二日後、件の回廊に赤毛の若君の姿があった。
秋も大分熟して空も空気も植物も彩が深まり、そろそろ冬の足音が聞こえてこようかというこの時期に、そこだけが季節外れに春だった。
少年はだらしなく緩んだ顔で、のほほんと勾覧に頬をついていた。澄み切った空を横切る鳥の影を眺めやりながら、時折思い出したように頬を紅潮させては相好を崩す。表現するならば、まさに「デレデレとした表情」だ。
先日とは百八十度違う少年の様子に、偶然通りがかった呂蒙はあえて声をかけずそそくさとその場を離れ、呂範は「春が来たなぁ」とのんびり呟きながら過ぎ去っていった。
だが誰かれの反応も少年の心の陽気を揺らがしはしない。最早彼は、天にも舞い上がる気持ちで大いなる幸福感に満たされていた。
そんな締りの欠片もない少年のご満悦顔を、枯れかけであってもなお欝蒼と生い茂る庭園の向こうから見やりながら、郭嘉は腕を組みつつ首を傾けた。その顔は呆れ返ったと言わんばかりだ。
「若君……これまた随分いい具合に緩みきったお顔で」
「! 庭師か!」
のんべんだらりと現われた郭嘉の姿を認めて、少年の相貌がパッと明るく輝く。こうして見ると、まだまだ素直で単純素朴な子供だ。
郭嘉が近寄ってくるのに待ちきれず、勾覧から身を乗り出して嬉々と声を張る。
「ここに来れば再び会えるだろうと踏んでいたんだが、当たったな!」
「おや、
私めをお待ちであられましたか。それは恐悦至極」
軽い仕草で礼を取る。こうしていながらも、この男は服従の心を感じさせない。臣下の礼のようでいて、決して心までは侵させぬ確固たる姿勢を持っている。だがそうした不羈な様は郭嘉の人柄には不自然なく馴染んでおり、少年は不快に思うよりむしろ爽快に感じた。
一方郭嘉は、この赤髪の少年があの時と同じ時間、同じ場所に、また来ることを予想していた。恐らくは自分に会うために。だから、ここ二日間、同時刻にここで彼が訪れるのを待っていた。そして案の定、彼は来たわけである。
まぁ郭嘉にしてみれば、ここまでするのは別段この少年に感情移入したわけでなく、ある種の気紛れだった。
というのも、東呉へ来てからというもの、郭嘉は少々暇を持て余していた。もちろん勅使としての仕事はある。許都から離れていようとも相談案件は絶えず送られてくるし、細尊をはじめ細作たちが集めてくる多量の雑昧な情報も真偽を判じ整理して報告書に纏め、許都に送らなければならない。
それでも許都での激務を考えれば(サボり魔とは言えどもやることはちゃんとやっている)、今の日々は無聊を感じるほど楽なものであった。気を紛らわそうにも勅使と言う身分上、身動きも自由に取れない。
そこへ舞い込んできた今回の出来事。退屈しのぎ半分だったが、一度口を挟んでしまった以上中途半端に放り出さないという性分も手伝って、今もこうして少年の恋路の行方に手を貸そうとしているのだった。
郭嘉は喜色満面の少年を見上げ、先程と同じく呆れ半分に微笑んだ。
「そのご様子ですと、上手く行ったようですな」
「おう、そうなんだ。聞いてくれよ!!」
話したくてたまらないとばかりに少年はうずうずした様子で、目を大きく開きキラキラ輝かせる。最早口調までもが威圧的なものから素に戻っている。
「あのあとお前に言われたとおり彼女のところに直接乗り込んで思いっきり思いのたけをそのまんまぶちまけたんだ!」
興奮気味に言いながら、相手の両肩をがっしと掴むような動作をする。郭嘉の米神に一瞬汗が浮かぶ。
(え……まさか本気で乗り込んだのか? 後宮に?)
通常なら規律違反もいいところだ。だが郭嘉は何となくその様子が想像ついた。恐らく日中堂々踏み入って、仕事中だっただろう意中の女官を捕まえたあげく、それこそ恥じも外聞もなく大声で告白したのだろう。周りに同僚や他の者達がいるその面前で。郭嘉的には、人気のないところに呼び出してというつもりだったのだが。というか普通の人間はそうする。
哀れなその女官はさぞかし恥ずかしい思いをしたことだろう。こうなるなどと予想ができなかったとはいえ、焚き付けた側としては申し訳ない思いだ。
だがそんな一見破綻必至な状況とは裏腹に、少年の声は更に一際弾んだ。
「そしたらさ! なんと了承もらえたよ!!」
嘘だろ、という心中の叫びに呼応するように郭嘉は目口をあんぐりと開く。
一体どんな方術……否、奇跡だろうか。白昼堂々、男子禁制の場に乗り込み公衆の面前であったことを差し引いても、彼女の胸を打つような告白の内容だったのだろうか。そんな玉砕的な行動が、逆に率直な想いを伝わらせたということか。あるいはその女官がよほど寛大なのか、それとも変わっているのか。どちらにしろ、相当奇特な人物であることは確かだ。
「それはまたおめでとうございます」
頬を引きつらせながらも、とりあえずそう口にする。最早それしか言いようがない。
「うん、これも偏にお前のおかげだ。ありがとう!!」
庭師の心中も知らず、少年はただ無邪気に満面の笑顔で感謝の気持ちを口にした。
「そりゃどうも」と答えながら、郭嘉は目はあらぬ方に泳がせる。複雑な気分だが、まあどちらにしろ上手く行ったのだから結果よしだ。
(ま、これで公瑾殿も少しは肩の荷が下りるだろう)
秋の匂いの香る寒風を感じながら、天高く透る空をのんびりと仰いだ。
―――これが一週間前の話。
郭嘉は至極腑に落ちぬ微妙な表情を浮かべていた。
あの時少年は、幸福満面、常春のごとき態だった。
では、今この目の前にいるのは。
「……あのー」
「……」
「あのー若君?」
「……」
埒が明かない。憂鬱そうに打ち沈み始終上の空の少年に、郭嘉は困ったように嘆息した。
周瑜と碁でも打ちに行こうかと、いつものように彼の室へ向かうべくこの庭を通った時であった。ふと目の端に見たことのある髪色が過ぎり、はっとして見やればいつぞやのようにかの少年が、魂の抜けた顔で勾覧に凭れかかっていた。
一週間前、確かに彼は想い人に色よい返事をもらえて有頂天であった。なのに今は一転して地のどん底に落ち込んでいる。
(一週間の間に一体何があったんだ?)
疑問に思えども、肝心の本人がこちらの呼びかけに反応しないのだから答えが見つかるはずもない。いや、何となく予想はできるような……
腑抜けた少年を高覧の下から見上げ、郭嘉は再び溜息をひとつつき身を伸ばした。
「わ・か・ぎ・み」
「ぎゃっ!」
あまりにも無反応なので、耳元でボソリと呼びふうーっと息を吹きかける。すると、ようやく現実に戻ったように、少年が奇妙な声を上げた。
慌てて耳を押さえて飛びずさる。顔が真っ赤だ。
ふむ、耳が弱点かと関係ないところで納得している郭嘉を涙目で睨み、少年はわめいた。
「ななな、なんだよもう!! 驚かすな!!」
「いや、幾度もお呼びしているのにちっとも反応してくださらないので」
「あ……そ、そうだったのか……?」
さすがに悪いと思ったのか、少年の表情が怯む。だが依然憂鬱気な影は色濃く残っていた。心なしか見事な紫毛もいつもの勢いと張りがなく、しょんぼりとしている。
「ただならぬご様子ですが、どうなされたんです? あの後無事に意中の方と相思になられたのでしょう?」
「いや……そうなんだけどさ」
「何か支障が?」
「うん……」
途端に歯切れ悪くなった少年の様子に、何かを察したのか郭嘉はそれとなく促すような問い掛けをしてみた。
「さては喧嘩でもなされましたか」
「いや、そうじゃないんだけど……」
視線を下方で泳がせながら、少年は訥々と話し始めた。
「それがさ……なんか最近、向こうの態度が余所余所しいというか、素っ気なくて。最初は俺に全開の好意を見せてくれて、あ、あ、甘えとかしてくれたり」
段々恥ずかしげな口調になって俯く少年の説明に、郭嘉は惚気られているような気になって「はいはい」と半眼で流した。
「そこまでは良かったんだけど、何だか近頃はめっきりで。なんだかんだって理由をつけられてなかなか会えないし、会っても冷たいんだ」
照れた調子から、徐々に声音が沈みこんでゆく。この時点ですでに郭嘉は何が原因か感づいていた。やれやれと言わんばかりに腕を組む。
一方、要因に一向に心当たりがない少年は、がっくりと肩を落とした。
「一体何が悪かったんだろう」
「そうではありませんよ」
苦笑気味に郭嘉は口を開く。少年の顔が持ち上がった。
「違う?」
「ええ」
恐る恐る確認する少年に郭嘉は頷き、袍の両袖を合わせた。郭嘉にはある程度相手の女性の意図が分かる。伊達に女遊びで名を通してはいない。この手の女心はお手の物だ。
つまるところ、これは駆け引きなのだ。恐らく彼女は、冷たい態度をとることで少年が焦り、悩み、躓き、必死にさせて、そのさまを楽しんでいるのだろう。
愛は、一方的に与え合っているだけではだめなのもの。特に女性は、常に変わらず受け入れてくれて惜しみなく愛情を注いでくれるだけでは物足りなさを感じる者も少なくない。老年になればそれでもよくなるが、若ければ若いほど刺激を求めるものだ。
だが、惚れた女に遊ばれてるようでは男が廃る。
「若君、よろしいですか。恋の駆け引きは戦と同じです。相手に主導権を握られれば負け。ここは一発男らしい強さと余裕を見せ付けなければ」
「で、でも駆け引きったって、一体どうすればいいんだ? だって会っても彼女は冷たいだけだし」
頼りなさげに眉尻を下げて呟く少年に、郭嘉はにやりと不敵に笑った。
顔の前に人差し指を立て、
「駆け引きなどコツを掴めば至極簡単なもの。相手が身を引くのであれば、こちらは強気で押してゆけばよいのです」
少年はハッとした。その言葉を噛み締めるように小さく口の中で転がす。その身が微かに武者震いをしている。
そして何を思ったかグッと拳を握り、唐突に天を仰いだ。
「分かったぞ!!」
叫ぶなり、郭嘉を一瞥することなく身を翻して凄まじい勢いで駆け出す。
この性急さは相変わらずなようだ。先程の少年の零した台詞にまたもや一抹の妙な不安を覚えつつも、あっという間に小さくなる後姿を郭嘉は亡羊と見送った。
「大丈夫かな」という密かな呟きは、少年には届いていないだろう。
ま、なるようになるか、と適当な台詞を心中で呟き、後頭部で手を組みながら郭嘉は周瑜の室を目指した。