
「それって昼間の?」

 さる方、の部分で周瑜が一瞬躊躇ったことに引っかかりを感じながら、あえて誰とは問わずそこを尋ねる。

「そうです」

 神妙に頷く周瑜。実は問題なのは彼の弟なのだが、そこはあえて伏せておく。この勘の良い男相手ではバレかねないからだ。別に機微な話ではないが、何となく身内の恥を晒すようで気が引けた。

「少々返答に困っているんです。私もそこまで男女の事に精通しているわけではありませんから」
「美周朗なんて呼ばれて結構モテモテだって話だったけど?」
「その呼び方やめてください」

 途端、周瑜は渋面になる。当人は不本意な呼び名らしい。

「確かに女性から言い寄られることはありましたけど、私も色々とやることがたくさんありましたし、そのような余裕もなかったのですべてお断りしてました」
「おお、おっ固いの」

 信じらんねーもったいねーと野次る男を周瑜はジロリと上目遣いに睨めつける。

「年中妓楼通いのサボり魔と評判の貴方と違って、私は忙しいんですよ」
「仕事を理由に女を顧みない男は朴念仁と相場が決まっているんだ」

 郭嘉はにやにやと切り返す。周瑜はがっくりと額を覆った。全く口ではこの男には敵わない。

「あれ、でも公瑾殿はもう奥さんいたよな」
「ええ、先だって娶りました」

 ふと思い出した風に郭嘉が訊くのに、周瑜は肯いた。そう、実は周瑜はつい数ヶ月前に婚礼を挙げたばかりである。小喬と一般的に名高い晶とは、まさにほやほやの新婚夫婦だった。年にして建安四年のことだ。
 実はこの婚礼にいきつくまでには、ちょっとした逸話がある。




 そもそも始まりは皖城を攻め落とした後のこと、孫策が発した言葉であった。

「美女と名高い、橋公のとこの二喬を見に行ってみないか?」

 皖城には人物鑑定名人で名高かった橋公こと橋玄、字公祖がいた。橋玄は当人だけでなく、その二人娘もまた才色を兼ねた絶世の美女として有名で、人々からは「二橋」と呼ばれ親しまれていた。孫策が興味を抱くのも分かる。
 だが周瑜のほうは彼ほどには乗り気ではなかった。賢人として知られる橋玄には一度会ってみたいとは思えども、娘の方には興味がない。もともと恋愛や結婚と言ったことに積極的な性質ではなかったし、それよりもやらねばならない仕事がたくさんあったので、その時は「私は結構ですので、どうぞお一人で行ってきてください」と答えた。
 素っ気無い周瑜の態度に孫策はむむ、と不満気に顔を渋らせながらも、それならば、と一人で出かけた。
 そして日が暮れる頃にようやく帰城したかと思えば、周瑜の室に飛び込むや一声かましたのだ。

「決めたぞ公瑾、俺は大喬を嫁に貰う!」
「……はぁっ?」

 唐突なことに、さすがの周瑜も呆気に取られた。だが孫策の様子を見ていると、ただの思いつきや一時的な感情によるものでもなさそうだった。どうやら相当お気に召したらしい。
 頼みもしないのに孫策は見てきたものについて、あれやこれや己の持ちうる語彙を最大に活用して周瑜に聞かせた。

「どうだ、お前も一度言ってみろよ。ほんとすげぇから!」

 それほどまでに孫策の心を捉えた二橋に周瑜は少しだけ興味が湧いたものの、それでもやはり訪れるほどには至らなかった。
 その翌日も、その翌日も、孫策は三日となく大喬を訪ね続け、口説き続けた。最初はのらりくらりと返事を流していた大喬も、徐々に孫策に絆され、ついにその求めに応じて、二人は婚姻の約束を交わしたのだった。
 そんなある日のことである。すっかりお馴染みになった橋家の庭の桃園を二人で散歩しながら、会話に華を咲かせていた。
 ところが、楽しく談笑する中で、ふとした瞬間に、大喬が時折物憂げに顔を曇らす。気になった孫策が訳を尋ねると、

「いえ、それが……」

 妹のことで、と大喬は嘆息した。

「小喬か?」
「ええ……」
「なんだ、言ってみろよ」

 歯切れの悪い大喬に、孫策は気軽な調子で促す。
 すると大喬は意を決した風に孫策を見上げ、

「私が伯符様にお興し入れするのはよいのですが……そうするとあの子が一人になってしまいます。それで悩んでいるのです」

 と言った。二橋には他に兄弟がいない。母も早くに他界したとのことだった。二人は幼いころから手に手をとって助けあいながら育ってきたのだという。

「それが心配で。どなたかあの娘を貰ってくださる殿方がおられればよろしいのですけれど」

 頬に手を添えほう、と溜息をつく大喬。そんな姿ですら美しいなどと完全な色ボケ思考に浸りつつ、孫策は首を傾げた。

「お前の妹もお前に負けず劣らず美人で賢いじゃないか。あれだけの器量よしならそう心配せずとも男の方が寄ってくるだろ」

 世辞抜きにそう意見すると、大喬はおもむろに袖で口元を覆い上目遣いで孫策を睨んだ。

「あら意外。貴方が妹のことをそんなに評価してくださっていたなんて」
「なんだ、妬いたのか?」
「お戯れを」

 揶揄半分に肩を抱こうとしてきた孫策の手の甲を抓り上げながら、大喬はクスクスと含み笑う。
 だがその美笑も、すぐさま元の物憂げなものにとって変わる。

「冗談はさておき、実際の話そう簡単にもいきませんの。妹は気性の強い性質で、その上ひどく面食いですのよ。これまでも何人もの殿方が是非嫁にと申し込まれたのですが、ことごとく難題を出してはお断りしてしまう次第で」
「成程なぁ」

 孫策は抓られた手の甲を摩りながら、相槌を打った。昨日ちらりと会ったが、姉に負けず劣らずの美貌はたおやかであるのに、姉とは違った、手強そうな意志の強さを感じた。
 うーむ、と悩む孫策の脳裏に、その時ふとある顔が過ぎった。そしてピンと、良いことを思いつく。

「おう、そうだ! そんなら丁度いいのがいるぜ」

 指を鳴らし、孫策が大喬へ満面の笑みを向ける。

「顔良し頭良し、剣と楽の腕は一級品、性格は控えめ。しかし頑固者と来た。小喬の好みにもぴったりじゃないか。絶対気に入るぜ」

 任せとけ―――自身有り気に孫策はそう言った。

 そうして翌日。早速橋邸に引っ張られてきたのは、果たしてというか、言わずもがな周瑜である。
 乗り気でないところを「一度でいいからさ! な! お前も一目見たらぜってぇ気に入るって! マジマジ、俺が保証する!」などと色々言われ、半ば強引に連れてこられた。

「伯符様、やはり遠慮しておきます」
「お前ここまで来て何言ってんだ。いいから一目でも会っていけって」
「ですが」

 こういうのは好きではないと渋る周瑜をなんとか宥めすかすも、本人は最早帰らんとまでしている。
 見事な庭院で二人が小声で言い争っている中に、不意に凛とした声がかかった。

「我が背の君、ようこそおいでくださいました」
「おう、我が愛しき妹よ!」

 振り向いた孫策の顔が一転ぱっと明るくなる。人目気にせず妹よ(おまえ)背よ(あなた)と呼びかけあう二人に呆気にとられつつ、周瑜もつられてそちらを見た。

「約束通り連れてきたぞ。こいつが俺の幼馴染で右腕の周公瑾だ」

 ぐいっと力いっぱい腕を引っ張られる。つんのめりそうになりながら前へ出ると、可憐にして優美な、華のごとき二人の女性が佇んでいた。
 大輪の華のように艶やかな女性。彼女が大橋だろう。とするとそのやや後ろでこちらを見つめているのが―――
 周瑜は瞠目したまま静止した。

 小喬。

 薄紅色の衣に、華簪を挿して華やかに飾った彼女は、姉でも孫策でもなく、周瑜をひたと静かに見つめていた。
 魅入られる。美しさもさながら、何よりもその秘めた光を持つ瞳に。
 固まった周瑜の様子を見て、孫策が横で大喬に目配せをして自慢気に鼻を鳴らした。
 一方小喬はといえば、

「どう晶。素敵じゃなくて? 私もお目にかかったのは初めてだけれど、噂以上に麗しい方じゃないの。若くして孫堅様にも期待された聡明な方という話だわ」

 大喬は嬉しげな笑みを隠さず、こっそり妹に耳打ちする。
 小喬は答えず、ただ周瑜を見つめていた。彼女も最初はあまり乗り気でなかったのだが、そこを姉に「一度で良いから」とせがまれて、仕方なしに着飾られるまま足を運んだのだ。
 しかし周瑜を見た途端、それらのことがすべて頭から消えた。
 目を奪われた。顔とか姿とか、そういうのではなく心が、魂が彼に共鳴した。まるで出逢うのを待っていたかのように。もしかすると、これが一目惚れというやつなのだろうか。
 しかし、小喬はそれを口にしなかった。姉にも無言を返した。これは取るに足らぬ意地。そうと分かっていても、簡単に自分の心に芽生えた感情を認めたくなくて。また周瑜が噂どおりの人傑なのか、それとも見た目だけの男なのかを試すつもりで、持っていた絹扇に、おもむろにこんな詩を認め始めた。


  一個大喬ニ小喬     (姉は大喬 妹は小喬)

  三春容貌四季嬌     (華のような姿は季節の美を兼ね)

  五顔六色調七彩     (その面は色の調べと彩りを帯び)

  難劃八九十分描     (絵筆ではとても描ききれない)


 そして自身の書いた字列を一度だけ眺めた後、これを周瑜に渡した。
 だが、これこそが小喬の難題であったのだ。

「この扇の表に、今わたくしが一から十までを折りこんだ詩がございます。この詩に、逆から読んだ答詩を一晩のうちに作り、扇の裏に記してお返しくださいませ」

 にっこりと、紅唇を弓形にして小喬は言った。
 目の前の男が見掛け倒しでは面白くない。本当に彼が賢才であるならば、かならずこの謎掛けが解けるはず。
 これに周瑜は先ほどとは別の意味で驚いた。だがそれで、この美女がただ美しいだけの人形ではない事を悟り、逆に面白いと思う。
 それまで彼に懸想して言い寄ってきた多くの女性とは違い、自分の見た目に捕らわれず、真っ向から対等に真価の勝負を挑んできた女性。しなやかで強い芯を持つ瞳。
 こんな女性は初めてだった。

「おいおい、大丈夫か?」

 帰り際、扇をくるくると手で弄びながら思案にふける親友に、さすがに孫策は不安げな眼差しを送った。自分としてはまさかこのような展開になるとは思っていなかったのだ。小喬が今までの男達に振りかけた難題は、ただの断る口実だと思っていたのだ。だから周瑜を見れば絶対小喬も認めるだろうと、安直にそう思って疑わなかった。それがこんなことに―――
 邸を辞す時の、大喬が心配げな表情を向けてきたが、もうこうなっては周瑜自身に祈るしかない。

「まぁ、折角あちらからの挑戦ですから。何とか考えてみます」
「おう、頑張れよ」

 最早それしかいえぬ孫策はその後居城へ戻り、周瑜はその難題を自宅へ持ち帰った。
 受け取った、ということは、すなわち勝負を受けた―――つまりこの嫁取りに少なからず気持ちがあるということだ。はじめに杞憂していた周瑜側の感情がこれで良い方に向かったということは、孫策にとって少なからず希望であった。
 周瑜自身も、別に自信があったわけではない。だが、不思議とこの勝負には負けたくない、とそう強く思った。一刻も考えれば何かしら出来るだろうと、その時は暢気に構えていた。
 ところが、しかし。小喬の出した問題は、どうしてなかなかな難関であった。一刻どころか、二刻考えても何も出て来ない。
 答詩は十から始まるものを作らねばならない。
 簡単そうに見えて、いざ言われてみるとそう思いつかぬものだ。だが時間が無いのも事実。刻一刻と過ぎてゆく時に気持ちはあせるばかりで、余計にいいものが浮かばない。

(不味いな……)

 長いこと詩と睨み合ううちに、どつぼに嵌って行くのを感じた。これはよくない、と周瑜は思い立ち、気分転換のために外の空気を吸おうと表へ出た。

「ふぅ」

 真夏なだけあって、夜でもさすがに暑い。だが室内に篭っていた時よりは少しすっきりした。
 見上げた夜空にぽっかりと浮かぶ今宵の月は、いつもに増して美しい。ぼんやりと見とれる。
 そして、ふと思い出す。
 今日は八月十九日。
 走廊の横を見やれば、七人の見張りの者が一人を残して全員眠りこけている。
 そうしているうちに遠くで鶏が三度鳴くのが聞こえた。
 八月十九日。眠る見張り。三度の鶏声。
 はっと閃いた。周瑜はすぐさま踵を返して室に戻ると、筆を取って繊細な絹の上に躊躇なく墨を走らせた。
 これしかない、という意志を籠めて。

 十九望月八成園   (十九夜の空の月は八分)

 七人巳有六人眠   (七人のうち六人が眠り)

 五更四点鶏三遍   (鶏が三度鳴いて五更四時を告げる)

 ニ喬出題一夜難   (二喬の難題に悩みついに一夜を明かした)

 そして、半ば全力疾走に脱力朦朧としながらできたばかりのこの詩を使者に持たせ、橋玄の家へ届けさせたのだった。
 小喬はこれを目にし、満足げに―――艶やかに笑ってみせたという。
 こうしてめでたく孫策と周瑜は、大喬小喬を娶り、そして契りだけではなく正式にも義兄弟となったわけである。




 この経緯を細作(あの無表情で語られた時には正直構えたが)より聞いたとき、郭嘉は思わず口笛を吹いたものだ。

「恋愛経験がどうのとか朴念仁発言かましてたわりに、結構掴むところはしっかり掴んでるんだな」
「まあ……ある意味で一目惚れというものだったのでしょう。私も晶も」
「互いに素直じゃないなー」

 上手いこと一夜で作れたから良いものの、もし作れなかったら小喬はどうするつもりだったのだろうか。謎である。

「しかし今思えば我ながらもっとマシな詩句はなかったのかと思いますね」

 ニ喬出題一夜難とは、と途方にくれたように笑う。

「確かに『あんたの出した問題の答えがなかなか思いつかなくて、悩んでたら結局徹夜しちゃったよ』じゃぁ、カッコもつかんよな」
「ね……眠かったんですよ。焦りやら何やらで全く思い浮かばなかったですし」
「いつも冷静沈着なあんたがそれだけ焦ったっつーなら、それはきっと本物だったってことなんだろうよ」

 はた、と周瑜が瞬く。そうだ。そうかもしれない。未だかつて、危機とは別にあそこまで焦ったことはなかった。
 晶に認められたい一心での、情けなさも何もかもか曝け出した自分の詩だった。
 気づいてから、頬が熱くなる。思わず口元を覆って顔を背けた。今頃気づくなんて。その様子を見て郭嘉が無邪気に笑う。

「公瑾殿って見かけによらず熱い男だな」
「く……」

 悔しいが自覚があるがゆえに否定できない。
 郭嘉はいたって楽しげに笑っている。このまま転がされては敵わない、と周瑜は半ば強引に話を変えた。

「そういう貴方はどうなんですか?」
「ん? 俺?」

 いきなり話を振られ、郭嘉は自分を指差し瞬く。

「貴方もすでに妻帯されていると聞きましたが」
「ああ、うん。そう」

 あっさり答える郭嘉に、周瑜はむしろ感心したように嘆息する。

「女誑しで有名な貴方を夫にするとは、なんて心の広い女性なんでしょうね」
「そりゃそうさ。何せこの俺のかみさんだからな」

 そう言う郭嘉の表情は隠すこともなく嬉しそうだ。周瑜は軽く目を見張る。―――このような表情もするのか。

「公瑾殿のところのように名家でも才媛ってわけでもないけど、胆のしっかり据わったいい女だよ。いっそ男よりも男らしい」

 何か思い出したのか、ふふ、と含み笑いをする。

「何たって、最終的にはあっちが嫁に来たというよりこっちが婿に取られちまった感じだからな」

 周瑜が訝しげにしている。もちろん今のは喩えだが、それでも最終的にはこちらから請うて嫁入りしてもらったという勢いではなかった。

「何せ告白の言葉が、『あんたみたいな甲斐性なしの駄目男、私くらいの女がついてなきゃ面倒見きれないでしょう』だからな。あまりのオトコマエぶりに思わず惚れ直しちゃったよ」




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 周瑜と小喬の結婚話はいわゆる民間伝承です。かなり脚色入れちゃいましたが。
 他にも色んな伝承があります。「小喬恐妻物語」とか笑




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