「しかし、ああなってはしばらくはそっとしておく以外しょうがありませんね」

 周瑜はいささか困った顔をしてから、所在無く立ち尽くしている呂蒙に目を配った。

「子明にも悪いことをした」
「いえ、そんな……」

 呂蒙はうなだれながら、孫策の去った方角を横目で気にしている。周瑜は微笑を浮かべた。

「大丈夫。あの様子なら、しばらく身体でも動かせば落ち着くだろうから。それまではお1人にしておいて欲しい」
「分かりました」
「子明殿もなかなか気苦労が多いことだな」
「そんなこと、ないですよ。殿はやっぱり殿ですから」

 郭嘉の嘆息交じりの同情に、呂蒙は苦笑しながらそう言い、頭を下げて回廊へと消えた。
 周瑜はホッと息をついた。孫策は恐らく大丈夫だ。憤ってはいても、この間のような重く根深いものではない。孫策は決して愚かではないのだ。気性が真っ直ぐだから、一度頭に血が上ると、目先のことで一杯になってしまうが、少し冷静になれば自分を正しく省みることのできる男である。孫策の直情的なところは、時に短所となるが、反面で孫策を孫策たらしめる、彼を覇王たらしめる要素でもあった。

「そういえば」

 席に戻りながら、ふと周瑜が思い出したように言った。

「奉孝は、曹洪殿とはご懇意ですか?」
「曹洪って……曹子廉殿のことか? うちの殿の従弟の」

 少し吃驚した調子で、郭嘉は答える。
 衣を捌いて腰を落ち着けてから、卓に頬杖をついた。


「そりゃ知ってるよ。わりと話もするし。子廉殿がどうかしたのか?」
「いえ……随分昔のことなんですけど」

 周瑜は含み笑う。懐かしむように、視線を遠くへ投じた。

「まだ大殿……破慮様がご存命で中原が董卓の暴政の最中だった時に、破慮様の命で伯符さまと二人で、河内に駐屯されていた曹公に書簡を届けに行った事があったんです」
「殿に?」

 一層驚いた風な問いが返ってくる。ええ、と周瑜は頷いた。

「反董卓連盟軍が結成されていた頃です。記憶が正しければ曹公はまだ奮武将軍でいらしたかと」
「へぇ、それは俺がまだ殿に仕えるずっと前だな」

 少し羨ましそうに郭嘉は言った。

「有名無実の集団だったあの中で、破慮様と曹公だけが董卓と闘うべく行動を起こしておられた。だから破慮様は曹公と手を組んで董卓を討つ策を講じられて、私たちはその是非を問う書簡を託されたのです」

 実際は河内太守であった袁紹の方にも別の書簡を承っていたが、そちらは名目上だけのものだった。当時袁昭は曹操よりも高位にあり、名実ともに関東軍の盟主でもあったから、袁昭を素通りすることは適わなかったのだ。

「じゃあその時殿と会ったのか?」
「いえ」

 周瑜は、ほんのわずかばかりだったが残念そうな響きを滲ませて、首を振る。

「折り悪く袁紹ともども酸棗まで外出された後で、入れ違いになってしまったのです。その時通りかかられたのが曹洪殿で、酸棗まで追いかけると言った私たちに、お目通りのために一筆書付けを下さいました。ただその後少々予期せぬことが起きて、結局酸棗にも行かず、曹公ともお会いせぬまま帰ってしまったのですが」

 そう語る周瑜は、懐念に双眸を細めた。遠き日の思い出に思いを巡らせる。あの頃は周瑜も孫策もまだ若く幼くて、世界は自分よりもずっと大きかったが、それでも夢と希望に輝いていた。反面で、世の悪相と理不尽さに直面して悔しい思いをしたのも、あの頃だった。

「あの時袁紹の衛はまともに取り合ってくれなかったのに、曹洪殿は―――少々挑発的なことも仰いましたが―――我々に対してちゃんと接して下さった。あの時のご好意に、未だお礼を言えずじまいなのが少し気がかりです」

 話し終えてから、凝視してくる郭嘉に気づいて、周瑜はなんとも言えず居心地が悪くなった。

「何か?」
「いや、珍しく饒舌だなぁと思って」

 「そうでしたか?」と首を傾ける。それを見て郭嘉が微笑んだ。

「公瑾殿にとってそれはよほど思い入れのある出来事だったんだな」
「そう……ですね。そうかもしれません」

 確かにあの時の経験は、忘れたくても忘れられないものがある。あの時に味わった苦渋も緊張も、そして畏れも。話すうちに知らず熱が篭っていたとしても不思議ではなかった。

「それにしたって律儀なことだ、そんな昔の恩をまだ覚えてるなんて。きっと子廉殿本人も覚えてないよ」

 磊落に笑われ、「そうでしょうか」と釈然としない顔をする。

「何はともあれ、親切料として銭をせしめられなかったのは幸いだったな」

 曹洪は、その武勇も人柄も定評ある名将だが、唯一金に意地汚いところが欠点だった。「曹子廉に金を借りるな」は曹軍中では暗黙の了解となっている。うかつに借りれば十日で一割の利息がつくと専らの噂だ。

「はぁ」

 どうも分かっていない態度で周瑜は曖昧に相槌を打つ。それから再び記憶の底を浚う。
 思えば、周瑜も孫策もあの時に曹操と会う機会があったのだ。そう考えてみるととても惜しいことをした。今では最早不可能に近い、その人となりを間近で見極められる貴重な機会だったし、何より周瑜も孫策も曹操という傑物に会ってみたかった。しかしあの時は孫堅の身柄の方が心配で、それどころではなかったのだ。
 しかし、と郭嘉が感心したように鼻を鳴らた。軽く腕を組むようにして、口元に手をやる。

「あの子廉殿がねぇ。ま、確かにそういうところは結構気のつく人だけどな」
「お会いしたら、どうかお礼を申し上げてください。もう覚えていらっしゃらないかもしれませんが」
「お安い御用だよ」

 快く引き受ける反面で、郭嘉はそれにしても、と独りごちるように面を伏せた。
 あの時期に周瑜たち―――正確には孫軍だが―――があのあたりに来ていたことに、これまであまり思い至らなかった。しかし孫堅は豫州刺史も勤めたことがあったのだから、周瑜たちがその付近にいた可能性は確かにある。そして丁度その頃、郭嘉も豫州にいた。
 豫州と言っても広大なので一概には言えないが、ともすればどこかで出会っていたかもしれないし、あるいはすれ違っているかもしれない。その時ふと郭嘉の脳裏に何かが引っかかったが、形を成す前に霧散してしまった。
 いずれにせよ考えてみれば、郭嘉と周瑜の縁はかなり早い段階で掠めていたのだ。もしもうほんの少し間が合いさえしていれば、こういう形ではなく別の知り合い方があったのかもしれなかった。そうすれば、また別の未来が待っていたのだろうか。この得難い才気に満ちた英俊と、あるいは親友として、共に未来を語り合い戦場を駆けることもあったのだろうか。
 そう思うと、運命とは真に気まぐれで、計りがたいものだ。
 もしもと考えている自分に気づいて、詮無いことだ、と郭嘉は心中で首を振った。

(言ったところで過去は変わらない。一度分かれた道は、元には戻らない……)

 それがたとえ、いずれ戦場で殺しあう未来に繋がろうとも。
 郭嘉は静かに瞼を伏せた。懐に仕舞った玉に、重みを感じながら。
 冬至は、近い。




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