郭嘉と彼の妻は、郭嘉が曹操に召抱えられるずっと前、まだ許昌に遊学をしていたころに出逢った。
 
「街角で売り子をしていたんだ。富豪でも良家でもない、本当にただの平民さ。でも、片やしっかり者で気さくな看板娘と、片や終日享楽三昧をの軟派男だろ? 当時は『一体何故あの二人が』と周りからはさんざん不思議がられたもんだよ」

 郭嘉はその思い出すら愛おしいか、すっかり日が沈んで仄青く輪郭を型取る庭院を、目を細めて眺めやった。そして回想する。
 顔立ちは愛らしかったが、世間的に見れば十人並みな方であったろう。楽を嗜んでるわけでもない、何か秀でた芸が出来るわけでもない。たださばさばとしていて、情に強く、己が身一つでどこまでもいける逞しさを持った娘だった。道行く人に明るい声をかけては笑顔で商品を売る彼女を見かけるうちに、強く惹かれた。その生命力の強さに、己にはない眩しさを感じたのだった。彼女の放つ輝きが、彼女自身を美しくしていた。
 決して学があったわけではない。しかし世の道理を知る敏い女だった。だから婚姻後もなかなか家に帰らずフラフラと好き勝手放蕩している夫に、小言をいいつつも決して見放したりはしなかった。それゆえに郭嘉も甘じて後ろを任せることができたのだ。

「いやーそれでもさぁ、これでもはじめはフラレまくってたんだよ」
「貴方がですか」

 意外そうに目を丸くする周瑜に、深々と肯いて是と示す。

「ま、俺もそん時はまだガキだったしな。何度も何度も口説きに行っても脈なしでばっさり。それでも懲りずに会いに行ったもんだ」

 ちなみに記念すべき初会話での第一声は、「おととい来やがれ、このスットコドッコイ」だった。思い出して、口元に拳をやって小さく笑う。
 それまで周りにいたのは、甘い言葉でころころ落ちるような女や駆け引きに長けた玄人ばかりであったから、そうした反応がある意味で新鮮だったのかもしれない。彼女はどちらかといえば郭嘉のような遊び人を軽蔑しており、身持ちが硬かった。まさに難攻不落の城のごとしだ。
 しかし根はひどく情に強い性質であったものだから、きっと病弱なくせに私生活が出鱈目な郭嘉のことが内心放って置けなかったのだろう。まあ、あちらの方が年上であったということもあって、当初は弟気分だったのかもしれない。

「何度も怒られたもんだよ。やれ酒をもっと控えろ、夜遊びをするな、滋養のあるものを食えってな。少し熱があるってバレると問答無用で牀台に引っ張っていかれた。何も艶っぽいことなんてないぞ。ただ粥を作ってくれたり薬を煎じてくれたりと甲斐甲斐しく世話してくれてな」
(ああ、そうだ。長文も似てるな)

 自分で言いながらふと思い、納得してひとり頷く。どうも自分はああいう人種に弱いらしい。口を酸っぱくして人の生活態度を注意し、時には手が出るところなどそっくりだ。彼女もからかうとよく顔を真っ赤にして怒り、それがたまらなく可愛いものだから(陳羣の場合は面白い)ついつい調子に乗って遊びすぎてしまったものだった。
 「私は生活力のある男と結婚するつもりなの」と幾多も素気なく郭嘉を突っぱねた彼女が、結局最後には折れた。郭嘉のあまりの粘りに根負けしたのだと回りは言うが、郭嘉は知っている。自分が彼女に惹かれたように、彼女もいつしか自分に惹かれていた。負けん気が強いから決してそうとは言わないけれど。でも、結婚を言い出したのは彼女の方からだった。むしろこっちがたじたじとなるくらいに強引だった。
 彼女は、自分にとってはこれ以上もなく最高の女性。妻であると同時に、理解者だった。
 彼女の賢さと教育姿勢の賜物か、二人の間に生まれた一人息子は父親が家にも帰らずどうしようもないろくでなしであるのにも関わらず、真っ直ぐに育ち、「父上父上」と嬉しそうについて回ってくれたものだ。一時期はやや反抗的になって郭嘉も結構落ち込んだものだが、今では改善されつつある。しかし何故か「父」ではなく「大仔(あにき)」と呼ばれるようになり、複雑な父心だ。
 ただ少々将来的に不安な捻くれがなきにしもあらずなのだが―――

「あの頃は若かったから、多少の無茶も平気でやったものだが」

 ひとり記憶の波にたゆたって回想しながら、ふと独り言のように呟いた郭嘉に、周瑜は何気なく尋ねる。

「そういえば奉孝にはご子息がひとりおられるのでしたね」
「ああ。奕って言うんだ」

 名前を口にした時の響きに、郭嘉がどれほど我が子を可愛がっているのが分かる。こんな女誑しでも、子煩悩なものなのか。

「我が子ながら良く出来た奴だよ。俺に似て顔も良いし頭もいいしな」

 さり気ない自慢は黙殺される。郭嘉はちょっと寂しそうだ。

「冠礼にはまだちと早かったが、先んじて字もつけた。俺もこんな身体だし、仕事が仕事だから、いつ何があるか分からないしな。家のことを任せるにはまだまだ餓鬼だけど」
「そうですか、しかしもうすぐ冠礼とはそれはそれは……」

 普通に話す郭嘉の調子につられ、普通にそう相槌を打ちかけて、急須を手にした周瑜はぴたりと止まった。
 コポコポと器に水を注ぐ音が止まる。疑問符を浮かべる郭嘉に、周瑜はゆっくりと引きつった顔を向けた。

「……冠礼?」
「ん? そうだけど?」

 不思議そうに郭嘉が頷く。
 周瑜の表情が心なしか昏い。
 冠礼は、すなわち元服。規定では男子は20歳に行うが、早婚が風潮の昨今は、15前後にするのが俗例になっていた。

「ちなみに、ご子息の年齢は?」
「今年で13だよ」
「…………」

 周瑜の表情が完全に固まる。
 ちなみに目の前にいる男は今年で29のはずだ。

「……ついでに訊きますが、いくつの時のご子息で?」
「ええっとー、そうだな、あれは確かアイツと出会って一年後だったから……」

 郭嘉は瞳を天上に向け、顎に手をやりながら記憶を手繰る。それから周瑜に向かい直り、

「丁度俺が17の時かな」
「……17!!?」

 ぎょっとして声を裏返した周瑜に、逆に郭嘉の方が驚く。

「あれ? 知らなかった?」

 ちなみに相手は18だったよ、とありがたくもない付け加えが入る。周瑜の集めた情報では、すでに結婚して息子がひとりいるということくらいしか知らない。いや、そういえばよくよく思い出してみればそのような記述もあったような。

「女性遍歴が長く続いてたので軽く読み飛ばしていました……」

 がっくりと両手を卓につき、この世の不可思議を目にしたかのごとく周瑜はぼやく。17にして一児の父。親子の年齢が16歳しか違わないとはもはや兄弟並だ。それよりも僅か16にして女性に子供を孕ませるとは。いや、相手が17なのだからここは大丈夫なのか。いやいやまて、それ以前から女遊びは始まっている。
 衝撃を受けた周瑜の様子に、郭嘉は「ははは」とさわやかな笑顔で頭を掻いた。

(いや、そんなことはともかく)

 周瑜は心中で首を振る。いや大分「そんなこと」でもないが、これ以上聞き続けているとなんかどんどんどうしようもなくすごい事実が出てきそうなので、無理矢理己にそう言い聞かせて茶請けに湯を注ぐ。

「話が大分ずれてしまいましたが、本題に戻りましょう」
「ああ、その恋煩いってやつ?」

 ようやく思い出したかのごとく、郭嘉が口の中に菓子を放り込みながら茶を啜る。

「ともかく、私と違って遊び人で名の高い貴方なら経験も豊富でしょうし、意見を伺おうかと思ったんです」 「とは言ってもなぁ」

 ぽりぽりと頬を掻き、郭嘉は宙に視線を注いだ。

「どういった状況なのかってのも分からんし、そもそも俺は基本的に他人の恋愛には手を出さない主義なんだ。ああいうのは下手に外から何かにするもんじゃないんだよ。結局は当人達次第なんだから」

 ほっとけほっとけ、と手首を振る。そうは言いながらも今日は少し口を出してしまったのだが、まぁあれはどちらかといえば片思いであったからであって、これが相思相愛の恋人同士のいざこざならば首を突っ込まないというのが郭嘉なりの流儀であった。

「私だってできればこういったことにはあまり関わりたくないですよ。でもまたこれが特殊な状況なんです」

 どこか打ち沈んだ雰囲気で言う周瑜に、郭嘉は首を傾ける。

「そんなに深刻なのか?」
「まぁ深刻と言えば深刻……ですが」
「??」

 やたら歯切れの悪い答えに、ますます郭嘉は怪訝そうにした。

「そのさる方と言うのは、実際悪い方ではないんです。若いし、聡明だし、容姿も良い方で。ただ何分色恋には手馴れていない上に―――ちょっとした性癖が」

 酒乱なんです―――と、周瑜は深い溜息をついた。その様子で「さる方」とやらの酒乱癖がどれほど酷いのかが分かる。
 郭嘉の脳裏に昼間の紅い髪の少年が過ぎる。恋煩いに酒乱。またも符牒の一致。十中八九同一人物だろう。が、郭嘉がその人物と会っていた時、周瑜は「さる方」と会っていた。すなわち「さる方」とは渦中の人物当人ではなく、その身近な人間。
 だが郭嘉は瞬き一つで伏せ置いてあえて何も言わず、周瑜に向き直った。

「そりゃまた気苦労多いとは思うが、とにかく放っておけ。恋煩いってことは想う相手がいるんだろう? その相手にそいつの恋心を押しつけて無理強いするんじゃ意味がないじゃないか。下手打って逆効果になっても危ういし」

 馬には蹴られたくないだろ、と冗談めかして言い置き、笑う。

「大丈夫、何とかなるって。酒を飲むってことはそいつも子供じゃないんだろう。人生の酸い甘いを学ぶ良い機会だろうよ。それに―――酒乱だろうが何だろうが、中にはそういうダメな男がいいっていう奇特な女もいるもんだしな」
「そういうものですか?」
「ほら、現にここにその好例がいるだろう」

 半信半疑で首を傾げる周瑜へ、郭嘉は妙に確信有りげに頷いてみせる。こう言われると妙に説得力があった。まあ実際問題世の中とは広いものだ。女とて何も一人じゃない。

「余計なことはしないことだよ」
「……そうですね」

 色事の手練れともいえる郭嘉に言われ、周瑜も何となくそんなものかと納得する。
 郭嘉の言ではないが、確かにここで周瑜たちがどうしたところで結局は孫権自身の問題なのだ。件の女官に「孫権と付き合ってくれ」などと言えるわけでもなし、兄とその親友に出る幕はないだろう。そもそも孫権はまだ若い。別に急くこともないし、ここで痛い思い出を味わってもそれは一時のもの、いずれまた別の相手が見つかるだろう。
 そう考えてしまえばそれまで孫策に引きずられて悩んでいた自分が滑稽な気がしてきた。
 仕方ない、孫策にはそう言っておこう―――そう思いながら周瑜が窓の外にぼんやりと視線を投げやる傍らで、郭嘉は何か思案するような表情を浮かべ、同じように外景を眺めていた。




BACK MENU NEXT