室で執務に当たっていた周瑜は、竹簡の束を抱えて来室した呂蒙の一声に、筆を持つ手を止めた。
「あれ? 公瑾殿、まだいらっしゃったんですか?」
「どういう意味だ?」
未記入の冊書を届けに来た呂蒙は、思わず「しまった」と口を開いた。慌てて周りを確認する。鬼……すなわち張公がいないことを確認しながら、声を潜めて言った。
「いえ、先ほど殿が……天気がいいからってこっそり室を抜け出して、公瑾殿のところに剣の誘いをしに行ったはずだったんですが」
ふとした弾みで脇から零れ落ちた一冊を、上げた片足の裏で捉えながら、頭を僅かに傾げている。
器用だな、とつい感想を漏らした周瑜は、そうではないとばかりに首を振る。
「おかしいな。こちらには見えてないが」
「あっれぇ? 変だなぁ……大分前ですよ?」
「……」
何だか胸騒ぎがする。
周瑜は筆を横脇に置くと、広げた冊書はそのままに、座から立ち上がった。
「公瑾殿?」
「ちょっと探してくる」
言い置くなり、さっさと室の敷居を跨いで出て行く。
背後で「この竹簡、どうすれば……」と片足を上げたまま途方にくれる呂蒙の姿があった。
回廊を、普段孫策が来る方向に辿りながら、いやます不安に周瑜は歩を早めた。妙に嫌な胸裡が騒いでならない。
案外途中でばったり出会った黄蓋とか、孫権を相手にどこかで鬱憤を発散させているのかもしれない。そう思うものの、気は急くばかりだった。こういう予感は結構当たるから。
不意に、風が吹き付けた。冷たく、冬の香りを運ぶ風。
周瑜は視線を巡らす。今微かに
―――本当に一瞬だが、金属のぶつかり合うような音が、風に乗って聞こえてきた。
耳には自信がある。
周瑜はすぐさま音が乗って来た、庭院の方角を望んだ。
そうして、今。
庭院に降りて探しに来てみれば、予想だにしなかったとんでもない光景に出会った。
周瑜は思わず絶句して立ち尽くす。
その時一堂に会した三者の心中は、まさしく三様だった。
「い、いやあのな公瑾……」
「……」
孫策は引きつった笑みを浮かべ、何とか言い繕おうと無駄な努力していた。中途半端に宙を彷徨う手が、心の動揺を明らかにしている。
郭嘉はといえば、非常に気まずい状況を見られ、最早目も合わせられぬと俯き続けていた。
色を失った様子の周瑜は、とりあえず地に蹲る郭嘉の傍に近寄った。
「
―――勅使殿」
「ハ、ハイ……」
ギックンと肩が震える。不自然なまでに静かな声音が、逆に恐ろしい。
「肩を。室までお送りします。医師はその後に」
相変わらず目が合わせられないので周瑜がどんな顔をしているのかは分からないが、異議申し立てを許さぬ言の強さに、相当な怒りが伝わってくるかのようだった。ここは大人しく頷いて従うしかない。
「立てますか」
「ちと待ってくれ……」
郭嘉は数度呼吸を整える所作をした。今下手に動くと本気で吐くかもしれない。
「な、なぁ……どっかヤバイのか?」
恐る恐る尋ねる幼馴染に、周瑜はスッと視線を向けた。
「勅使殿は、生来蒲柳の性質なのですよ」
『蒲柳』の部分に妙に棘が含まれている。明らかに自分に向けられたそれに、郭嘉がぐっと声を詰まらせている。
孫策は言葉を飲み込む。確かに前から聞いてはいたが、まさかそれほどまでに虚弱だったとは
―――
(大体、それじゃ戦場なんかやたらめたら出られないんじゃないか?)
孫策の疑問をよそに、郭嘉は周瑜に目配せした。
「大丈夫ですか」
「ん、なんとか……」
まだ天地が回っているが、なんとか周瑜の肩を借りてゆっくり腰を上げる。立つとまるで聴覚まで異常をきたしたように耳鳴りがした。緊張のせいもあるのかもしれない。孫策相手でさえ全くそんなことなかったというのに、自分はとことんこの手の人物の怒りに弱いらしい。
「伯符様」
「な、何だ」
大げさなまでに虚勢を張って、孫策は反応を返す。
「すぐに着替えをお持ちしますので、しばらくそのままでお待ちいただけますか」
「あ……ああ」
いちいちおっかなびっくり返答する孫策の様に、郭嘉は申し訳ないと思いつつ内心笑いをかみ殺した。曹陣営で最恐なのは尚書令であるが、この江東ではもしかしなくとも中護軍かもしれない。
池の傍を離れ、回廊のある方へ向かいながら、背後の孫策に聞こえぬよう音量を落とした周瑜の声が、耳元から入る。
「奉孝」
「……あ、はい」
ヒヤリとした声音に、心なし緩んでいた郭嘉の口元が硬直する。
「ここ最近の体調は?」
「いたって良好……なような」
「そうですか。ところでこちらの方を行けば賓客室、あちらを行けば侍医の室があるのですが、どちらがいいですか?」
「不良でした」
ハァ、と周瑜は深く溜息をついた。当初触れた時、異常に冷たく感じた手首は、今は燃えるように熱い。担いだ腕から、衣服越しにまで、熱が伝わってくる。
いくら郭嘉が虚弱体質といえど、さすがに短時間の戦闘でここまでになるほど軟ではない。そんなことでは戦場など駆けられるはずがない。
つまり考えられることは一つ。以前の時と同様、不調が続いている場合だ。
首に回した右腕の、手の甲に滲む裂傷を、眉を顰めて見やる。
「大体にして何故伯符様と手合わせなど」
「一応弁解しておくけど、俺が言い出したんじゃないからな。向こうから誘ってきたんだ」
周瑜の責めるような口調に、郭嘉は責任転嫁を試みた。
「それでも受けたのは貴方でしょう」
「まぁ、成り行きっていうか、運悪かったというか」
ヨロヨロと歩きながら、ぼんやりと言葉を紡ぐ。
「公瑾殿も大変だよなー」
「はぁ? 何がですか?」
「んー、まあイロイロ……」
「……それでも、仕え甲斐のある方ですよ」
穏やかに微笑んだ友人に、郭嘉は何とも言えないような、曖昧な笑みを浮かべた。
「臣に恵まれたな、討逆殿」
ポツリと呟く声に、周瑜は軽く視線を向けた。
「伯符様がお嫌いですか?」
「ん? 何で?」
きょとんと瞬いて問い返され、かえって周瑜の方が虚を突かれた。てっきり嫌いなのかと思っていた。嫌悪の塊だというくらい厭わしい人物がいると以前言っていたから。
「面倒だが磨き甲斐あって面白いとは思うよ。ちょっとだけ公瑾殿たちが主君と仰ぐ気持ちも分かった」
「私たちは別にあの方をしごいたりしてませんが」
「いーや、絶対してるだろ。
―――でもま、ちょっと虐めすぎちゃったかもな」
少し天を仰ぐ。
「後で上手く取り繕っておいてくれ」
「何をどうしろと」
「いやぁさぁ、つい相思相愛の仲を引き裂く相手にちょっぴりシットしちゃったみたいな
―――ぐえっ!」
「さて、侍医の室はどっちでしたっけね」
「すみません、冗談が過ぎました。もう馬鹿なことは言いません」
袷を掴まれ急激に方向転換させられた郭嘉は、必死に懇願した。
「ついでにこれ以上馬鹿なこともしないで下さい」という小言には、「それは無理かも」と笑う。
そして笑顔の下で思う。
そう、別に嫌いではないのだ。孫策は、その内に人々を惹き付ける魅力を秘めている。
それでも、自分は
―――
郭嘉は青く広がる澄み切った空を遠望した。その遥か先、北の大地を。
ただ一人、己が膝を屈することをよしとした、主を。
(貴方以外の誰かに傅く俺など、とても想像がつきませんよ、殿
―――)