対酒当歌 人生几何……
酒を片手に舐めつつ書に目を落としていた郭嘉は、聞き覚えのある旋律にふと顔を上げた。
「あれ、その曲」
弦から指を離し、音を紡いでいた張本人は柔和に笑み返した。
「はじめて会った頃、聴いたものです」
「覚えてたのか」
驚きから、はにかみとも苦笑いともつかぬ表情に変わる。
周瑜は曖昧な返事で、たった今爪弾いた琴に視線を落とす。
「うろ覚えですが、珍しい曲調でしたから」
そして再び、耳奥に薄っすらと残っている音の並びを追って再現する。
「珍しい、か。それはそうだろうな」
郭嘉は呟き、小さく笑息を漏らした。
意味深げなその様子に興味を引かれ、周瑜は双眸を向ける。
「北の
今様ですか?」
出身が出身なだけに当然南方の楽音が周瑜にとっては馴染み深く、演奏に選ぶ曲としても主流だが、北方や夷狄のものもある程度は知っている。
その周瑜であっても、かつて聞いたこの楽曲だけは、耳新しい調べと詩であった。楽に通じる者として、興味をそそられるのは当然かもしれない。
(楽好きだもんなぁ)
郭嘉はそんな風に思いながら、首を振った。
「それは文姫が殿のために作った曲だよ」
「文姫?」
聞きなれない名を、周瑜が鸚鵡返しに唱える。
郭嘉は窓辺の桟に読みかけの書を置くと、軽く頬杖をついた。
「文姫
―――本名は蔡琰と言う」
「ああ……確か蔡邕殿の御息女の」
「知ってるのか」
「それはもう。蔡邕殿といえば知らぬ者はいないほどの名士ですし、一人遺されたご息女も若いながら父親ゆずりでかなりの才女だと評判です」
評判と言ってもそれは学識があるの者達の間での話で、すべからく知られているというわけではない。この時代、一般的に女性の本名自体、人口に上るのは余程のことがない限りありえないことであった。
数ある高名な学者のうちに蔡邕も数えられる。清廉潔白な人柄で知られ、それが故に宦官に朝廷を追われたが、後に董卓に気に入られ異例の出世を果たした。特に史書編纂に功がある。
「蔡先生には、かつてうちの殿も師事したことがある。文姫とは元々面識もあったんだろうな。例の事件で蔡先生が殺された後、文姫は人買いに売られそうになった。そこを危うく救いあげたのが殿だといういきさつなんだが……」
郭嘉が『例の事件』と言っているのは、董卓が殺された時のことだ。蔡邕もまた、王允に殺害されてしまったのである。董卓の死を哀しんだために怒りに触れたとされるが、実際はどうか分からない。蔡邕の異例なまでの引き取りたてを妬んでいた者もきっといただろう。年にして初平三年。郭嘉が二十三歳の時の出来事であり、周瑜はその時十八である。
郭嘉は見ていた書を閉じて、ゆっくりと視線を窓の外に移した。
たおやかながらも、その中に聡明さと意思の強さと
―――そして慈愛を兼ねそえた
顔。
際立って美しいというわけではなかった。しかし内面から滲み出る凛然とした心根が彼女の魅力を引き立てていた。曹操が好ましく思ったのは、恐らくそういう所だったのだろう。
「文姫は不思議な女性でな。彼女の腕には、今も消えぬ焼印がある」
「焼印?」
周瑜が驚いたように目を見開く。
焼印は、基本的に罪人などが、その罪を永久に消せぬよう刑罰でつけられるものである。格式高い家柄の女性、それも才女と名高い者には、およそ縁遠いものであるはずだ。
周瑜の疑問を見て取り、郭嘉は微苦笑した。
「奴隷として売られていたところを救うには、殿が買い取るしかなかった。所有者の押印だよ。彼女の腕には『曹』の字が焼きこまれた」
「惨いことを……」
女人に、永久に消えぬ傷を負わせるとは。眉を顰め珍しく明らかな嫌悪を露にする周瑜に、郭嘉は何も返さずただ困ったように笑っていた。
「ここからが文姫の不思議なところだ。奴隷として買われ、腕には曹の焼印。才も学もある女性としてはこれ以上の屈辱と恥辱はなかっただろう。特に文姫は夫と死別した上に、父も亡くしたばかりだった。話によれば、最初はそれこそ罵倒を浴びせるわ手を上げるは責めるわで、殿に対する心証は最悪だったそうだ」
「それはそうでしょうね」
「ところが否応なく共にいることで、次第に殿に理解を示すようになった。元々殿の方が根気強く気にかけていたところもあったんだが、何より文姫は聡明だったから」
蔡文姫は、曹操と過ごす中で、曹孟徳という男の不器用な優しさと、それ以上に彼の持つ複雑な歪みに気づいた。そして何よりもその闇を憐れみ、慈しんだのは蔡文姫自身だった。
他人を許し、逆に愛すことのできる心。それが蔡文姫の持つ大きな才だった。
「それは並みならぬ寛恕の心を持った女性なのですね」
「そうだな。あんな女はそうはいない」
郭嘉は遠くを眺めるような、懐かしむような口調で語る。
蔡文姫は賢く学も度胸もあったから、曹操を許し、愛しながらも、過ちを侵せば面と向かって諫め諭すこともした。それも曹操にとっては掛け替えのないものだっただろう。
だが。
「文姫は今は殿の傍にいない。……ある時、匈奴の騎馬に拉致されてな」
ハッと周瑜は息を呑んだ。それはつまり
―――
「今は北にいる。ようやく探し当てたときには、左賢王劉豹の側室となっていた」
「……」
郭嘉は頬杖をついたまま、緩々と酒杯を揺らした。
蔡文姫は郭嘉と年が二つしか変わらない。だからか不思議と彼女とは同志意識があった。
曹孟徳という人間の深遠を理解する者同士の。
忘れられぬことがある。
『あら、奉孝。またこんなところにいるの』
時折暇を見つけては室を抜け出て顔を見に行った。蔡文姫が琴を弾くための庇があり、そこの勾覧に寄りかかる郭嘉を見つけては、彼女は微笑して嗜めたものだ。
『よう、元気?』
『長文が探していたわ』
『あいつもしつこいな。いいや、ちょっと匿ってくれ』
『あまり困らせたら駄目よ』
『いいのいいの。色気も素っ気もない冊書ばっか見てて飽き飽きしていたんだ。美しいものを眺めてたまには目の保養もしなくちゃな』
『全く口が上手いんだから。その調子で何人の女人を口説いているのかしら。奥方に言いつけるわよ』
『大丈夫、彼女は誰よりも俺をよく理解してくれてるから。それより何か聴かせてよ』
蔡文姫の奏でる琴の音が好きだった。冗談で口説くことはあったが男女の情があったわけではない。ただ世間話をして談笑する友人だった。
『ねぇ、奉孝』
ふと、蔡文姫は琴を爪弾きながら声音を改めて言ったものだった。
そういうときは、郭嘉は顔を上げて、ただ黙って耳を傾けた。
蔡文姫の白い横顔は、そういう時は静謐ながらも、微かに不安に揺れていた。
『孟徳は決して悪い人じゃないわ。分かり辛いだけで。でも……理解してあげられる人が、少なすぎる』
『
―――……』
『もし万が一私がいなくなったりしたら、あの人のこと、よろしくね』
あの人の心に巣食うものを本当に理解しているのは、他に貴方くらいだから
―――
(文姫……まさか本当になるとはな)
目を伏せながら、鼓膜に残る微かな琴の音を聞く。
―――それとも、どこかで予感していたのか?
「奉孝?」
「ん……ああ、ごめん」
知らず記憶の海を漂っていたようだ。
周瑜の呼びかけに我に返った郭嘉は、再び語り始めた。
「文姫は琴の名手でさ。本当に上手いだ」
あ、もちろん公瑾殿もな、と加えれば、ついでのおべっかはいいんですよと周瑜から冷たく一蹴された。
「何より琴は文姫の分身みたいなものなんだよ。人買いに売られるときも決して琴だけは手放さなかったんだって。肌身離さず抱いてて、覆面で顔隠されていたのに殿が文姫に気づけたのはその琴のおかげでもあったらしい」
「それほどとはぜひ一度、聴いてみたいものですね」
周瑜は心から告げ、微笑した。
「そうするといい。きっと公瑾殿も気に入るよ。二人が共奏しているのをいつか聴いてみたいな」
郭嘉は笑いながら言う。それが叶わぬ夢の話だとしても、この時ばかりは本気でそう思っていた。
いつか平和な世が来れば
―――
「あの歌曲は、殿との生活の中で、文姫が作ったものだ」
ある日、曹操が詩作に耽り、『対酒当歌,人生幾何…』と呟きながらその続きに悩んでいるのを見て、蔡文姫がこっそり続きを曲つきで加えたのだ。
「酒に対いて当に歌うべし 人生いくばくぞ」
どうして
―――
それは、蔡文姫自身の、曹操に対する思い。問いかけでもあった。
郭嘉は、蔡文姫が攫われるほんの一ヶ月前に、気まぐれに琴の手ほどきを受けて、ついでにこの曲を知った。教わったのに深い意味はない。もしかしたら、自分の中にも予感があったのかもしれない。
「殿は実に複雑な方でな、本質は炎みたいに激しい。あんな危うい人は未だかつて見たことがない。あれほど才気に溢れていて強いのに、心では常に血を流している。だからこそ俺は殿に仕えようと思ったし、殿以外に仕えようとも思わないんだ」
「……」
周瑜は思い返す。何故自分は孫策につこうと思ったのか。どうしてあの親友を立て、支えようと思ったのか。
周瑜は、孫策に太陽を見たのだ
―――彼の輝きと強さは、この荒廃した世に生の救いをもたらすものに見えたから。自分はその光を受けて仄かに輝く月になれればいい。太陽の対極で、闇の内にすべてを整える。いつか上る、旭のために。
それでも、僅かに胃の底に痞えるものがある。
江東にはこの男を留め置けるほどのものがない。
目を背けても、その事実は無視できぬほど重い。いつか別離はくる。彼は曹操の軍師で、自分は孫策の軍師で、いずれ互いに敵として顔を合わせ戦い合う。それは分かっているはずなのだが
―――
「悪い。何だか話し込んじゃったな」
ふと我に返ったように、郭嘉が顔を上げて笑った。心なし照れ隠しするような笑みだ。
いえ、と周瑜は首を振った。
「では、夜も遅いことですし」
「そうだな」
周瑜が立ち上がり、拱手して辞を告げるのに、郭嘉も応じる。
「また明日」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
穏やかに笑んで見送る郭嘉に、周瑜も微笑み返す。告げたい言葉は胸に秘めて。
朋友を思うなら、何も言わぬ方が良かった。
そしてそっと室の戸を押し開いた。
闇の中、明かりのついた賓客室から、密かに影が滑り出る。
一瞬零れ出る灯に翻った深青の着衣が、夜陰に溶け込んでいく。
それを遠くで見つめる人影があった。
郭嘉は再び読みかけの書を開きながら、しかしその瞳は窓の外の月を眺める。同じものを、周瑜もまた回廊の勾覧から見ている。
神算鬼謀の軍師といえど、二人はこの先に待ち受けるものを知らない。
「酒を手に歌わずしてどうする。人生は短いのだから」
どうして最後になるまで言ってくれなかったの?
「酒を飲みていざ歌おう。真実とは苦き果実なのだから」
何故知れば知るほど、心が苦しくなるの?
貴方を愛する思いは万里の風となり
ある時は蒼天に、ある時は大河に問う
貴方を恨む心は熱くも寒くもなり
半分に水を、半分に炎を与える
「酒を前にしたならば歌わねば。年月の過ぎるのはあっという間なのだから」
平和な世に変えて、最初から生き直そう
「酒を交わして歌うのだ。歳月の去り行くのは瞬く間なのだから」
清廉な世で、初めからやり直そう
貴方は一人の貴方
私は一人の私となって
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『曹操与蔡文姫』ネタ再び。実写なのですが好きなのです。マイナーネタでメンゴ。史実的に言えば蔡文姫が匈奴に攫われるのは195年の董卓派残党によるクーデターで難を逃れて実家に戻った時らしいですが、ここでは198年まで殿の下にいたことにしてます。話は都合上。